鎌倉殿の13人

【鎌倉殿の13人】北条義時死後の鎌倉と主要人物のその後

大河ドラマ【鎌倉殿の13人】も今日で最終回を迎えました。

私も一年通して、麒麟がくる以来一話も漏らさず見ることが出来ました。印象が残ったのは、やはり15話の上総の介が粛清された回でしょうか??

歴史上やられるのは知ってはいるのですが、とは言えいまでも心にグッとくるものがありました。佐藤浩市氏と言えば、新選組芹沢鴨の最後も見ごたえがある回でしたね。

そこで今回は、鎌倉殿の13人の最終回を前に一日前倒しで記事をアップする事にしました。内容は、タイトル通りの北条義時死後の鎌倉幕府とドラマ主要人物のその後をまとめてみました。※リクエストがあれば人物を追加します。

 

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北条義時の死と伊賀氏の変

承久の乱から3年後、1224年北条義時が没します。

義時死後に鎌倉で不穏な動きをしたのが、義時の後妻である伊賀の方(のえ)でした。尼将軍政子に不満を抱いていた伊賀の方は、一族で幕府を支配しようと計画していたのです。

 

北条義時
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北条義時の死因については、脚気に急性腸炎が重なっての病死との事でしたが、床に伏して間もなくの死だった事で様々な憶測が飛び交います。

義時死去の知らせは、京都の六波羅にいた北条時房と泰時にも入りました。二人は、承久の乱の戦後処理にあたりながら朝廷に不穏な動きが無いかを京の地で目を光らせていたのです。

六波羅の職務は、その後に整備・拡張され、西国の御家人の監視や治安維持の任も兼ねた幕府の正式な出先機関となりました。これを六波羅探題と呼ばれています。

 

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知らせを受けた二人はすぐに鎌倉へ向かいます。

当然義時の葬儀に参列するためですが、鎌倉での義時の後継者を巡り不穏な動きをキャッチもしていました。

不穏な動きをしていたのは、義時の3人目の妻・伊賀の方でした。尼将軍・政子に不満を持っていた伊賀の方は、伊賀氏一族で幕府を支配しようと画策していました。この計画を裏で糸を引いていたのが、常連の三浦義村でした。

しかし、政子の素早い行動で、三浦義村を問い詰め、伊賀氏一族を流罪にします。そして、宿老・大江広元らの承認を得て、北条泰時を3代目・執権に任命したのです。この時、泰時43歳でした。

1225年7月、鎌倉と日本の安定を確信したのか、北条政子は天寿を全うします。そのひと月前には、大江広元も他界しています。

 

鎌倉殿から法の下の武家政権へ…

一つの時代が終わり、新しく執権となった北条泰時は、頼朝以来の大倉御所を移転し、人心の一新も図りました。

新しい職として、連署を設けました。連署とは、執権の補佐役を定めました。初代連署には、頼れる叔父の北条時房(トキューサ)が就任しました。

さらに泰時は、13人の合議制をリニューアルし、政務能力のある11人の御家人を評定衆として選び、合議によって幕政を運営する事にしたのです。

鎌倉殿(将軍)は、表に出ることはありません。執権・連署・評定衆と言う合議体制が、新時代の鎌倉幕府となったのです。

当初は評定衆も、三浦義村や大江・中原・三善・二階堂の子息たちが名を連ねていましたが、やがて北条一族が占めるようになりました。

鎌倉幕府はこうして、鎌倉殿の独裁体制から13人の合議制を組織し、粛清を重ねさらに朝廷との承久の乱を乗り越えて、【新合議制】による執権政治へと生まれ変わりました。

 

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御成敗式目の制定

1232年北条泰時は【御成敗式目(貞永式目)】を制定しました。

これまでの武士の慣習・道徳にのっとった、武士による初めての成文法でした。朝廷の律令とは別に、御家人(守護・地頭)の任務・権限、罪を犯した者の刑罰、裁判の手続きなどの基準を定めたのです。

当初、御成敗式目の効力は鎌倉と東国に限られていましたが、しだいに範囲を拡大させていきました。やがて律令や公家法が及んでいた社会にも影響を及ぼすようになります。

源頼朝が平氏打倒を掲げてから約半世紀、鎌倉幕府の支配の仕組みは専制君主制から【】による支配へと進化を遂げるのでした。

歴ぴよ
歴ぴよ
室町時代の分国法や江戸時代の武家諸法度は、御成敗式目を参考に作られるなど、武家法律の元となりました。

 

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北条義時死後の各人物のその後

北条義時

次に北条義時死後、その後の主要な人物たちはどのような人生をたどったのかまとめてみたので読んでみてください。

北条政子

上記で書いたように、義時死後の伊賀氏の変では三浦義村を懐柔させ事前にクーデターを防ぎました。そして、無事に北条泰時が3代目・執権となりその手腕を見届けたところで、1225年に69歳の生涯を閉じました。

