鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人は誰なの?鎌倉幕府の重臣13人を確認しよう!!

歴ブロ

源頼朝は平家打倒の兵をあげると、瞬く間に勢力を伸ばし新たな武士政権【鎌倉幕府】を作り上げました。

頼朝のもとには関東武士を中心に源氏の家臣、平家の治世に不満を持っていた者、頼朝の妻や母などのゆかりの人々や京都から新天地を求めてやってきた貴族など様々な人が集まり、源頼朝を鎌倉殿と呼んでいます。

頼朝の死後は息子の頼家が鎌倉殿を継承しますが、その地位は決して安定したものではありませんでした。

この鎌倉殿を支える存在として選ばれたのが、北条義時や父・時政をはじめとする13人の重臣たちです。

 

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十三人の合議制と鎌倉殿の13人

源頼朝死後に鎌倉幕府が創り出した集団指導体制を十三人の合議制と呼びます。

後の鎌倉幕府の役職として設置された評定衆の原型ともいわれています。

その幕府の重臣たちの13人が『鎌倉殿の13人』として大河ドラマとなりました。それでは、13人を一人ずつ紹介しましょう。

一人目・北条義時(1163-1224)

鎌倉殿の13人の主人公である北条義時は、伊豆国の官人を務める北条氏の生まれ。父には初代執権・北条時政・姉で源頼朝の妻・北条政子がいます。

北条政子が源頼朝と婚姻していた縁で、頼朝挙兵に協力し鎌倉入りしました。頼朝死後は、二代目・頼家を支える13人の重臣の一人に選ばれます。父・時政が3代目・実朝の執権となりクーデターを起こすと、それを政子と共に阻止すると幕府の実権を握り、次々と有力御家人を排除し北条氏の地位を確立していきました。

源実朝が暗殺されると、1221年に後鳥羽上皇と対立し、承久の乱が勃発しますが義時はすぐに京都へ大軍を送り込み、上皇軍を圧倒し勝利します。幕府が朝廷に勝利したことにより、朝廷の権威が失墜し、北条義時は幕府における最高権力者の地位を得ました。

ニ人目・北条時政(1138-1215)

北条義時、政子の父で、頼朝が挙兵すると一族をあげて支えました。

平氏滅亡後、源頼朝と弟・義経が対立すると、時政は頼朝の代官として京都へ上がり政治的な交渉や京都の治安維持にあたりました。

源頼朝が死去すると、二代目・頼家の元、13人の一人に選ばれますが、頼家の妻・比企氏と対立。時政は、比企能員を殺害すると、一気に比企氏を滅亡させ、源実朝を鎌倉殿(将軍)にしました。

その後、初代・執権として権勢をふるいますが、娘婿・平賀朝雅を鎌倉殿に仕立て上げようと、実朝暗殺を目論みますが、北条義時政子と対立して失脚し、退いた伊豆の地で10年過ごした後亡くなりました。

三人目・安達盛長(1135-1200)

明らかではありませんが、三河国を本拠地とする小野田氏の分流であるとされています。

伊豆で流浪時代の源頼朝を側近として支え、挙兵にあたっては相模国や下総国の武士たちのもとを訪れ参加を呼びかけました。

幕府成立後にも無量寺谷の入り口にあった邸宅には何度も頼朝が訪れ、目にかけていた事がうかがえます。

頼朝の死を悼み出家し、新しい鎌倉殿を支える13人に選ばれますが、その翌年頼朝の後を追うようになくなりました。

四人目・梶原景時(??-1200)

鎌倉の梶原を本拠地とした武士で源頼朝が挙兵すると、敵対する平家の勢力・大庭景親につきますが、石橋山の合戦で頼朝の危機を救ったことで信頼を得ます。

京都の貴族や徳大寺に仕えていた経験から文化的教養も高く、京都の貴族社会とも交流があり、平氏討伐の際には、源義経の元で侍大将として出陣の傍ら、朝廷との連絡・調整役も務めました。

しかし、頼朝死後、源頼家に対し、結城朝光が叛意を抱いていると讒言したことにより御家人たちの弾劾で失脚し、翌年戦死しました。

五人目・比企能員(⁇-1203)

源頼朝の乳母・比企尼の養子で、この縁から頼朝の挙兵に従いました。

源頼家が生まれると、比企能員の妻や比企氏の娘が乳母に選ばれました。また、頼家は、能員の娘を妻としたことで、比企一族を重用するようになります。

一方で、頼家の祖父にあたる北条時政は、頼家が重病になると、頼家の息子と弟・実朝に分割相続することを定めますが、頼家が反発します。頼家は、比企能員に北条時政追放を相談しますが、これを知った時政によって比企能員は殺害されてしまいます。

