歴史コラム

織田信長の比叡山焼き討ちはボヤ程度の被害だった!?

織田信長による比叡山焼き討ちは、その残虐性を表す出来事として伝えられています。

しかし、滋賀県教育委員会が1981年に調査したところ、大規模な火事があったとされていた堂塔坊舎には、焼き跡や人骨などの物的証拠が見当たりませんでした。比叡山焼き討ちの前年の史料によれば、当時の僧兵や僧侶たちは堕落しており、堂塔坊舎も信長が焼き討ちするまでもなく荒れ果てていたと記録されています。

 

織田信長による比叡山焼き討ちの背景

 

比叡山の領地を信長が横領した事から両者の対立が始まったとされています。

1569年に、比叡山側が朝廷に働きかけて領地回復が認められましたが、信長がこれに従わず両者の溝が深まるばかりでした。

 

そんな状況下で、信長は1570年に浅井・朝倉氏を姉川の戦いで破りましたが、本拠地を制圧するには至りませんでした。災難は続くもので、三好三人衆が信長に反旗を翻し摂津へ侵攻し、織田軍は撃破に向かう事に。それと同時に、石山本願寺も反信長包囲網に加わり、それに呼応するように浅井・朝倉軍が南近江の坂本の町まで攻めてきました。

摂津へ向かっていた信長でしたが、岐阜と京都を結ぶ重要な土地であった南近江を守るために兵を戻しました。すると浅井・朝倉氏は比叡山延暦寺に立て籠もり【志賀の陣】となりました。

 

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更に追い打ちをかけるように、伊勢長嶋の一向一揆が活発化し、織田信興が切腹しました。

そんな四面楚歌の状態を打破するべく信長は、敵対していた足利義昭を説得し和議に持ち込むことに成功しました。この和議で危機的状態は脱しましたが、周りの敵がいなくなったわけではありません。

 

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敵対する、浅井・朝倉氏の軍事拠点として機能してた比叡山は、織田家にとっては落とさなくてはいけなませんでした。

当時の比叡山の麓にある坂本の町は、比叡山を降りた僧侶たちが住民たちを支配していました。延暦寺にもろくな僧侶が残っておらず権威だけが残っている有様でした。

 

こうして信長によって焼き討ちがなされ、その後は再建も許されずしばらく延暦寺は荒廃した状態で放置されることになりました。

信長としては、見せしめの行為だったのが、話が広まるにつれ尾ひれがつき、大げさになっていたのだと考えられます。つまり、比叡山の焼き討ちは確かに存在しましたが、従来言われていたものよりずっと小規模なものだったと考えられています。

 

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比叡山は3回焼き討ちににあっている

 

これまで比叡山延暦寺は、信長のほかに2度の武家との抗争により焼き討ちに合っています。寺院と聞くと無力な僧侶たちが一方的にやられたのではないかと思われますが、当時の比叡山は僧兵を多く抱える武装集団で、最澄の名のもとに朝廷や幕府に大きな影響力を持っていました。

平安時代の白河法皇も、比叡山の僧兵どもは私も制御できないと嘆いていたそうです。

鎌倉幕府創立者の源頼朝も延暦寺の要求を飲み重臣を追放したとされています。

上記のように時の権力者たちも手に負えないくらいの、威光と軍事力をもった比叡山延暦寺は聖域だったのです。

 

足利義教が比叡山勢力の取り込みを行う

 

比叡山延暦寺と武家の争いの初めは、室町6代将軍・足利義教から始まりました。

元々義教は、天台座主の地位にあり、比叡山延暦寺の住職を務めていました。将軍になり、還俗したのをきっかけに、弟に座主を任命し比叡山を幕府に従わせようと考えました。以前記事でも書いたように魔将軍の異名が付いている義教は、支配欲がとても強く京都付近に幕府や朝廷をも脅かす存在があるのが許せなかったようです。

 

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しかし、義教の比叡山の従属化は諸大名の反対が多く、ほとんどが不発に終わり思い通りにいきませんでした。それに業を煮やした義教は、1435年に僧たちをおびき寄せ斬首するという強硬策に出ます。

当然、延暦寺側の反発は強く、僧たちは根本中堂こんぽんちゅうどう)に立て籠もり、足利義教を非難します。それでも、将軍・義教は、延暦寺に対する厳しい対応を緩めることはなく、失望した僧たちは根本中堂に火を放ち焼身自殺を遂げてしまいます。

 

足利義教との争いは、焼き討ちを言うより自ら火を放ったようですが、初めて延暦寺が大規模に焼失した事にはなります。

その後、嘉吉の乱で将軍・義教が暗殺されると、延暦寺は再び武装するようになり、数千の僧兵を擁した大規模な戦闘集団になって行きます。

 

細川政元による比叡山焼き討ち

 

1499年の焼き討ちには、室町幕府の管領・細川政元によって行われました。

この時は、応仁の乱等の影響で将軍家の権威が失墜しており、10代将軍・足利義稙が管領・細川政元と対立し、将軍が追放される明応の政変が起きました。

細川政元は11代将軍・足利義澄を擁立して幕府の実権を握りますが、追放された足利義稙は政権復帰を目指し、諸大名たちが二つの派閥に分裂していました。

 

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この将軍家の権力争いに介入してきたのが、比叡山延暦寺でした。

このあたりから延暦寺は、寺院と言う立場を見失ったただの武装集団(戦国大名)化したと考えられています。

この時、足利義稙比叡山に立て籠もり機会を伺う事にしました。

比叡山は京都のすぐ近くにあり数万の兵を収容できます。その比叡山が敵対勢力に付かれると戦術的に細川政元はが不利になるので不利になるので、1499年7月11日に根本中堂を初め、大講堂や法華堂など、主要な施設は全て焼焼き払い、延暦寺は再び大きな打撃を受けます。

 

殺生を禁じるのが仏教の教えであるのに、延暦寺は僧兵を従えるという矛盾を犯し、武家の権力争いに加担した為に、世間も延暦寺に冷たい視線を送るようになります。こうして、延暦寺の権威の失墜と暴走が激化していくのです。

 

その後の比叡山延暦寺

2回の焼失事件に見舞われた延暦寺でしたが、何も改善されることもなく織田信長による焼き討ちが行われることになります。詳細は、先ほど書いた通りで、この焼き討ちによる織田信長に対する非難はさほど上がらず、朝廷からの抗議もなかったと言われています。

比叡山は本来、京都の鬼門封じる役目を持った寺院で、朝廷からの信頼も厚かったのですが、この頃には朝廷からの評価も失墜してたのだと思われます。

 

江戸時代の新井白石も【残忍な行いではあるが、比叡山の悪行を止めたという点では、信長の功績はあまりにも大きい】と評価されています。

 

その後、焼き討ちで生きのびた延暦寺の僧たちによって、豊臣秀吉や徳川家康に接近し武家との関係修復にあたりました。そして、徳川家光の代になってやっと根本中堂の再建事業が開始され、1641年に完成しました。

現在の根本中堂は、この時に建築されたもので、1953年には国宝に指定されています。

江戸幕府は、寺院を全て統制下に置いて管理していたので、以後の延暦寺が、独自の権力を保有したり、僧兵を蓄えるようなことはなくなりました。こうして増長していった寺院勢力は武家に打ちのめされ、支配下に置かれ、本来のあるべき姿へと戻っていくことになりました。

 

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miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。