鎌倉殿の13人

わかりやすい後鳥羽上皇と北条義時が戦った承久の乱

歴ブロ

北条義時

新興勢力である武家政権と天皇率いる朝廷が初めて衝突したのが承久の乱

この戦いに勝利した武家政権である鎌倉幕府は、その権力を盤石なものとして幕府の権力者だった北条義時は、執権政治の基礎を築き上げました。

これまで、藤原仲麻呂や平将門が朝敵され全員敗北しています。しかし、承久の乱では朝敵とされた北条義時が勝利しました。

1185年に源頼朝により鎌倉幕府が開かれ、武家による政治が行われていましたが、まだまだ影響力が強かった朝廷はなぜ幕府率いる北条義時に敗北してしまったのでしょうか??

そこで今回は、鎌倉殿の13人の最終章でも描かれる朝廷率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権・北条義時の戦いである承久の乱について考えてみます。

 

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承久の乱のが起こった時代背景

当時の日本は、東国の鎌倉を拠点を置いていた鎌倉幕府と京を中心に西国に強い影響力を持っていた朝廷の二頭政治状態にありました。

朝廷率いる後鳥羽上皇は、諸国に置かれた膨大な荘園の収入で富を得ていましたが、幕府の地頭設置以降は年貢の未納問題が悩みの種でした。しかし、朝廷の復権を狙っていた後鳥羽上皇は、朝廷内部の権力掌握し、幕府将軍・源実朝を臣従させようと試みますが、実際に実朝に実権が無く、権力を持っていた北条氏と度々対立していました。

承久元年(1219年1月)に三代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺されます。

将軍暗殺事件以降、鎌倉殿の執務は北条政子が代行し、その補佐を弟の北条義時が行う事になりました。幕府は、新しい鎌倉殿を後鳥羽上皇の皇子を迎えたいと申し出ますが、後鳥羽上皇は…

  • 摂津の国長江荘、椋橋荘の地頭を撤廃
  • 御家人・仁科盛遠の処分撤廃

の二つの条件を出しました。

盛遠は、幕府の御家人から上皇の西面武士となっていたのですが、義時の許可を得ていなかった事から、所領を没収させられていたようです。

 

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上皇の条件を拒否した北条義時は、時房に命じて大軍を率いて武力をちらつかせて交渉しますが、朝廷側は強硬な姿勢を崩さず交渉が決裂。幕府は皇族将軍をあきらめて、摂関家九条氏より、九条頼経を鎌倉殿として迎え入れました。

この将軍継嗣問題で朝廷と幕府のしこりを残し、これが発端となりついに承久の乱が起こってしまいます。

 

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承久の乱がおきた様々な理由

承久の乱は、将軍継嗣問題の他に様々な要因から起こったと考えられています。

  • 後鳥羽上皇による倒幕が目的だった

一般的には後鳥羽上皇による倒幕が目的だったとされています。しかし、九条頼経の鎌倉下向を容認していた事から、あくまでも幕府の体制刷新が目的で、幕府自体の存在は認めていたと考えられています。

ようするに、北条義時を幕府から排除するのが目的だったようです。

  • 源氏将軍の血が絶えた

3代将軍・実朝は後鳥羽上皇と良好な関係を築いていましたが、その死によって武士と到底の仲介役が居なくなってしまいました。朝廷の身内でもある、清和天皇の血を引く源氏将軍の血が絶えたことで、朝廷が武力行使に踏み切ったと思われます。

  • 地頭・荘園問題のもつれ

この時代の上皇や公家は、広大な荘園を持ち贅沢な暮らしをしていました。しかし、荘園の管理をする地頭が台頭し、年貢のすべてを領主に渡さず直接農民を支配するようになります。領主は、土地を取られないようにあらかじめ領地を半分にし、貴族や朝廷の年貢が減りました。

こうした背景の中、後鳥羽上皇は寵愛する妾は領家職を持つ荘園の地頭を罷免するように義時に要求しますが、罪がないのに頼朝が任命した地頭職を改めることはできないと拒否します。このような地頭・荘園問題のもつれが承久の乱の理由とも言われています。

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承久の乱の勃発

朝廷と幕府の関係が破綻し、後鳥羽上皇は倒幕の意思を固めました。

土御門上皇や多くの公卿が反対しましたが、順徳天皇は譲位をして自由な立場になり倒幕に協力します。そして、承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は流鏑馬揃えを口実に諸国から大軍を集めます。

この軍の中には北面や西面武士や有力御家人、幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)の姿もありました。同じく、京都守護の伊賀光季は出兵を拒んだことで討ち取られてしまいます。

準備が整ったのを確認した後鳥羽上皇は、義時追討の宣旨を発令。宣旨の効果を信じて疑わなかった朝廷側は、諸国の武士たちが味方するだろうと確信していました。

北条政子の名演説

一方鎌倉では、上皇挙兵の知らせを受けて動揺が走ります。

義時追討の宣旨が出てる以上、幕府側で戦う事は朝敵となります。そんな板挟みの状態で動揺している御家人にはっぱをかけたのが北条政子でした。幕府創設から頼朝に受けた恩を思い出すように訴えた政子は、今こそこれに報いるべきだと叫びます。

この言葉に心を打たれた鎌倉の御家人たちは、北条義時の下に集結しました。

とは言うものの、御家人たちは結構ドライで、【鎌倉方が勝てば鎌倉。朝廷が勝てば朝廷に付く】と思っていた節もあったようです。

 