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北条泰時

京で叔父の時房と任務に就いていたが、義時の死と伊賀の方の不穏な動きを察知し、鎌倉へ戻ります。北条政子の機転により、乱は未遂に終わり、北条泰時は、無事に3代目・執権となる。

執権就任後は、御成敗式目の制定やこれまでの幕府の専制体制に代わり、集団指導制・合議政治を打ち出し新たな鎌倉幕府体制を確立します。

承久の乱以降は、幕府を貴族・寺社等の旧勢力と、地頭・御家人勢力との均衡の上に立って、両者の対立を調停する権力として固定し、父の義時の偉業を継いで北条執権体制を軌道に乗せ、後世では北条泰時を名執権と称えています。

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北条時房(トキューサ)

北条泰時が執権となると、その補佐役として初代・連署となり泰時を支えます。

四代目鎌倉殿・源頼経が就任すると、泰時と共に政所別当に就任。この時、泰時は筆頭別当を時房に譲ったとされています。1240年に66歳で死去しますが、その後1247年に北条重時が連署になるまで空席だったそうです。

以降、時房の家系では連署と執権が排出され、執権政治の中枢を担う家系となりました。

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北条朝時

泰時と比較的良好な関係だった事もあり、越前守に任ぜられ幕府内においても連署に次ぐ地位にあったとされています。評定衆を定めると、その一人に加えられますが、自分には合わないとして辞退して次第に幕政から身を引くようになります。

北条政村

伊賀氏の変で泰時に許された政村は、その後北条氏をよく支える人材となりました。

1239年には、評定衆になりその筆頭となります。北条時頼と三浦泰村との対立を経て、1256年に兄に代わり52歳で連署となります。そして、得宗家・時宗の中継ぎとして、7代目・執権となり次世代の橋渡し役としてその権勢を振るいました。

1268年に元から国書が届くと、権力の一元化を図るために8代目・時宗に執権職を譲ると、自身はその補佐役に回り連署・侍所別当に就任。1273年の元寇の前の年に、69歳で死去。

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伊賀の方(のえ)

通説では、伊賀氏の変後は、兄・伊賀光宗と共に流罪となります。

伊賀光宗は、所領の没収となり信濃国へ、伊賀の方(のえ)は伊豆国の北条郷幽閉されることとなりました。その後、ほどなくして死去したとされています。

三浦義村

1225年、三浦義村は執権・北条泰時から評定衆に任じられます。

これにより、三浦一族の地位はより強固なものとなり、没するまで14年間幕府の中枢に参画してその権勢を振るいました。また、御成敗式目の制定にも泰時と共に起草者して関わっています。

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大江広元

義時死後は、政子を支えるブレーンとして押し活をしていました。その生涯を鎌倉幕府に捧げ、1225年に亡くなっています。

広元は、13人の合議制では北条時政・義時に次ぐ№3として君臨していましたが、幕府内の序列では№2の地位を得ています。頼朝が亡くなった後は、権力的には北条氏の方があったものの、その地位は生涯北条氏をも上回るものでした。

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二階堂行政

13人の合議制の一人として主に執事職として活躍しましたが、数年後には政所の下文にその名前が無かったようで、政治の一線から身を引いていたようです。

その後は、孫の行盛が執事職を担い、以後二階堂氏がその職を独占していきました。二階堂氏の優れた文史能力を買われ、建武親政や室町幕府でもその中枢を担ったとされています。

三善康信

承久の乱当初から、老衰が進み自宅で療養している時間が多くなっていました。

そして、戦の勝利を見届けると、問注所執事を息子・康俊に譲り息を引き取りました。

後鳥羽上皇

承久の乱に敗れたのち、隠岐の島へ流罪となり二度と京へ戻ることはありませんでした。沖に流される直前に出家し、後鳥羽法皇となっていました。

1235年に京へ戻したらどうだろうか?と進言があったようですが、北条泰時はそれを許さなかったと言います。1239年、隠岐の島の配所にて崩御しました。

後鳥羽院は、中世屈指の歌人で、その作品は後世まで大きな影響を与えています。

承久の乱で北条義時と戦いった後鳥羽上皇の生涯 平安時代中期、天皇家と縁戚関係を結び、摂政・関白となった藤原氏が実権を握り【摂関政治】の時代がありました。 しかし、108...

慈円

鎌倉殿の13人では承久の乱を巡り意見が合わず、院を後にしました。その後、消失した寺院を再建して、朝廷と幕府の為に行法を再開しましたが、1225年に病のために多くの弟子たちに見守られ71歳の人生を閉じました。

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藤原頼経(三寅)

北条政子死後、1226年に4代鎌倉殿として就任するも、傀儡将軍として幕府は執権や評定衆などで運営されていました。しかし、年齢を重ねるにつれて執権政治に疑問を持ち始め、徐々に幕府内で権力を掌握していきます。

そのため、執権・北条経時との確執が生まれ、1244年に将軍職を嫡男・頼嗣に譲らされ、京都へ送り返されました。

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北条義時
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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。