鎌倉幕府の歴代執権・北条氏がどのように権力を掌握していったのか?
鎌倉幕府の執権が将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職であることは、他の記事でも書いた通りです。源頼朝時代は、将軍独裁政権だったので執権職は、さほど重要職ではありませんでした。
しかし、頼朝が亡くなると、妻・北条政子を中心に自分の子供や孫までを葬り鎌倉幕府内で北条政権を打ち立てることになります。
政子が「なぜ源氏政権から北条政権を目指したのか」ですが、自分自身の権力保持のためであって北条宗家のためではありません。それが証拠に政子は親である北条時政さえも追放をしています。
北条政子が自ら進んで子供や孫を葬ったのか、仕方がなかったかの、心内は本人しかわかりません。
前置きはさておき、頼朝亡き後の鎌倉幕府においては政所別当を執権と称しており、初代政所別当は大江広元でした。この広元を初代執権とするかは賛否ありますが「政所別当」という地位に注目すると、頼朝亡き後の北条氏の行動が理解できると思います。
そこで今回は、鎌倉幕府の歴代執権をたどりながら北条氏がどのようにして権力を掌握していったのかを見ていきましょう。
初代執権 北条時政 と鎌倉幕府成立
源頼朝の妻・北条政子の父・時政は、伊豆国の北条地方を統治していました。1180年に平氏の追撃が東国へ迫ってきた時、源頼朝を支援するために時政自身も出陣しています。
そうして娘婿と共に参戦した治承・寿永の乱が終結した1185年に北条時政は源頼朝の命をうけ兵を率いて京へ出陣し、守護・地頭の設置を朝廷に認めさせることに成功させます【文治の勅許】。
1199年に源頼朝が死去すると、源頼家が二代目将軍となりますが、将軍独裁政治を停止させるために、宿老たちによる【13人の合議制】が発足し、北条時政を含む13人が幕府の中心人物として名を連ねました。
源頼家が将軍になると頼朝在任中に抑えられていた有力御家人たちの不満が爆発し、侍所別当・梶原景時が失脚(梶原景時の変)し、1203年には将軍家の外戚として力を持ち始めた比企氏を滅ぼし、将軍頼家自身の将軍職も廃し追放させます【比企能員の乱】。
こうして北条時政は幕府の有力御家人たちと将軍までも追放し、頼家の弟を実朝を将軍に擁立して大江広元と並んで政所別当に就任しますが、その権限は広元よりも強く、実質的に幕府における専制体制を確立していました。
大江広元と北条時政の初代執権論争は、専制的な権力を得ていたかどうかで考えられているようです。
こうして有力幕僚を蹴落としてる間も、領土拡大はされており13人の合議制の前は、小さな豪族だった北条氏も、この頃には三浦氏や畠山氏に対抗できるだけの軍事力を有するまでなり、武蔵国の勢力拡大のために畠山重忠と争いました。
時政は畠山重忠の乱には勝利しますが、無実の畠山重忠・重保父子を謀殺した上に娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企てたことで、実の子供・北条政子・義時姉弟によって出家させられ鎌倉を追放させられています。
- 京へ出陣し守護・地頭の設置要求【文治の勅許】
- 13人の合議制が発足し北条時政が名を連ねる
- 梶原景時の変・比企能員の変により有力御家人を排除
- その結果、政所別当に就任し大江広元よりも権力を持つ
二代執権 北条義時 による将軍暗殺
北条時政の次男の義時は畠山重忠の乱の後、父を追放し政所別当となりました。
その後、義時は侍所別当であった和田義盛を滅ぼし侍所別当も兼務しました。以降、政所別当と侍所別当を兼務する者が執権となり、この職は北条得宗家が世襲していくことになっていきます。
この北条義時の時代に起こった最大の事件が将軍・源実朝の暗殺です。