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承久の乱の戦況と上皇軍の大敗

政子の演説で一致団結した鎌倉幕府では軍議が行われ、当初は東国へ引き込んで迎え撃とうと言う案が優勢でしたが、それに異を唱えたのが宿老・大江広元でした。大江広元は、貴族出身の御家人で、朝廷側の貴族がどのように考えるかを貴族の立場で理解していました。

その広元が防戦に徹したら戦いが長引き、幕府側にも裏切者が出てくる、そのため積極的に京へと攻め込むべきだと主張しました。最終的に政子は広元の意見を取り入れ、幕府軍は京都へ攻め込むことにしました。

しかし、防戦に徹したい御家人を動かすには、政子たちの説得だけでは無理でした。そこで、義時は泰時・時房に【兵を集めている暇が無いから今すぐ出発しろ】とわずか18騎で出陣させました。

とにかく出陣し、御家人たちに考える暇を与えない状況を作り出したのです。

この時、泰時が一人で戻ってきて上皇自ら兵を率いてたらどうしましょう?と義時にお伺いを立てたと言う逸話が残っています。この問いに義時は、【上皇自ら出陣となれば降参しろ、兵を送り込んだだけなら全力を尽くせ】と命じました。

こうして泰時・時房が出陣し事で御家人たちは早急に兵を集め、東海道・東山道・北陸道の三方から進軍します。鎌倉を出た時はわずか18騎だったものが、道中で膨れ上がり最終的には19万人の大軍勢になったと【吾妻鑑】では書かれています。

幕府軍の出撃を知った上皇軍は事態を重く見て、追撃隊として17500騎程の兵を差し向けますが、幕府軍はこれを撃破。以降、上皇軍は総崩れとなり大敗し、幕府軍は京へ目指しました。

 

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後鳥羽上皇は、鎌倉の武士たちは必ず離反するとにらんでいたようですが、それ以上に源頼朝から受けた恩が強かった事で、御家人の離反者が出ませんでした。それどころか、予想外の苦戦を強いられることになりました。

後鳥羽上皇が自ら武装し、比叡山の僧兵達に援軍を求めますが上皇が以前から寺社の待遇を悪くしていた事から拒否され、やむなく残りの兵を終結させて、宇治・瀬田で戦う事を決めます。上皇軍は防戦しますが、幕府軍の強引な戦法に苦戦を強いられ、陣を突破されます。

こうして、京へなだれ込んだ幕府軍は、寺社や公家・武士の屋敷に火を放った頃に、後鳥羽上皇は宣旨を取り消し、この戦いは藤原秀康と三浦胤義の謀略だとして捕縛されます。上皇の為に戦った彼らは、最後は上皇に見捨てられ抵抗の末に、幕府の捕虜や自害して果てました。

 

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承久の乱の戦後処理とその後

後鳥羽上皇の大敗と言う形で終わった承久の乱は、幕府にどのような影響を与えたのでしょうか??

 

朝廷側の敗北により、後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島へ流されました。

戦いに反対していた土御門上皇は、自ら土佐国への配流を希望。一方で、倒幕に加担した公卿は処刑され、院の側近たちは流刑や謹慎処分に、上皇側の御家人たちもそれぞれ粛清や追放処分を受けました。

流刑になった上皇・天皇の代わり、後堀川天皇が即位し、内大臣には親幕派の西園寺公経が就任。後鳥羽上皇の荘園は、行助法親王に与えられますが、支配権は幕府が握りました。

 

隠岐島に流された後鳥羽上皇は、京へ二度と戻らぬまま60年の生涯を閉じました。

「我こそは新島もりよ 隠岐の海の 荒き浪かぜ 心して吹け」

これは後鳥羽上皇が隠岐島で詠んだ和歌です。

「私はこの島の新しい島守です。隠岐の海の荒い波風は、心して吹けよ」という意味であり、隠岐の島での後鳥羽上皇の寂しい気持ちが伝わってきます。

六波羅探題の設置

承久の乱終結後、京都守護に代わり幕府の機関、六波羅探題が置かれ朝廷に対する監視統制が強化されました。その初代の役職に北条泰時と時房が就任し、朝廷の監視や西国武士の統制を行いました。

また、上皇側に付いた御家人から没収した3000以上の所領は幕府方の御家人に分け与えられて、幕府の支配権は全国に及ぶようになりました。

  • 承久の乱以前の幕府の機関⇒京都守護
  • 承久の乱以後の幕府の機関⇒六波羅探題
【鎌倉幕府】六波羅探題はいつどのような目的で設置されたのか?? 鎌倉幕府が京都の朝廷と西国に影響力を強くさせるために設置したのが六波羅探題。 ちなみに六波羅と言うのは京都の地名で、現在の...

武家政権の確立

日本初の朝廷と武家政権の間で起きた武力抗争である承久の乱は、鎌倉幕府の圧勝で終わりました。これ以降、幕府は日本の政治を主導し権力を強めていきます。しかし、源氏断絶によりその後の鎌倉幕府は執権・北条氏が台頭していくことになりました。

鎌倉幕府の歴代執権・北条氏がどのように権力を掌握していったのか? 鎌倉幕府の執権は将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職と言う事は、他の記事でも書いた通りです。源頼朝時代は、将軍独裁政権だったので執権...

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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