鎌倉時代の参考文献【吾妻鑑】についてわかりやすく紹介!!
2022年度放送の『鎌倉殿の13人』は鎌倉時代に執権としてその地位を確立させた、北条義時を主人公にしたNHK大河ドラマです。
この平安時代後期から鎌倉時代の出来事を知るためには『吾妻鑑』と呼ばれる歴史書を参考にしていることが多いそうです。そこで今回は、吾妻鑑とはどのような歴史書なのか紹介していきたいと思います。
吾妻鑑の起源と特徴
吾妻鑑は、1180年~1266年までの87年間に起きた出来事を記した歴史書です。
丁度、鎌倉殿の13人で描かれるであろう鎌倉幕府の設立前後から始まり、6代将軍【宗尊親王】までの時代が書かれています。
吾妻鑑の編纂者は、鎌倉時代末期の1300年頃の人物で執権として実権を握っていた【北条氏】とかかわりの深い【金沢氏】や幕府の御家人によって書かれたと言われています。
その巻数は、52巻あるとされ最も著名なのが『北条本』と呼ばれる写本です。
吾妻鑑の始まりは、1180年4月9日の以仁王が打倒平家を掲げ挙兵したところから始まり、1266年7月20日に6代目将軍・宗尊親王が謀反の冤罪をかけられて将軍職を解任され、京都へ帰るまで出来事が日記のように時系列で記されました。
吾妻鑑の内容で多くの人々に関心を引くのは、東国の武家社会の歴史を詳細に書かれているところです。それ以前に書かれた歴史書の【古事記】【日本書紀】などは、朝廷を中心に書かれていた、一方で吾妻鑑は鎌倉幕府歴代将軍【鎌倉殿】に焦点を当てて書かれており、日本初の武家政権の記録として評価されています。
吾妻鑑の由来と逸話
吾妻鑑は『東鑑』と表記されることもあり、吾妻と東もどちらも『東国』の意味を持ちます。その由来は、鎌倉時代以前の日本武尊【ヤマトタケルノミコト】の神話の時代までさかのぼります。
日本武尊とは古事記に登場する英雄で、東日本の事を吾妻と呼ばれるようになったのは、日本武尊にまつわる逸話が関係しています。
その逸話が日本武尊が東国遠征を行ったときのお話で、航海の途中で突然の暴風に見舞われて船を進ませることができなくなりました。このとき、日本武尊の傍には弟橘媛・弟橘比売命と言う女性がいたと言います。
弟橘媛は日本武尊の妃とされる人物で、日本武尊に「皇子の代わりに私が生贄となって、この暴風を鎮めましょう」と言い残すと、そのまま海へ飛び込んでしまいました。すると、暴風はたちまち止んで、日本武尊は無事に岸へ到着します。
日本武尊は、無事に東国の平定を果たし山の上から東国を見渡して、犠牲となった弟橘媛を想い「吾妻はや(我が妻よ)」と呟き、これがきっかけとなって東日本のことを吾妻(東)と呼ぶようになったと言われています。
吾妻鑑の内容
先述した通り、吾妻鑑の内容は鎌倉幕府の記録がメインとなっています。
一方で、幕府に関係があまりない朝廷や近畿地方を含めた西国などの地域、鎌倉外で起きた出来事や御家人でない武士・公家の記述は多くありません。
日本史上の武家政権で幕府の最高責任者と言えば【将軍】と捉えるのが一般的ですが、鎌倉幕府においてはその常識は通用しません。なぜなら鎌倉幕府の実権を握っていたのは、将軍ではなく執権である北条得宗家なのです。
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は、優れた政治センスとカリスマ性で多くの御家人から支持を集めましたが、2代目・頼家や3代目・実朝は将軍就任当時まだ幼かったので、周りの御家人らが幕府を運営していました。
その中でも梶原景時や比企能員などの有力御家人は、幼い将軍を盛り立てるために熱い忠誠を誓っていました。しかし、北条氏を代表するほかの有力御家人たちは、将軍は傀儡としか思っていなかったようです。
そして、将軍から実権を奪うために暗躍したのが北条氏でした。
北条氏は、あの手この手で有力御家人を滅ぼし、幕府の実権を手に入れました。そして、幼い将軍に代わり政務を担い、幕府運営を支え続けました。
『吾妻鑑』では2代目・源頼家・3代目・実朝について手厳しい評価が書かれており、初代・源頼朝も公平な評価がされているように思えますが、現在のイメージされるような闇頼朝が各所に記述されているのが特徴です。
一方で実権を握った北条氏や2代目執権・北条義時や御成敗式目を制定した3代執権・北条泰時などの北条得宗家の評価はとても高く書かれています。
「独裁的な政治を行った源氏将軍に対して、歴代執権となった北条得宗家は御家人の身に寄り添い仁政を行った」と少し北条氏寄りに偏った書かれ方をしています。
吾妻鏡の多くが写本版
吾妻鑑の原本は見つかっていないため、現存している物は写本で【北条本】【吉川本】【島津本】の3つが存在します。
北条本
吾妻鑑の中でも最も有名な本で、戦国時代の小田原城を拠点としていた後北条氏が所有していたことから『北条本』と名付けられました。
北条本は、後北条氏が滅んだ後に、黒田官兵衛の手に渡り、江戸時代に入ると将軍家に献上されたとされています。また、52巻全てが徳川家に渡ったかどうかは定かではなようです。
吉川本
室町時代の守護大名・大内氏の家臣で右田弘詮が収集した吾妻鑑の写本が吉川本として残っています。
右田弘詮は、文人としても知られ、宗祇や猪苗代兼載と言った一流の連歌人とも親交があったと言われています。弘詮はこのような文化人達から「吾妻鏡と言う優れた歴史書がある」と聞き、1501年から吾妻鑑の写本を収集します。集めた写本は42帖でそれらを職人たちに書き写させて秘蔵しました。
しかし、一部の20年くらいの欠落があった事で弘詮は全国を回り欠落部分を集めることに。欠落部分を手に入れると早速書き写し年譜1帖と本文47帖の全48帖となる諸本が完成しました。
吉川本は後に、戦国時代に安芸国・毛利元就へ献上され、元就死後は次男・吉川元春が受け継ぎ、その後子孫へ伝来します。吉川と言う名称は、吉川氏に渡ったことからその名前がついています。
島津本
薩摩国の島津氏が完成させた吾妻鑑の諸本が島津本です。
島津本の原本となる吾妻鑑は、15世紀末に陸奥国岩瀬郡那須川を支配していた二階堂氏が所有していたと言われています。二階堂氏が所有していた写本が島津氏に渡り、島津の下で収集・補訂が行われていきました。
巻頭の目録1冊と本文51冊の計52冊で構成されています。
その後の吾妻鑑
吾妻鑑は、1605年に初めて印刷刊行された書物として発行されました。
徳川家康は、吾妻鑑の諸本を愛読していたと言われており、後に武士向けの教訓本とするために、北条本の吾妻鑑を基にした本を出版しました。
さらに、1626年にはフリガナを振った製版本も刊行され、より多くの人が読めるように何度も手が加えられました。
現在の吾妻鑑は、現代語訳版や漫画など様々な形で刊行されており、幅広い年代が気軽に読める書物として浸透したのです。