実朝暗殺に伴い源氏の血が絶えると、後鳥羽上皇が北条義時討伐の院宣を下し承久の乱がおこりました。日本で初めての武家政権と朝廷の戦いは、武家政権側の北条義時が勝利し後にも先にも、朝廷を武力で倒した武家として後世に残ることになりました。
一方で敗戦した後鳥羽上皇は隠岐に流されることになり、以後幕府は京都に朝廷の監視役である六波羅探題を設置。幕府が皇位継承にも大きな影響力を与えるようになり、幕府主導の政治体制が固まりました。
これにより、将軍の代理として権力を持っていた執権職の北条氏が実質的な鎌倉幕府の支配が100年以上続くことになります。
源実朝の暗殺により、四代将軍には藤原頼経が迎えられ、しばらくは摂家将軍が続くことになります。
- 執権を北条得宗家に世襲
- 源実朝暗殺
- 承久の乱の勝利により執権政治の確立
- 六波羅探題の設置
三代執権 北条泰時 の御成敗式目制定
北条義時の長男・泰時は、伯母の北条政子が亡くなると、源頼朝以来の鎌倉幕府を宇津宮辻子に移して政務を執り行います。
裁判の迅速化を図るための連署や評定衆の設置し、本格的に北条執権体制の基礎を固めていきました。また、承久の乱以降新たに任命された地頭の収入などをめぐり度々紛争が絶えなかったため、北条泰時は京都の法律家に依頼して武家社会の健全な常識を基準として、統一的な武家社会の法典を作成しました。
これが武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)でした。
多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の上下に関わらず、えこひいきのない公正な裁判をする基準となる指針がこの法律です。
地方では法律を守るという概念が、弱肉強食の無法地帯でした。
こうした地方武士たちのために「従者は主人に尽くし、子は親に孝を尽くすように人の心を正直に尊び、曲がったものを捨て皆が安心して暮らせるように」ごく平凡な道理に基づいて書かれています。
この御成敗式目は日本で初めてできた武家の法典として、必ずと言っていいほど学校で習うので、法典を作った北条泰時と1232年成立くらいは覚えておくといいかと思います。
晩年は飢饉への対応と旧貴族と寺社勢力と地頭・御家人の調整役として尽力し、鎌倉幕府北条家の中興の祖として、この時代の名執権として名を残しました。
- 連署の設置
- 評定衆の設置
- 御成敗式目の制定
- 寛喜の大飢饉への対応
四代執権・北条経時
北条泰時の子は早くに亡くなったので、孫である経時が四代執権となりました。
この時代には、摂家将軍・藤原頼経が権力を掌握しようと北条家に反旗を翻す事件が起こります。そのため、経時は将軍・頼経を解任し藤原頼嗣を将軍にしました。しかし、前将軍の頼経が鎌倉に留まり五代将軍を補佐し続けたため、頼経追放計画をたてますが失敗。
これらの心労が祟り、執権職を弟・時頼に譲りました。
五代執権・北条時頼による得宗専制
北条時頼は、兄・経時の意思を継ぎ前将軍・頼経を鎌倉から追放する事に尽力し、反執権勢力を一掃に成功しました。さらに有力御家人三浦泰村を滅ぼし、将軍・藤原頼嗣も追放し、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を将軍として擁立しました。
以降、6代~9代まで将軍は宮家から誕生し、鎌倉幕府と朝廷の橋渡し役となり幕府の存在を正当化させることに成功しました。
こうして、時頼は北条宗家へ集中させていき、当時宗家の事を【得宗】と呼んでいたことから、上記の政治体制を得宗専制政治と呼ばれました。
さらに、政治面では裁判のさらなる迅速化のため、評定衆の下に引付衆を設置し訴訟や政治の公正を図り、京都大番役の奉仕期間を短縮するなどの政策を打ち出しています。
- 宮騒動
- 宝治合戦(三浦氏を討ち滅ぼす)
- 親王将軍
- 引付衆の設置
- 商人に対する法令
6代~8代までの中継ぎの執権・北条長時、政村
