権力の頂点に上った北条時政の転落【牧氏の変(牧氏事件)】
1205年6月22日。武蔵国の利権を巡りは娘婿・畠山重忠とその一族を粛清し滅ぼしたのが、北条時政。この粛清によって、武蔵国を手中に収め自らの権力を盤石にしたのですが、義理の息子を粛清した代償は実の娘と息子によって支払されることになりました。
そこで今回は、後の大河ドラマで描写されるであろう、北条時政の失脚の原因となった【牧氏の変】について吾妻鑑を参考に紹介していきます。
牧の方とはどんな人??
牧の方は、駿河の豪族・牧宗親の娘で時政の後妻として北条氏に嫁いできました。
牧の方と呼ばれている以外に詳しい本名はわかっていません。
後妻のため時政とは20歳以上の年の差がありました。そのため、嫁いできた当初は北条政子とほとんど変わらない年齢だったといいますが、時政と仲は良く5人以上の子宝に恵まれています。
北条政子の下に実朝暗殺計画が…
晴。牧御方廻奸謀。以朝雅爲關東將軍。可奉謀當將軍家〔于時御坐遠州亭〕之由有其聞。仍尼御臺所遣長沼五郎宗政。結城七郎朝光。三浦兵衛尉義村。同九郎胤義。天野六郎政景等。被奉迎羽林。即入御相州亭之間。遠州所被召聚之勇士。悉以參入彼所。奉守護將軍家。同日丑尅。遠州俄以令落餝給〔年六十八〕。同時出家之輩不可勝計。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)閏7月19日条
漢文で何のことやらさっぱりですが、上に書かれた「牧御方廻奸謀」という知らせが畠山重忠の乱から約2か月たった7月19日に北条政子の下へもたらされました。牧の方による陰謀計画が知らされたのです。
その内容と言うのが「鎌倉殿・源実朝を殺害し、自分たちの娘婿である平賀朝雅を鎌倉殿に祭り上げよう」というもの。二行目の最初までの文章で書かれています。お謀り奉ると書いてあるのを直訳すると暗殺という事になります。
この計画を聞いた政子は、長沼五郎宗政・結城七郎朝光・三浦義村・三浦胤義・天野六郎政景を時政の元へ派遣し、源実朝の安全を確保します。すると、どういうわけか深夜二時頃に時政が突然の出家。夫婦ともども命乞いをし連帯責任を取った形に収まりました。
この時、時政68歳。
共に出家した者が多く、これは慕って後追い出家と言うよりも政子・義時による時政派の一斉排除ではないかと考えられています。
執権職を継いだ北条義時の初仕事
晴。辰尅。遠州禪室下向伊豆北條郡給。今日相州令奉執権事給云々。今日大膳大夫屬入道。藤九郎右衛門尉等參會相州御亭。被經評議。被發使者於京都。是可誅右衛門權佐朝雅之由。依被仰在京御家人等也。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)閏7月20日条
そして、翌朝八時頃。時政らは故郷の伊豆国北条郡へご下向あそばされました。
歴史的視点では追放となっていますが、当時の状況を考えるとあくまでも追放ではなく、表面上は自発的な隠居の形を取り、世間体と義時が執権を継承する時の反対派を無くすためだったと言えます。
ちなみに事件の首謀者・牧の方が出家したとは書かれていません。ドラマの時政とりくの関係性を見ると、時政が嘆願して出家を避けたのではないかとも言われています。また、時政さえ排除できれば、牧の方はおまけみたいなものなので見逃したのではないかとも考えられます。
邪魔者が消えた鎌倉でしたが、残るは京都の平賀朝雅なのですが…
執権職を継いだ義時の最初の仕事が、平賀朝雅の討伐でした。
早速、三善康信や安達景盛と評議し朝雅の討伐を命じる使者を発したのでした。
平賀朝雅の最後とその後の北条時政
晴。去廿日進發東使。今日入夜入洛。即相觸事由於在京健士云々。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)閏7月25日条
使者は7月25日に京都へ到着。当時の鎌倉~京都は約5日程度の通信速度だったようですね。以外に早いと思っていたのは私だけでしょうか??
晴。右衛門權佐朝雅候仙洞。未退出之間。有圍碁會之處。小舎人童走來招金吾。告追討使事。金吾更不驚動。歸參本所。令目算之後。自關東被差上誅罸專使。無據于遁迯。早可給身暇之旨奏訖。退出于六角東洞院宿廬之後。軍兵五條判官有範。後藤左衛門尉基淸。源三左衛門尉親長。佐々木左衛門尉廣綱。同弥太郎高重已下襲到。暫雖相戰。朝雅失度逃亡。遁松阪邊。金持六郎廣親。佐々木三郎兵衛尉盛綱等追彼後之處。山内持壽丸〔後号六郎通基。刑部大夫經俊六男〕射留右金吾云々。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)閏7月26日条
一方で平賀朝雅は、のんきに京都の御所で囲碁を楽しんでしたようですが、鎌倉より追討命令が出たことを知ると後鳥羽上皇に五条判官有範・後藤左衛門尉基清・源三左衛門尉親長・佐々木左衛門尉広綱・佐々木弥太郎高重たちが暇乞いをするのですが門を出てすぐに一斉に襲いかかってきます。
平賀も源氏の端くれと防戦し松阪まで敗走しますが、追撃され討ち死に。
晴。發遣京都之飛脚歸參于關東。金吾伏誅由申之。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)8月2日条
霽。子尅。大岡備前守時親出家。是依遠州被落餝事也。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)8月5日条
北条時政・牧の方が鎌倉を追放され、京都で平賀朝雅が討たれたことによって【牧氏の変】が終わり、8月2日には京都より使者が到着し、8月5日には牧氏の兄弟である大岡備前守時親が出家しました。
霽。伊豆國飛脚參。申云。去六日戌尅。入道遠江守從五位下平朝臣〔年七十八〕於北條郡卒去。日來煩腫物給云々。
※『吾妻鏡』建保3年(1215年)1月8日条
その後の時政は、二度と政治の表舞台に立つことはなく、1215年に1月6日に亡くなりました。享年78歳でかねてから腫物を患っていたとの事でした。
ちなみに牧の方は、時政の死後に娘婿・藤原国通を頼り京都へ上り贅沢三昧の暮らしをしていたよです。大河では京都に戻りたいと願っていた彼女は、時政の力ではなく最後は自力でその夢をかなえたようです。
以上が牧氏の変を吾妻鑑を見ながら説明してきましたが、鎌倉殿の13人ではどのような描かれ方をするのでしょうか??