鎌倉殿の13人

源頼朝の平氏滅亡から鎌倉幕府設立、謎の死までの53年の生涯

歴ブロ

鎌倉幕府を開いた人物として日本史で必ず教わる源頼朝は、武家政権のパイオニアとしていかにも立派な人物のイメージがあります。

※上の肖像画は別人のもの説が有力になりつつあります(後述)

しかし、その半生は父親が平清盛に敗れ約20年も伊豆で謹慎生活を強いられ、打倒平氏を掲げるも出鼻をくじかれ敗れるなど輝かしい経歴ばかりではありませんでした。

今回は『鎌倉殿13人』の初代・鎌倉殿【源頼朝】について書いていきます。

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源頼朝の誕生

源頼朝は、1147年源義朝の三男として生まれました。

母は藤原南家の季範の娘である由良御前。南家ではありますが、藤原家と縁ができたことで政治的にもとても大きな縁談だったと思われます。熱田の大宮司だった藤原李範は北面の武士だったり後白河上皇の母や姉に仕えたりすることが多かったようです。

北面の武士とは?

院御所(太上天皇や法皇などの退位した天皇の御所のこと)の北側の部屋の下に詰めた上皇の身辺警護や行幸にお供する武士のことで11世紀末に白河法皇が創設しました。

源義朝には、長男・義平がいました。

父・義朝は、元々関東の出でしたが、関東を義平に任せ自身は婚姻を通して鳥羽上皇などの治天の君いに近づこうとしていたのだと思われます。

藤原氏の血を引く母の息子として生まれたことから頼朝は【源氏の御曹司】と呼ばれるようになりました。

 

源氏の流れが上向いたのは1156年頃で、父・義朝が保元の乱で後白河天皇に味方し、勝利すると、その二年後には頼朝が上西門院に仕えるようになります。これにより、親子そろって朝廷の臣下になったのです。

1159年には、二条天皇の蔵人となり朝廷の内部にもかかわるようになります。

れきぴよ
れきぴよ

蔵人…日本の律令制下での感触の一つで天皇の秘書的役割を果たしました。

イケメンだった源頼朝

ここで少し話がそれますが、実は京都の神護寺にある源頼朝の肖像画が近年では別人ではないかと考えられています。では、どんな顔だったのかが、平治物語や同時代の人が頼朝について色々と書き記しています。

それらをまとめてみると…

  • 年齢より大人びて見える
  • 顔は大きいが美形である

というのが共通していてるようです。

また、身長は甲冑から推測し165cmほどで平安末期当時では平均より大きいとされています。

皇室の血を引き美形でかつ高身長の源氏の御曹司。宮中ではとても評判が高かったようです。そのためか、頼朝は度々女性に助けられ窮地に一生を得ています。

源頼朝の初陣と伊豆へ幽閉

1159年平治の乱が起こると、頼朝は天皇の親衛隊として出兵します。

しかし、官軍となって平清盛が内裏へ攻め寄せ、賊軍となった源義朝らは敗れ京から 逃れて東国を目指しました。

辛くも京から逃れた源頼朝は近江の地でとらえられ京の六波羅へ送られました。死罪が当然視されますが、清盛の義母・池禅尼が頼朝に味方しました。

この池禅尼とはとても先見の明がある人で、平清盛が保元の乱の際、崇徳上皇と後白河天皇のどちらかにつくか清盛が迷っていたところを、「上皇様に勝ち目はない」と助言し後白河天皇に就くように勧めたとされています。

さらに、清盛の異母弟の頼盛には「必ず兄に従いなさい」と言いつけ、平家分裂を防ぎ一族を裏でまとめていました。そんな池禅尼は、清盛以下平家一門は頭が上がらない人物でした。

池禅尼は崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母であったのにもかかわらず、冷静に状況を判断できる方だったんですね。

また、頼朝は二条天皇に仕えてた上に、母方は三種の神器・草なぎの剣の本体を祀る熱田大神宮の家の出で非常に皇室と縁が深かったのです。こうして、自身の血を含めいくつもの皇室との縁が相まって上西門院からも頼朝の助命嘆願があったとされています。

平清盛自身も「義母に逆らえば異母兄弟を敵に回し、女院の嘆願をはねのければ皇室を敵に回す」と考え、周りに敵を作らない方針の清盛は双方の嘆願を飲む寛容な決断しました。

こうして清盛は、源頼朝の処刑を取りやめ伊豆へと流刑としたのでした。

結果的に中央政界としては正しい判断とされましたが、歴史的には【伊豆を含めた東国が基本的に源氏が支配されている】という事態になることを軽視した伊豆への流刑だったと言わざる得ません。

 

