新選組

江戸幕府による浪士組募集と試衛館の剣士たち

歴ブロ

近藤勇たち試衛館の剣士たちは、毎日の稽古が終わると酒を酌み交わしていました。彼らの酒の肴は決まって外国勢力から日本を守るという話でした。

1853年にペリーが浦賀に来て以来、国内で流行していた尊王攘夷論に試衛館の若者たちも影響されていたのです。

その頃、江戸や横浜では外国人に対する殺傷事件が多発していました。下手人の多くが諸藩を脱藩した【浪士】たちで、尊王攘夷に熱中するあまり直接的な譲位行動に走っていたようです。

この攘夷行動もやがて武士ではない農民の中からも家業を捨てて浪士と名乗る者が現れはじめ、江戸やその周辺は絶えず浪士たちが横行しているような状況でした。

当然、彼らがみな素行の良い物とは限らず、外国人だけではなく一般の市民や商家に押し入り食い扶持を稼ぐ不逞の輩たちもあらわれるようになりました。

 

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浪士組の募集

浪士たちの横行に対して効果的な対策が出来ない幕府でしたが、1862年に対策が取られました。

その対策が「いっそ彼らをまとめて雇い『浪士組』と名付けて幕府の監視下に置いてしまおうではないか」というものでした。一人当たり10両2人扶持、一年間に二人の人間を養えるだけの米を与える待遇を与えています。

当時の武士としてはかなり低い待遇でしたが、無収入の浪士たちにとって悪い話ではなかったようです。

さらに、1863年3月に14代将軍・家茂が京都へ上ることが決まっていたので、身辺警護の名目で浪士組を先行して京都に送り込めば、厄介者の浪士たちが一時的にでも江戸から消えて江戸の平穏が守られるだろうという魂胆でした。

この浪士たちを担当する『浪士取扱』には松平上総介が任命されました。彼は不遇の待遇を受けていた徳川家康の六男・松平忠輝の子孫です。

松平上総介の元で江戸とその周辺の剣術道場に浪士組募集の知らせが届き、試衛館にも1月中旬には届いていたと言います。

後の新選組主要メンバーのほとんどが浪士組に参加

幕府にようる浪士募集の知らせを試衛館に持ってきたのは神道無神流や心形刀流と言った名門道場を遍歴して独自の情報網を持っていた永倉新八でした。

この突然の話に近藤勇と土方歳三は歓喜したのは言うまでもありません。

武士になると言う千載一遇のチャンスに近藤と土方は即座に浪士組への参加を決めました。永倉やほかの者たちは、近藤達と事情が違っていましたが、幕府直参になれると言うのはとても魅力で浪士組に参加を決めたのでした。

しかし、斎藤一だけはこの時期に試衛館に出入りしておらず、浪士組に参加する事が出来ていません。実はこの年に殺人の罪から逃れるために京都へ行っていたのです。

こうして近藤率いる試衛館一門は、京都から帰ったら正式に幕府直参に取り立ててもらえる期待に胸を躍らせながら出発の日を待っていました。

こうして試衛館のメンバー含む多くの腕自慢たち230人余りが江戸小石川に集められました。

集めらられた浪士達は割羽織に袴をつけた武士らしい者もいれば、半纏に股引と言ういで立ちの者もおり、それぞれに太刀や槍、半弓などの思い思いの武器を持っていたといいます。

この浪士たちの人数が予定より多すぎて予算的にオーバーしてしまうためなのか、浪士取扱の松平上総介が引責辞任してしまいました。

翌日には上洛にあたっての編成部隊が発表。集められた230人は一番~七番組に分けられ、その組をさらに三組に分ける形で編成されています。

浪士組「三番組」当初の名簿

近藤のみ試衛館の者たちと離れて道中先番宿割という役職に就き、土方、山南、沖田、永倉、藤堂、原田が三番組の芹沢鴨隊に組み込まれました。記録によれば、土方は当初六番組に所属してたようですが、途中で芹沢隊に組み込まれたようです。

浪士組の上洛【芹沢鴨とゆかいな仲間たち】

浪士組は1863年2月8日に江戸を出発。上洛は、中山道六十九次でこれを16日かける行程でしたが、3日目の10日に本庄宿に着いた時に事件が起きました。

土方歳三らの隊長を務める芹沢鴨が自分の宿が用意されていなかったことに腹を立てて「自分は野宿する」と大かがりの火を焚き始めたのでした。

これは、宿割りの近藤と池田徳太郎の手違いで、二人は詫びを入れたが芹沢はなかなか許そうしません。そうこうしているうちに、かがり火が大きく燃え上がり、建物に燃え移りそうになるという事態に…

やっと芹沢をなだめ、急いで用意した宿へ案内すると、そこでも芹沢は騒ぎ出したのです。宿の外に三番隊と書いてあるのが気に入らないと言うのです。何でも一番ではないと気が済まない芹沢は、三番の表札を小刀でけずり一番隊に変えてしまってのです。

芹沢と言う男は、こうした傍若無人な振る舞いを平気でする男なのでした。

 

芹沢鴨は水戸藩の郷士とも神官でもあったと言われ、地元では【天狗党】呼ばれる藩内尊王攘夷派の幹部として活躍していました。それがあるときに意見の対立から同志三人を切り捨ててしまい犯罪者として投獄されていました。

危うく死刑となる寸前に幕府による恩赦が行われ助かった芹沢は、その後、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司と共に今回の浪士組に参加しました。

幕府にしてみれば天狗党時代の実績を考慮しての浪士組頭でしょうが、本庄での大かがり事件を始めとした芹沢の不穏な行動には頭を悩ませていました。

結局、芹沢は17日に組頭を罷免され、浪士取締役の山岡鉄太郎達の目の届く所・取締役付に命じられることになるのでした。

 

その後任となったのが近藤勇でしたが、問題を起こした近藤と芹沢派を分断しようと土方以下6名は六番組にいれかえられることになりました。彼らが三番と六番隊に分かれてしまったのはこのためだったのです。

ただでさえ個性的な人間が集まっている浪士組。責任者を始め同行した幕府の役人たちの気苦労は絶えなかった事でしょう。そんな大変な長旅も21日に京都まであと10里と言うところまでこぎつけ、幕府は長旅の成功を祝い浪士達に酒がふるまわれました。

そして、2月23日の朝に浪士組は京都へ到着したのでした。

 

そこで待ち受けているのは、浪士組の黒幕・清河八郎の裏切りでした。

清河の本心は尊王攘夷で、幕府の力で集めた浪士達を自分たちの野望の為に利用し用としていました。そのため、浪士組は清河のバックにいた朝廷の命令で江戸に引き返すことになった一方で近藤達試衛館一門と芹沢鴨は京都へ残るのですが…

ちょっと早いですが、キリが良いのでこの続きは次回にしたいと思います。

 

 

ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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