五代執権北条時頼の子・時宗が幼少のため成人するまでの間として、1256年に6代目執権・北条長時が就任します。実質の権力者は、病床の時頼が握っていました。
しかし、1264年に長時が病床に就くと、七代執権に叔父の北条政村が就任し八代執権・北条時宗へと渡していきました。
八代執権・北条時宗と元寇
6代・7代の中継ぎ執権を経て、北条得宗家の時宗が執権なりました。
1266年には、幕府転覆を狙った宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の擁立などを行いました。この頃は、若輩だったため、7代目政村と連名でい執権職に就いていましたが、1268年の運命の年、高麗より太宰府へ蒙古への服従を求める国書が送られてきました。
この年に正式に8代執権を継承し、二度にわたる蒙古襲来を経験する事になります。
モンゴル帝国からの国書を無視し続けた結果、1274年に元軍が日本に襲来した(文永の役)が勃発します。御家人たちの活躍により大陸最強の元軍を退けることに成功します。その後、さらなる攻撃に備え、異国警固番役を拡充し長門探題及び長門警固番役を新たに設置。
さらには、現在も博多湾に残る石塁を作るなどの国防強化に尽力しました。
1281年の二度目の元寇(弘安の役)では、北条時宗の指示の下、御家人たちが戦場に派遣され善戦しました。2か月近くの攻防の後、元軍は台風の被害に合い混乱し、日本軍の総攻撃で壊滅しました。
こうして、北条時宗は二度の蒙古襲来を撃退しましたが、その後の御家人に対する恩賞とさらなる元軍襲来の国防問題が積み重なり、その心労で1284年に32歳の若さでこの世を去りました。
- 文永の役
- 弘安の役
九代執権・北条貞時 と元寇の戦後処理
北条貞時は9代執権として元寇の後処理を父・時宗に代わり行いました。しかし、政権は安定せず、内管領の平頼綱が勢力をのばし、その讒言により有力御家人安達泰盛が滅ぼされています【霜月騒動】。
その後、平頼綱の恐怖政治が開始されましたが、北条貞時は頼綱を誅殺。執権体制(得宗専制政治)を取り戻します【平禅門の乱】。
また、元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するため、1297年に永仁の徳政令を発布しますが、これがかえって借金をしにくくなるという効果を招き、御家人を苦しめることになりました。
- 霜月騒動
- 平禅門の乱
- 永仁の徳政令
北条貞時~高時までの中継ぎの執権
1301年に九代執権北条貞時が執権の座を北条師時に譲ってからは、宗宣、煕時、基時が執権に。そして、とうとう十四代執権に北条高時が就任することとなります。
十四代執権・北条高時から最後の執権まで
北条高時は貞時の四男で14歳で執権となりますが、実権は内管領の長崎円喜らが握っており、ほとんど形式的な存在でした。病弱なため24歳で執権職を辞し1326年には北条貞顕が15代執権となっています。
ところが、北条氏得宗家の家督争いを巡り内管領の長崎氏と外戚安達氏による内紛・嘉暦の騒動によりわずか10日余りで辞任。
その後、16代執権に北条守時が就任し、これが鎌倉幕府最後の執権となりました。
そして、1333年5月22日の新田義貞の鎌倉攻めによって、得宗北条高時をはじめとする北条一族が東勝寺で自刃し鎌倉幕府は滅亡します。
幕府の誕生の地・鎌倉のその後…
その後の鎌倉は、室町幕府将軍・足利尊氏の子・基氏が鎌倉公方として関東一帯を統治させました。その補佐役として関東管領職が設置され代々上杉氏が世襲する事になります。
しかし、応仁の乱がおこると関東での足利氏の力が衰え、関東管領の力が強くなり戦国時代へ進んでいきます。その頃になると、後北条氏(執権北条氏とは別の北条)が関東一帯を治めるようになり、政治の中心だった鎌倉の地は衰退していくことになります。