源頼朝の伊豆での謹慎生活

流刑とはいえ、伊豆での頼朝はかなり自由な生活をしていたと考えられてます。

房総半島まで行った事もあるようですし、平治の乱で源氏についた武士が伊豆まで逃れ、頼朝に仕えたと言います。また、狩や京都にいる知人に手紙のやり取りもしていました。

監視もあったものの、担当の伊藤裕親や北条時政が頼朝に味方していたので、監視はあってなかったようなものでした。

どっちかと言うと、流罪と言いうより左遷と言うのがしっくりくるかもしれません。

また、頼朝本人も約20年の歳月を関東でおとなしくしていたというのが後の成功の秘訣とも言えます。現代よりはるかに寿命の短かった平安時代に33歳の頼朝がさらに20年の歳月を我慢したというのがあっぱれです。

伊豆での謹慎生活は史料ではほとんど残っていないようで、詳細はあまり知られていません。はっきりしていることと言えば、伊豆の御家人、北条時政の長女・政子と婚姻したことくらいです。

Q
平清盛と後白河法皇の関係

平治の乱以降、平清盛は妻の人脈を生かし急速に皇室に入り込み、広大な荘園を手に入れ、日宋貿易で得た莫大な富を得ていました。

当然、武士なので武力もあります。それにより、京の都の何もかもが平家の思い通りになっていました。

保元・平治の乱では飛びぬけた感覚を見せていた清盛でしたが、権力・富・自信がそろってしまうと以前のようなバランス感覚に長けた清盛の姿はありませんでした。

そうなると、反乱因子が燻りひそやかに平家打倒が模索され始めます。

まずは、1177年鹿ケ谷の陰謀です。

後白河法皇を中心に平家打倒を相談していたら、清盛側に情報が漏れこの陰謀は前もってつぶされました。清盛によるでっち上げともいわれていますが、関係者は全員何らかの処分を受ける事になりました。

この事件以降、後白河法皇は強引な手口で清盛の影響力を小さくしていこうとします。

清盛の息子や娘が若くして亡くなったことにつけ込み、清盛への相談なしに彼らの荘園や領地を没収してしまったのです。

このやり方に当然清盛は激怒し、後白河法皇を幽閉し権力を行使できなくしました。

これが【治承三年の政変】です。

今回は法皇側が一方的に悪いんですが、日ごろから恨みを買っている清盛が治天の君を幽閉した事で平家討伐の機運がさらに高まりました。

1180年、後白河法皇の皇子・以仁王が平家に対し挙兵。

彼は中央で兵を挙げたためすぐに鎮圧されましたが、時間差で各地の武士に【平氏打倒の命令書】が送られました。その中の一通が伊豆に住む源頼朝にも届けられるのでした。

源頼朝の挙兵、いざ鎌倉へ!!

仁右衛門島

伊豆での20年の生活で、周辺の武士たちにかなりの信用を得ていた頼朝は、彼らをまとめ上げ挙兵をしました。まずは、河内源氏の源頼義以来の地・鎌倉を目指します。

しかし、石橋山の戦いで平家に敗れ、安房まで逃げ延びました。この時、頼朝一行は10人程度でケチョンケチョンにやられたそうです。

逃げた頼朝一行を助けたのは、地元の平野仁右衛門でした。

仁右衛門は頼朝らを島の洞窟にかくまい、頼朝はその後恩を忘れず後に仁右衛門にその島を与えています。それに由来して、この島は【仁右衛門島】と呼ばれるようになり、今でもその子孫が暮らしているそうです。

見事出鼻をくじかれた頼朝でしたが、それでもあきらめませんでした。

再び北条時政や三浦義澄に合流し、兵力を補給するため、上総広常や千葉常胤に協力を求めました。

彼らは平氏ゆかりの家系で千葉では有力な豪族でした。しかし、千葉常胤は平治の乱で源氏側につき、上総常弘は頼朝の親戚にあたる子供をお守りしていたので、心情的には源氏寄りでした。

こうして協力を得た頼朝は葛西清重などの武蔵周辺の武士たちを取り込み、鎌倉へ入ることができました。頼朝の鎌倉入りは京都の清盛にも情報が入り、直ちに息子・維盛を大将に討伐軍を派遣します。

しかし、1180年10月に平家軍は富士川の戦いで敗戦し命からなが逃げ帰ってしまいます。この情報に、源頼朝は追い打ちをかけるために西上しようとしますが、千葉常胤に「まずは関東を抑え後顧の憂いをなくしたほうが良い」と進言され地盤固めをすることに。