その後、比企氏は北条義時らに攻め込まれ滅亡しました。

北条義時の妻は、能員の姪にあったため、この騒動を機に離縁したと考えられています。

六人目・三浦義澄(1127-1200)

相模国の官人で、三浦郡を本拠地とした武士でした。

源頼朝が挙兵すると、三浦義澄ら一族は、石橋山に向かいますが、川の増水のために合流できず、引き返すことに…

その途中で、武蔵国の武士。畠山重忠に遭遇し戦います。さらにその後、平家の軍勢が三浦氏の居城衣笠城に攻め入ると、義澄の父が立てこもり、頼朝の加勢を託して自害しました。
一方で、義澄は海上へと逃れ、石橋山の合戦で敗れた頼朝を助けました。

頼朝が死去すると、13人の重臣に選ばれますが翌年死去します。

義澄の子・義村は北条氏に協力的でその後着々と勢力を伸ばしていきました。

七人目・和田義盛(1147-1213)

相模国三浦郡和田を本拠地とした義盛は、三浦義澄の甥にあたります。

源頼朝挙兵の際は、義澄共に参加し頼朝が安房国へ脱出したのちは、頼朝の近侍として信頼を得ました。

後に、御家人の統制を行う、侍所別当となりました。

頼朝が死去し、義盛に代わり侍所別当に就いていた梶原景時が失脚すると、侍所別当に再任しますが、一族の中に源実朝の廃位と北条氏の排斥を企てた者がいたことがきっかけに、2日で数千人の死傷者を出す和田合戦が起こります。

義盛は、三浦義村の寝返りもあり敗れ、戦死しました。

八人目・足立遠元(生没不明)

武蔵国足立郡を本拠地とする、足立氏の出身で、源頼朝以前からの源氏の家臣であったとされています。

石橋山の合戦で敗れた頼朝は、安房国・上総国・下総国を回り武蔵国へ入りました。

足立氏の本拠地である、武蔵国内では平家と結びつきが強いが、遠元は事前に頼朝の命を受け頼朝を迎えに上がりました。武士として活躍の一方で京都との縁も深く、文筆に長けていたことから、文章の保管や政務処理などを行う、公文所が開設されると中原親能と二階堂行政と共に活躍をしました。

娘の一人は、京都の院の近臣に嫁ぎ、別の娘は畠山重忠や北条時房に嫁いでいます。

九人目・八田知家(生没不明)

常陸国の出身の武士で、兄妹に平家や院に仕え、京都で活躍した宇都宮朝綱や源頼朝の乳母を務めた寒川尼がいました。

京都との人脈を持ち教養が高く、兄・朝綱に先んじて頼朝のもとにはせ参じ重用されたと言われています。

奥州藤原氏との戦いでは、東海道大将軍の一人として活躍しています。

知家の屋敷は、鎌倉幕府の南御門付近にあり、京都からの使者や鎌倉殿の滞在場所として使われていました。嫡男・知重は、小田氏をなのり常陸国の守護職や所領を持ち鎌倉時代通じて繁栄していきました。

以前書いた小田氏治のご先祖様です。

十人目・中原親能(1143-1208)

儒学を専門とする京都の下級貴族・中原広李の養子だとされています。

幼少期を相模国で過ごし、有力武士・波多野氏の婿となりました。

そのため、流浪時代の頼朝と知り合いで、頼朝挙兵の際に京都勢の中でもいち早く駆け付けました。京都との人脈を持っていたことから、上洛し鎌倉と京都の連絡役をしていました。

また、親能の妻は、頼朝と政子の娘・三幡の乳母で、親能自身も目をかけていました。しかし、三幡を天皇に輿入れさせる計画が進められる中、頼朝がなくなりその半年後に、14歳の若さで三幡もこの世を去り、親能は出家しました。

十一人目・大江広元(1148-1225)

中原親能と同じく、中原広李の養子で、実父は大江惟光とされています。

京都で、朝廷の実務官人としてキャリアを重ねていましたが、頼朝が挙兵すると親能との縁もあり鎌倉に向かいます。戦地には赴かず、京都の交渉や鎌倉幕府の整備に活躍し、政務処理を行う公文所や政所が設置されるとその別当となりました。

