初代局長の一人!芹沢鴨の暗殺と副長・新見錦の死【新選組の歴史】
浪士組が結成され、江戸から京へ向かう道中で既に傍若無人な行動を起こしていた芹沢鴨。
京都へ残って壬生に拠点を移し局長となった後も浪士組の評判を落とす行動を起こしており、ついには京都守護職・松平容保も放置しきれずに処分を決意することとなります。
今回は、そんな芹沢鴨の狼藉の数々と最期についてまとめていきます。
芹沢鴨がこれまで起こしてきた粗野な行動とは??
破天荒で豪胆な性格で知られていた芹沢鴨は大阪商人などからお金を引き出すのに長けており、そうした時には非常に頼りになる存在だったのですが…
特にお酒が入ると暴力的になり、一般庶民に迷惑をかけて隊の評判を落とす問題の方が次第に大きくなり始めます。隊の発足当初は友好関係にあった近藤派と芹沢派の関係も次第にギクシャクしたものになりつつありました。
<芹沢鴨の生年と問題視された行ない>
出自については諸説あり
水戸で尊攘派の部下3人を惨殺
浪士組上洛途中に大かがり火を焚く
不逞浪士が出てるとの報告から大坂へ行った際に力士との乱闘事件を起こす
京都島原花街の揚屋・角屋で隊の大宴会を行った際、店の対応に腹を立てて暴れ、店を破壊
・大坂新町の吉田屋の遊女が自分の意に沿わず、彼女と仲居の髪を切り捨てた
・商家菱屋の妾・お梅を強奪して自身の妾とした
京都の一条葭屋(よしや)町の大和屋が隊への献金を断ったため、土蔵を焼き討ちにした
こうした狼藉の中でも、決定的だったのが大和屋の焼き討ちでした。京都守護職の松平容保にも話が伝わり、芹沢鴨の処分を決断します。
ところが、内々で近藤勇に芹沢鴨の処分について命が下されたのですが、この頃の京で政治的な権力を持ち始めていた長州藩を公武合体派の薩摩藩と会津藩で追い出そうとはかった『八・一八の政変』と尊王攘夷派の残党狩りでも壬生浪士組は活躍。
実際の動きは9月に入ってからのこととなりました。
新見錦「待機違反」により死す
ついに芹沢鴨が粛清か・・・?とはなりませんでした。
最初に魔の手が伸びたのは、芹沢派の大物の新見錦です。壬生浪士組では土方歳三や山南敬助と同等の副長として任命されていました。
彼は一匹狼の部分がある人物だったため完全な手下という感じではなく、日頃から単独行動をとっていました。近藤派にとっては芹沢派の力を削ぐためにも単独行動で気が付かれずに動くためにも最初に粛清するにはうってつけの人物だったのです。
彼もまた芹沢に劣らない程の乱暴者として知られており、京都市中で壬生浪士組の名を失墜させるようなことを何度もやらかしています。
9月半ば行きつけの祇園の店で、いつものように新見が遊んでいる所を近藤派の隊士数人が乗り込み、隊規の
- 士道に背くこと
- 勝手に金策すること
に違反したとして自決するよう新見に要求。腕利きの者ばかりで勝ち目はなく、最期は諦めて脇差で詰め腹を切らされ、新見錦は壬生浪士組の隊規違反一号として処断されたのでした。
こうして芹沢鴨の一角を潰すことに成功。
近藤はこの件で芹沢が行動を改めてくれれば謹慎程度で...と期待していた節もあったのですが、新見の死で芹沢はますます荒れてしまいます。結局、松平容保の決断を実行しなければならなくなりました。
芹沢鴨の暗殺(1863年9月18日)
暗殺のあった日は壬生浪士組で島原の角屋を貸し切って集会を行い、会議が終わると芸妓や舞子も呼んで大宴会へと移行していました。
腕の立つ芹沢を暗殺するのであれば寝込みを襲うくらいのことをしないと厳しいと考えていたためです。
酔った芹沢は配下の平山五郎と平間重助を伴って屯所の八木邸へ。飲み直そうと言って土方も一緒に帰営し二次会を開始させています。
ここには平山の馴染みの桔梗屋の吉栄、平間の馴染みの輪違屋の糸里、そして以前、芹沢が商家菱屋の妾を強奪して愛妾としたお梅もいました。
泥酔状態になった3人は、それぞれ彼女達を伴って別室で寝ることに。
この様子を見届けた土方は、襲撃準備をしていた沖田総司・山南敬助・原田左之助来合図をして4人で突入。襲撃して最初に鉢合わせしたのは平山と吉栄でした。平山は眠りこけ、襲撃に気が付かないうちに命を落としたとされています。
同じ部屋の屏風の奥にいた芹沢は異変に気付いて飛び起き応戦したものの、手練れ4人に泥酔状態では流石に敵わず、最期は斬り殺されています。この時、一緒にいたお梅も同様に斬殺されてしまいました。
別の部屋にいた平間も屏風の上から刺されていますが、騒ぎを聞きつけた八木家の妻女が挙げた悲鳴で刺客が退散したために怪我を負いながらも命からがら逃げることに成功。そのまま隊に戻ることなく脱走しています(なお、吉栄と糸里は無事でした)。
こうして、芹沢派は粛清され壬生浪士組は再出発となったのでした。