そして、頼朝らは年明けまでに常陸の佐竹氏や上野の新田氏を抑え込むなどをし、関東のほとんどを重臣させることに成功します。

また、侍所・問注所を同時に作り、家中の統制を図りました。

年が明けた1181年、頼朝は再び平家と激突しますが墨俣川の戦いでは源氏が敗れるなど簡単にはいきませんでした。

そのため、頼朝から後白河法皇に「朝廷に謀反を起こす気はないし、平氏と和睦しても良いよ」と言う書状を送っています。頼朝がそんなことを書いたのも墨俣川の戦いの1か月前に平清盛が病死していたためでした。

源頼朝にとって平家との戦いは父の仇である清盛を討つことが目的だったのです。

その清盛がいないとなると、争う意味が薄れてしまいます。また、平家に背くことは朝敵になる恐れもありました。

しかし、平家側に政治的手腕を持つものが少なく「せっかく命を助けてやったのに背きやがって滅ぶべし」となったのでしょう。

こうして源氏と平氏の平和的解決が不可能となりました。

 

源頼朝と木曽(源)義仲

各地に散らばっていた源氏の武将たちは次々と挙兵し京へ近づいてきます。

その中で木曽義仲は京都へ入りますが、義仲軍の粗暴な行為に困り果てた後白河法皇は平家追討の院宣を義仲に与え都から遠ざけ、その隙に鎌倉の頼朝に上洛を促しました。

後白河法皇はひそかに上洛した頼朝に義仲追討命令をだし、1184年に頼朝は源義経と範頼を派遣し近江国粟津ヶ原で激突し木曽義仲は戦死しました。

木曽義仲とのいざこざの間に平家は京から福原へ逃げ延び、源氏との決着のため兵力を整えたのでした。

平家が都落ちした際、安徳天皇三種の神器を持ち去り西国へ落ちていました。

安徳天皇がいなくなった朝廷では平家が都落ちした後改めて別の天皇を即位させることを決定していました。この天皇が後鳥羽天皇です。この時、日本では2人の天皇が存在する異例の事態が発生していたのです。

そこで後白河法皇は源頼朝に平家討伐の命令を下し、同時に三種の神器の奪還を命じます。

この一ノ谷の戦いでは後鳥羽法皇の暗躍と源義経の活躍により、平家滅亡を決定づける戦いでした。

屋島の戦い

一ノ谷の戦いで勝利した源頼朝ですが、深追いはせず半年の時間をかけて京都の治安維持と兵力回復に努めました。その後、体制が整うと、頼朝は改めて範頼を平氏追討の総大将とし、西へ向かわせます。

しかし、ここで暗躍していたのが後白河法皇でした。

法皇は将来起こりうるであろう源頼朝との政争に備え、源義経を懐柔しようと平安京に残る義経に役職を与えて緊密な関係を結ぼうとしていました。政治力がいまいちだった義経は素直に役職を与えられて喜んだと言われています。

しかし、源平合戦後に武家による新政権樹立を目論んでいた源頼朝は大激怒。しかも、政権トップの弟が武家政権に反対する後白河法皇に懐柔されるなどあってはなりません。

しかし、この時はまず平家を何とかしなければなりません。義経の処分は保留という事で、苦戦する範頼の援軍として義経は屋島の戦いに挑み勝利を収めています。

そして、とうとう平家が滅亡する壇ノ浦の戦いへと進んでいくのでした。

この壇ノ浦が平家との最終決戦の地となります。

屋島の戦いで平家の敗北を知った周辺の者たちが次第に源氏軍に味方しはじめ、義経率いる源氏軍の兵力も大所帯になっていきました。

この戦いは本格的な海戦で、義経も平家も水軍を出撃させています。一方で九州の源範頼は、平家の背後をつくために海岸線で兵を構えていました。

これに負ければ滅亡と絶望的な状況ですが、戦いの序盤は海を熟知した平家が有利に戦いを進めていきました。この戦いでも、源義経の活躍で勝利を収めることができました。

源頼朝と鎌倉幕府成立

平家を滅ぼした源頼朝は内部の粛清に取り組みます。

まず第一は源義経の問題です。

先述した許可なく官位を受けた事が、まだ官位を与えることができない頼朝の存在を根本から揺るがすもので、許される事ではありませんでした。

また、壇ノ浦の戦いで安徳天皇や二位尼を自害に追い込み草なぎの剣を紛失した事も頼朝の戦後構想を変えざる得ない出来事でした。

そして、戦いで義経の名声が高くなったことが後白河法皇の信用も高めました。後白河法皇が武士たちの人心を集めた事実は武家政権確立を目指す頼朝にとって脅威となりました。

このまま放置すると、東国武士の分裂の恐れがあります。

そこで、頼朝は義経討伐を決意したのです。兄弟の争いに発展するかと思われましたが、義経のもとに兵が集まらず泣く泣く義経は京都を出て行きました。

 