頼朝死後は、頼家の側近として使えますが、有力御家人らの対立からは一線を引く立場を取りました。

実朝の時代になると、北条氏との協調関係を保ち、鎌倉殿の政治を補佐するとともに、和歌などの文化的活動も支えました。承久の乱では、京都への進撃を強く希望し、幕府方の勝利に貢献しました。

十ニ人目・三善康信(1140-1221)

京都の下級貴族の三善氏の生まれで、頼朝挙兵以前は京都でキャリアを積んでいました。

京都の情勢に詳しく、流浪時代の頼朝に情報を流していました。京都から源氏討伐例の命令が出ているのを頼朝に伝えたのも康信で、その後奥州に逃げるように助言していました。

鎌倉に来てからは、京都でのキャリアを生かし、文章作成や寺社関係の職務に当たります。

さらに、訴訟機関の問注所が設置されると、初代の執事に就任し、鎌倉幕府の組織の整備に尽力しました。承久の乱がおこると、京都への進撃を進言した大江広元の後押しをしました。

十三人目・二階堂行政(生没不明)

東海地方を中心に発展した工藤氏の分流が二階堂氏です。

外観が二階建ての堂に見える邸宅に住んでいあることから、二階堂と呼ばれるようになりました。今も邸宅の周辺では、二階堂を言う地名が残っているそうです。

行政は京都でキャリアを積んでいましたが、頼朝の誘いで鎌倉に来たと考えられており、その経験をもとに、公文所の設置や寺社の差配、幕府の財政などの業務に携わりました。

政所が設置されると、長官・大江広元の下で実務能力を発揮していました。

頼朝死後は、13人に選ばれるも【吾妻鑑】には、これを最後に記録がありません。

十三人の合議制とは何か

源頼朝の死後、鎌倉幕府が作り出した集団指導体制のことを十三人の合議制と言います。

1225年に鎌倉幕府の役職として設置された評定衆(ひょうじょうしゅう)の原型になり、重要政務や裁判などを合議する役割を持ちました。

この制度により、二代将軍・頼家は政策や訴訟を直接決定するのではなく、有力御家人13人の話し合いを参考に最終判断する形で政治を行なっていくことになります。

どうして十三人の合議制が採用されたのか??

1199年に、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が亡くなると、第2代将軍となったのは頼朝の嫡子でまだ18歳の源頼家でした。頼家は若輩で実力もありませんでしたが、権力だけは振りかざしたい性格だったと言われています。

そこで、母・北条政子や一族の北条一族は将軍の権力を集中させないために、【十三人の合議制】を導入し幕府を運営する事を思いつきました。ところが、頼朝亡きあと幕府の主導権が公家出身の大江広元や中原親能の官僚タイプの人材に握られた事で有力御家人たちの不満が出た為ともいわれています。

「十三人の合議制」がもたらした結果

十三人の合議制を取り入れた結果、鎌倉幕府における13人の御家人たちや将軍・頼家が血みどろの権力争いが起こり、源氏将軍の権力が奪われました。

※この時代で参考になるのが『吾妻鑑』と呼ばれる鎌倉幕府の歴史書ですが、編纂したのが権力者の北条氏なので内容の客観性には疑問視されているのを前提に語っています。

制度の建前は若い頼家の政治力を補完するためだったと考えられますが、実際の【十三人の合議制】では、源頼家の実権を奪うものでした。

源頼家が将軍に就任したのが1199年の1月で、十三人の合議制になったのが4月。たった3ヶ月で源頼家は幕府の最高権力者からお飾り将軍の祖となったのです。 

実は、13人の重臣が常に勢揃いして会議を開いたわけではありません。

メンバーのうちの数名によって評議が行われ、それに対して頼家が最終判断を下す、というシステムだったようです。

 

これまで、北条義時や政子の歴史的評価はあまり良いとは言いません。

特に明治以降の天皇復権して以降は、朝廷への反逆行為をした挑戦者は冷たく扱われていました。北条義時や足利尊氏らがこれにあたります。

北条義時は承久の乱で朝廷を武力で倒した唯一の武将で、三人の上皇を配流もしています。また、江戸時代の歴史観でも武士道の道徳観念からも逸脱しており、君主への忠誠に逆らって源氏の将軍を途絶えさせ、実権を取り上げたと【逆臣】扱いを受けています。

北条義時やこの時代に関する史料は『吾妻鑑』くらいしか参考にするものがないため、通説があまり変わりませんが、また新しい発見があれば違った視点で鎌倉幕府や執権政治を見ることができるかもしれません。

話が少しそれましたが、鎌倉殿の13人の概要を予習して2022年度のNHK大河ドラマを楽しんでいただければと思います。

 

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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