清河八郎の裏切りと京都残留浪士たちの転機
芹沢鴨による傍若無人な振る舞いがある中、無事に京都へ到着した浪士組。ところが、一番最初に彼らを待ち受けていたのは清河八郎による裏切りです。
この清河八郎が浪士組とどんな関係にあったのか、また、その後の浪士組の行く先がどうなったのか、まとめていきます。
清河八郎は何をした人?
浪士組が組織される以前の江戸では諸藩から脱藩した尊攘思想を持つ者達で溢れており、外国人に対する殺傷事件が多発しています。やがて武士以外にも浪士を名乗る者たちが現われ、働き口がなく食い扶持を稼ぐために襲う輩もではじめました。
これに対し、幕府は効果的な対策が打てないでいたため「浪士を集めて幕府で雇用すれば監視も出来るし治安もマシになるだろう」と作ったのが浪士組です。この浪士組を組織することを幕府に進言したのが出羽庄内浪士の清河八郎でした。
彼は後に『明治維新の魁』と言われ、当時から尊王攘夷の志を持っていました。国事に奔走し、幕府に追われる立場にもなっています。
ところが、そんな人物にも関わらず幕府は彼の提案を受け入れました。1863年に第14代将軍・徳川家茂が京へ上ることが決まっていたため「身辺警護が必要」というのを理由にして浪士組を先に京へ送り込み「江戸の厄介者を追い払おう」と幕府側は考えていたのです。
一方で最初から清河八郎の志は変わっておらず「尊王攘夷」が第一にあり、あくまで幕府による人集めは手段に過ぎなかったようです。
尊王攘夷宣言
幕府のお膝元を離れて京に到着した清河八郎は壬生の新徳寺に浪士たちを集め、彼の本当の目的について「将軍警護ではなく尊王攘夷の先鋒となる。天皇守護のために働くべきだ!」と熱く演説を行います。
さらに浪士組の行く先を朝廷の判断に委ねようとして署名を集めました。
浪士組一向には勿論幕府役人もいましたから寝耳に水状態。清河八郎が尊攘志士である情報を幕府側は知っていただけに、清河八郎の意見を取り入れたのは結構な大失態でした。
この演説には試衛館一門も驚きますが、彼らも尊王攘夷を持論として持っていたものですから反論も出来なかったようです。
こうした浪士組の参加者たちの様子をみた清河八郎は、彼らが自分に服従したものと考えて実際に朝廷への働きかけを開始。外国人が多く居留する横浜周辺で攘夷活動を行おうと浪士組を江戸へ引き返させるよう朝廷に願い出たのです。
ちなみに当時の孝明天皇は徹底した攘夷論者。・・・というわけで朝廷は攘夷の備えとして江戸に下ることを認めています。
この時「今回の浪士組は幕府によってつくられたものなのだから、幕府の意見を組むのが筋」として清河八郎に反対したのが近藤勇ら試衛館一門と芹沢鴨らでした。
ただし、試衛館一門の中でも妻子のいる4人は近藤勇が強制的に江戸に帰らせています。
残留を希望し脱退を言い出した近藤勇や芹沢鴨らに対して清河八郎は激怒しますが、たかだか十数人の抜けで大勢に影響はないとしてそのままにしておきました。こうして残留浪士以外の浪士組メンバーたちは攘夷を目的とした組織として活動しようと動き始めたのです。
清河八郎と浪士組本体のその後
幕府お墨付きで始めた浪士組。
面子云々抜きにして、攘夷のための組織が出来上がった事実は幕府にとってかなり警戒しなければならない事態となっていました。残留メンバー以外の200人以上の浪士たちだけでも危険なのに、攘夷思想が世の中に蔓延りつつあって浪士組への参加希望者が膨れ上がることも十分考えられたためです。
そんなわけで、実際に幕府から危険視され刺客を送られた清河八郎は江戸に戻った後に34歳で暗殺されています。
一方、幕府としては浪士組を手放すつもりはなく、そのまま召し抱える予定でいました。清河八郎の一派は浪士組本隊から一掃され、新たに新徴組として江戸市中の取り締まりにあたることとなります。
江戸に戻るよう言われた試衛館組からは沖田林太郎と馬場兵助が新徴組に参加しています。
沖田林太郎は奥さんが沖田総司の実姉ミツ。
ということで、沖田総司の義兄に当たる人物です。
京に残った残留浪士たちの転機
清河八郎から離れることになったものの、残留浪士たちには生活の当てが全くない状態になってしまいます。
が、ここは幕臣で浪士組の責任者が京都守護職を務めていた会津藩主の松平容保に「せめて元々の目的である将軍・家茂様が滞京している間だけでも...!」と彼らの身柄を預かるよう依頼し道筋をつけてくれていました。
こうした折衝をしている間に、芹沢鴨の一派や試衛館一派以外の一番組や七番組に属していた者達も残留することに。
更にこのメンバーに加えて、試衛館組と旧知だった斎藤一や現地参加した佐伯又三郎が合流しています。
壬生浪士組の派閥関係を見てみよう
京に残った壬生浪士たち24人ですが、一枚岩ではありませんでした。大きく分類すると近藤派、芹沢派に加え、後から合流した殿内・家里派に分けることができました。
そのうち非主流派は割と早い段階で脱落し、派閥トップの2人を除いたメンバーは江戸の治安維持を任された新徴組に合流。
また、芹沢派に近い粕谷新五郎(←病気の可能性と年長者が10歳年下の芹沢の下に入るのを嫌がった可能性が指摘されている)と近藤派に近い阿比留鋭三郎(病死)も同じく脱落しています。
この時点で残った15人で本格的に壬生浪士組として動き出すこととなったのでした。