源義経を排除した後、義経を取り込もうとした後白河法皇にも制裁を加えました。

まずは、北条時政に命じ法皇が独裁を企んでいると大軍を率いて京都へ向かわせました。保元の乱以降、武士の恐ろしさを身に染みていた後白河法皇は、アッサリと降参し逆に義経討伐の院宣を出しました。

しかし、これでは収まらない頼朝は、法皇にいくつかの要求を出しました。

  1. 源義経と親しい院の側近を排除
  2. 源頼朝に近い公卿によって合議制を作る
  3. 九条兼実を内覧にする事
  4. 守護・地頭の設置許可
れきぴよ
れきぴよ

内覧…天皇に出される書類をあらかじめチェックする役職の事です。

 

現在では、1185年の守護・地頭の設置を持って鎌倉幕府の成立と考えられています。

源義経の討伐と奥州討伐

京へ追われた源義経は、奥州藤原氏の元へ身を寄せていました。

源頼朝は奥州藤原氏・藤原泰衡に義経を差し出すように圧力をかけました。

この頃の奥州藤原氏の内部では意見が二つに割れていました。最終的には頼朝の圧力に屈する形で、藤原泰衡が義経を切り捨てることに決めています。

こうして義経は1189年、衣川の戦いで藤原泰衡の兵に館を囲まれ、31歳の生涯を閉じることになったのです。

藤原泰衡はお家の保身のために、源義経を討ちその首を頼朝に差し出すことで鎌倉との和平を模索しますが、関東の後ろで長年独自の政権を敷いてきた奥州藤原氏を脅威と思っていた頼朝は、義経を長く匿った罪をかぶせて出兵し約100年の繁栄に終止符が打たれました。

こうして、源頼朝の支配地域が奥州まで拡大することになりました。

源頼朝の征夷大将軍就任

奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は後白河法皇の求めに応じ上洛し、権大納言・右近衛大将の役職を得ました。しかし、征夷大将軍を賜りたい頼朝はその職を早々に辞します。

この頃の頼朝は後白河法皇の孫である後鳥羽天皇との関係強化に力を入れており、長女の大姫の入内に渡りをつけようともしてました。そして、1192年に後白河法皇が逝去すると、後鳥羽天皇によって源頼朝に征夷大将軍が与えられました。

 

源範頼の最後

源義経同様に源平合戦で活躍した源範頼ですが、悲しい最期を迎えてしまいます。

征夷大将軍となった頼朝ですが、その後ほかの御家人からの反抗もなく、平穏に事が運んでいました。しかし、ここで思わぬ事件が起きます。

御家人の一人・工藤裕経が曽我兄弟の仇討ちによって殺され、これがなぜか頼朝に討たれたという誤報で鎌倉に伝わります。これに嘆いた妻・北条政子に対して範頼が「私が控えているので大丈夫ですよ」と言った一言を悪い意味で受け取った事で、謀反の疑いがあると判断されました。

そして、京都から帰った頼朝に対して政子は同じことを伝えます。また頼朝も政子と同じように悪い意味で受け取り、範頼の謀反の疑いがかけられることになりました。

これまで頼朝に忠実だった範頼でしたが、あらぬ謀反の疑いをかけられ伊豆へ流された後、不審死を遂げることになります。

ここで範頼と腹を割って話し、改めて忠誠を誓わせて息子たちの後ろ盾になれと命じていれば、頼朝の血筋はもう少し続いていたかもしれません。

 

源頼朝の不可解な死

範頼の件もそうですが、頼朝の晩年にはこのような事が多々多くなったと言われています。

源平の戦いや木曽義仲や義経、奥州討伐で心身とも疲れ切り、本来の頼朝の素晴らしい判断力が鈍ったかもしれません。

娘・大姫の入内の件に関しても、姫の気持ちを無視した行動で入内工作を進めた結果、成功する前に大姫が亡くなってしまいます。また、朝廷の後ろ盾だった九条兼実が失脚し、頼朝の朝廷に対する影響力が薄れてしまいます。

これまで政治的にミスがあまり見られなかっただけに、晩年のミスはまるで燃え尽き症候群になったかのような失策でした。しかし、御家人の統率だけは抜かりはなかったようです。

それでも朝廷の影響力を取り戻そうと、次女・三万の入内を計画しますが実現する前に源頼朝が亡くなります。

享年53歳でした。

その死は、いまだ不明で本能寺の変と同じくらい諸説が入り乱れています。

鎌倉時代の代表的な史料『吾妻鑑』にもその詳細は書かれておらず、葬儀のことすら書かれていないそうです。吾妻鏡事態が源氏三代に手厳しく北条得宗家の活躍が強調されていることから、もしかしたらもしかするかもしれませんね。

この頃の北条氏は時政と義時だったはずですがどうなんでしょうか??

このような妄想も歴史を学ぶ醍醐味かもしれませんね。

 

 

ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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