鎌倉殿の13人

なぜ慈円は後鳥羽上皇に重用されたのか??

歴ブロ

大河ドラマ【鎌倉殿の13人】では、後鳥羽上皇に仕える名僧として描かれている【慈円】は、史実では鎌倉時代初期の天台宗の僧です。

鎌倉殿の13人では、後鳥羽上皇と親しげに話し、僧侶と言うよりも貴族政治家に近い印象を受けますが、実際にも有力貴族の生まれで僧となり、比叡山で出生し天台座主も4回なっている、政治にも通じた人物でした。

史書【愚管抄】を書き、北条氏の為に書かれた【吾妻鑑】とはまた違った見方の鎌倉時代を紐解くことが出来ます。

 

今回はそんな慈円についてその生涯を振り返ってみます。

 

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慈円は藤原摂家の生まれ

慈円は、摂家・藤原忠道の次男として1155年に生まれました。

多くの異母兄弟がおり、近衛基実、松殿基房などがおりました。母を同じくした兄弟には、九条兼実、兼房、信円が居ました。

 

この兄弟の中で特に親交が深かったのが、ドラマでも登場する九条兼実でした。

早くに父を亡くした慈円は、6歳年上の兼実を父親のように慕ったのです。

貴族では長男以外は、親の菩提を弔い一族の繁栄を祈願するために出家する風潮がありました。出家すれば、生活に困らないばかりか、僧位が上がると一族の繁栄にもつながります。

そこで当時の貴族は、奈良の南都寺院や比叡山延暦寺などに送り込めば、政治と宗教の側面から朝廷に睨みを利かせることが出来ると考えたのです。こうした政治と宗教の両方から権力を握りその地位を盤石にしようとしたのが藤原家だったのです。

藤原忠通の子供たちは、近衛家、松殿家、九条家を起こし、対立を繰り返しながらも摂政・関白の地位を得ています。

 

藤原氏にはすでに高位高僧となる道が保証されていたようで、13歳で出家した慈円は、覚快法親王(鳥羽天皇の第七皇子)から白川坊が譲られ、16歳で一代限りの地位も保証されています。

こうして、1175年に法然が専修念仏を唱えた年、21歳の慈円は比叡山の無動寺で千日入堂の修行を始めました。この修業は、どんなことがあっても千日間、山をおりることは許されず、毎日仏像に花をそなえ、水をそなえる閼伽(あか)をくんで、経文を読みつづけるという難行だそうです。

 

突然の隠居宣言

千日入堂の難行を果たした慈円は、なぜか隠居を思うようになります。

一切の僧位を辞して、深い山郷で静かな余生を送りたいと思うように…

慈円この時まだ25歳の決断でした。

この決断に驚いたのが、兄である九条兼実

今は、近衛や松殿が繁栄しているが、私も関白の地位をうかがっている、そうなればそなたは天台座主になれるのだ】と様な問答を2年ほど繰り返した後、慈円は兄の意見を取り入れて、隠居を撤回したのでした。

1181年に平清盛が亡くなり、1185年までの平家滅亡までの4年間の日本列島は、未曽有の飢饉に見舞われたことから、慈円は極楽寺、法興院の別当、三昧院、成就院、無動寺の検校(けんぎょう)に任じられ、青蓮院、白川坊、善峰寺の住職を兼務しています。

その頃に詠んだ歌が百人一首にはいっています。

「おほけなく うき世の民に おほふ哉 わが立つ杣に すみ染の袖」

身のほどもわきまえず、墨染めの衣で万民の安穏を祈り、仏の慈悲をおおいかけよう、というものです。「わが立つ杣」は、延暦寺を開いた最澄の仏法を継いだ人間としての自信と情熱がこめられています。

「世の中に 山てふ山は 多かれど 山とは比叡の み山をぞいふ」

この歌からは、もはや隠居などと言う思いはみじんもなく、比叡山の器に入って、それに実を入れるぞ、という自覚にあふれています。

ちなみに慈円が詠んだ歌は6000首をこえ、『拾玉集』という家集が編まれています。

 

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天台座主に4度も就任

源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年に慈円は、38歳と言う若さで天台座主と言う延暦寺の最高位に任命されました。

その背景には、兄・兼実と頼朝の力があります。兼実は、平家を打倒した頼朝に接近すると、摂政の地位に就くことが出来ました。頼朝は、鎌倉幕府の地盤を固めるために、朝廷内に有力な見方として九条兼実と懇意にしていたのです。

九条兼実は、後鳥羽天皇の女御として娘の任子を入内させました。この時に慈円は、入内と皇后に取り立てられる事を祈祷しています。

こうして、任子の入内によって兼実と慈円が公的なものとなっていきます。以降、後鳥羽天皇とも長い親交を結ぶようになります。

 

