初代六波羅探題を務め鎌倉幕府を支えた北条時房
北条義時の異母弟で、鎌倉幕府初代六波羅探題を務めたのが、北条時房。
大河ドラマでは、トキューサの愛称で癒し系キャラを確立していました。史実では、北条時政の末っ子でありながら、やがて義時や政子も頼る大物政治家になることになります。
北条泰時が執権の時代には、初代連署として泰時の良き相談相手として鎌倉幕府を支えていました。
そこで今回は北条時房について書いて行きたいと思います。
北条時房の生い立ち
1175年に北条時政の3男として伊豆で生まれました。
源頼朝の妻・政子と鎌倉幕府・2代目執権北条義時とは、異母姉・兄の関係です。1189年に元服の際に三浦義連が烏帽子親となった事から、時連と名乗るように。
1199年に源頼朝が死去し2代目鎌倉殿に頼家が就任すると、時連は蹴鞠が得意だったことから側近として仕えます。1202年には連の文字が銭の単位【貫】を連想させ印象が悪いとの事で、頼家の提案で時房と改名しました。※諸説あり
1203年に比企の乱が起こると、比企氏の後ろ盾を得ていた二代目・鎌倉殿頼家が鎌倉から追放を受けました。この時、比企氏や将軍の側近が連座する中、時房は将軍の側近であるにもかかわらず、鎌倉幕府内で北条一門と共に権力を伸ばしていきます。
容姿所作に優れており、頼家・実朝2代に渡り和歌や蹴鞠の相手を務めました。
また、後鳥羽上皇の前で蹴鞠を披露したところ、上皇に気に入られ出仕する様に命じられ京都に滞在する事もあったようです。蹴鞠エピソードとしては、1218年に政子と共に上洛した際に、後鳥羽上皇の蹴鞠会に参加した記録が残っているようです。
畠山氏失脚後は時房が武蔵守へ…
源実朝が3代目鎌倉殿になると、1205年に武蔵国の有力御家人・畠山重忠が謀反の疑いで、北条義時率いる大軍によって討ち取られます。この時は、北条義時と共に時房も畠山重忠の謀反はあり得ないと抗議しますが聞き入れられず、やむなく出陣しました。
人望の厚い畠山重忠を強引に滅ぼした北条時政は、幕府内や北条一門にも不満が募り、結局北条義時・政子兄弟によって、時政と牧の方は鎌倉を追放され、伊豆で隠居処分となりました。
時政失脚後に時房は遠江守を継ぎ、その後は駿河守に任ぜられ、1210年には武蔵守に任ぜられます。兄・義時が相模守であることから、北条氏は幕府と関係の深い武蔵国・相模国の二つの重要国を掌握した事になります。
時房は、その後も武功を重ね上総国の荘園も拝領します。さらに、1219年に実朝が暗殺されると、上洛して後の摂家将軍・頼経を連れて鎌倉へ帰還します。
承久の乱と北条時房
1221年5月、後鳥羽上皇が主に義時に反旗を翻した承久の乱では、泰時や三浦義村、千葉胤綱と共に、東海道を進軍し上皇軍を破ります。6月には、時房が瀬田を泰時が宇治を破り京都へ上洛します。
承久の乱終結後に後鳥羽上皇が隠岐島へ流されると、時房・泰時はそのまま京都に残り、初代・六波羅探題の南方・北方に就任しました。
「六波羅探題」とは、西国の御家人を統括するとともに朝廷を監視するための幕府の機関です。以降、幕府の出先機関として、朝廷はもちろん西国勢力が幕府に反逆しないよう抑える役割を担いました。
北条時房が政所別当と連署に就任
1224年に北条義時が死去すると、3代目執権に泰時が就任。そして、その後見人に北条政子が時房を任命し、執権を補佐する連署となります。泰時と時房の体制が整うのを見届けたのち、翌年には北条政子が死去し、以降2人で協力しながら政務にあたりました。
京都から連れてきた藤原頼経が4代鎌倉殿に就任すると、1232年に時房と泰時は政所別当に就任します。この時、泰時は筆頭別当を時房に譲った事で、政所のトップは時房となっています。
1240年、北条時房が死去。連署のポジションは1247年の北条重時が就任するまで空席になっていました。
北条時房と泰時の関係
甥である泰時とは、8つくらいの年の差であることから兄弟のように切磋琢磨していたようです。
承久の乱以降は、様々場面で協力し困難に立ち向かっていたようですが、互いに確執が無かったわけではなく、泰時が「今後の賞罰は私が一人で決める」と宣言すると、時房は突然病と称して頼経の元服を欠席しています。
一方で泰時も、時房死後に時房の長男・時盛を廃し、自分の娘婿である朝直を重用するなどして、時房の一族を分裂させ、泰時一族の安定化をさせていました。
しかし、泰時が病に伏していた時に、時房が同僚を集めて主演を開いたエピソードがあり「泰時が病に伏しているのになぜ酒宴を開くので??」と聞かれると時房は「泰時が生きているからこそ酒宴を開くのだ!亡くなっていたらおちおち酒も飲めない!」と言ったそうです。
泰時が病から回復すると信じていたからこそ時房は酒宴を開き、泰時自身もそれを何らとがめることもしなかったようです。
これらの事を踏まえると、時房と泰時はつかず離れずのいい距離感・緊張感の関係であったように感じます。それでいて良い信頼関係を持っていたのだと推測されます。
北条時房は、義時・政子兄弟に隠れがちな存在ですが、兄弟や甥等の親族を陰ながら助け、様々な場面で活躍しました。承久の乱の活躍から六波羅探題に任命され、執権の補佐役・連署にもなりました。北条泰時とは良きライバルでもあり、パートナーだったのでしょう。
陰ながら執権北条氏を支えた人物こそ三浦義村ではなく北条時房であったと言えます。