慈円が天台座主になった期間、衰退していた天台教学を立て直すために勧学講を開きます。

学問の充実が、仏法興隆の第一歩であると考えたのですが、多額の費用が必要で慈円は、兼実を通して頼朝に頼み込み平重盛の遺領から年貢千石を勧学講の維持費に充てることに成功しました。

しかし、良い事も続かず、九条兼実が曹洞宗を開く道元の父・源通親に失脚させたれ、慈円もまた天台座主を追われ、勧学講も中止となったのでした。

 

その後、慈円は天台座主を3度もつとめますが、兼実の後ろ盾がなかったのもあり、いずれも一年前後でやめています。しかし、持ち前のバランス感覚で鎌倉幕府と後鳥羽上皇との友好関係をうまく保ち、華やかな歌人・僧侶生活をしていました。

 

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鎌倉幕府と朝廷の和を図る

1219年、三代鎌倉幕府将軍・実朝が甥の公暁に殺されました。

この事件は、後鳥羽上皇にとっては親政を復活させる絶好のチャンスとして倒幕を決意となりました。一方で、幕府は母・北条政子が執務を代行し、北条義時がそれを補佐する体制を取りました。

しかし、将軍が不在のままで政治を行うのは得策ではないとして、政子らは以前から後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えるのを催促しました。ところが、後鳥羽上皇はこれを拒否したことで朝廷との関係が悪化します。

そこで白羽の矢が建てられたのが、九条兼実の孫・道家でした。

わずか2歳の藤原頼経が、摂家から将軍職を継ぐことになり、それを補佐する形で北条政子・義時兄弟が政治を担っていくことになります。

 

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慈円は、長年にわたり後鳥羽上皇と親交をもち、摂政のように何かろ相談を受けていました。さらに、歌人として有名な藤原定家と共に、【新古今和歌集】に携わるなど、上皇の厚い信頼を勝ち取っています。

その一方で、源平の争乱から鎌倉幕府設立までをこの目で見てきた慈円は、時代は武力をもつ武士の時代に流れつつあると感じていました。

新興勢力・鎌倉幕府と強調しなければ朝廷の政治は成り立たない。もし、倒幕などを考えて戦を始めれば、源平の戦いの比ではない。と考えていました。

 

現実主義者の慈円は、朝廷と幕府が調和する【公武合体論】が持論だった事で、ことある事に血気はやる上皇を度々いさめてきました。ところが、上皇の意思が固く、次第に慈円をうっとうしい感じると遠ざけるようになります。

そこ慈円は、上皇の考えを改めさせるために【愚管抄】を書き始めたのです。

 

鎌倉時代のもう一つの史料・慈円著の【愚管抄

神武天皇から当時の順徳天皇までの歴史の推移を【道理】と考えて書かれたのがこの歴所の特徴です。

「一切の法(真理・存在・規範の意味)は、ただ道理という二文字がもっている。その外にはなにもない」

歴史上のすべての出来事は、道理が現れた結果として正当視します。

あるものはある】とした現実主義の考え方がそこにありました。

仏法によって政治を行おうと考えた蘇我氏が、それに反対する物部氏を倒したのも、

仏法を中心とす道理の現れであり、

そのことが聖徳太子の執政を生み出し、仏法と政治が守られた

また、歴史が天皇親政から、次第に摂関政治に移行したのも、幼い皇帝を支えるための道理である、さらに保元・平治の乱で武士が台頭し、鳥羽法皇以降は武士が天下を制すようになったのも、【武士の世の道理】になったからだと慈円は説いています。

要するに、【今は武士の時代だから、この現実を無視すれば、将来の天皇家に重大な影響を及ぼすかもしれない】と言う意味を込めて、愚管抄を著し後鳥羽上皇に倒幕の意思を思いとどませようとしたのです。

しかい、慈円の思いはむなしく、1221年に承久の乱が起き、後鳥羽上皇は幕府軍によって惨敗し、上皇らは流罪になったのでした。

 

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文学と平和をこよなく愛した高僧

1225年に71歳でその生涯を終えました。

史実で慈円は和歌を嗜み、後鳥羽上皇とも深い関係を築いていました。

後鳥羽上皇が編纂した【新古今和歌集】にも、和歌を載せるほど造詣が深いことがうかがえます。その選ばれた和歌が、92首にも及びこれは歌人・西行に次ぐ多さです。

 

大河ドラマの中では、後鳥羽上皇は慈円の意見を求める場面が度々ありますが、政治信条的には真逆の立場だったと言います。

上皇は、幕府の実権を握る北条義時への敵対心を緩めることが無かったのに対し、慈円は公武協調路線を推進しており、朝廷とは幕府は協力関係にあるべきと考えていたのです。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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