日本史

禁門の変とは?背景~結果まで分かりやすく解説!【1864年7月19日】

歴ブロ

禁門の変』は、またの名を『蛤御門の変』『元治の変』とも呼びます。元治元年7月19日(1864年8月20日)に京都御所付近で起こった長州藩と幕府軍との間で起こった武力衝突事件です。

今回は禁門の変で長州藩と幕府軍が衝突に至るまでの経緯や経過、結果までを簡単に紹介していきます。

 

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禁門の変が起こった場所は??

武力行使が行われたのは京都にある御苑の外郭九門(外郭とは外の囲いのこと)の一つ、蛤門の前でした。なお、その武力衝突の名称にある禁門とは「皇居の門」を意味しています。

歴ぶろ
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蛤御門とは...普段開くことがほぼないのに幕末以前に起こった火事の時に火にあぶられて開いたことから貝のハマグリになぞらえて蛤御門と呼ばれるようになりました。

 

禁門の変が起こった経緯を見てみよう

京都では禁門の変が起こる以前より攘夷派と呼ばれる「異国を追い払おう!」という思想を持つ人達が集まっていました。実力行使も度々しているため治安も悪化。こうした人達を江戸幕府が雇った浪人たち(壬生浪士組、後の新選組)が取り締まるような状況が出来上がっています。

孝明天皇

この時の天皇・孝明天皇は異国を追い出す攘夷派寄りの考え方であったため、攘夷派は尊王思想を強くしていきました(天皇を尊ぶ思想。佐幕派も尊王思想を持っていたが、攘夷派の場合は「政治の中心に立ってもらいたい」という政治運動の面も持ち合わせていた)

孝明天皇(wikipedia)より

 

中でも長州藩の人達の思想はかなり過激なものでした。現在の関門海峡を通る「外国船を砲撃」という無茶なことをやらかしています。

攘夷を目指す立場として長州藩は朝廷内で力を持つようになっていましたが、実のところ天皇の考えは長州の過激な行動とは相容れず、孝明天皇は「幕府と朝廷が力を合わせて難題に対処していこう」と考える公武合体派の公卿に相談。

その結果起こったのが1863年の八・一八の政変で、長州藩は京都から追い出されたのでした。

 

この後に「すぐにでも八・一八事件での汚名を返上し失った勢力奪還のために武力を持って上京しよう」とする過激派と「京には慎重に行こう」という者たちの対立が起こります。

ところが、藩内で意見を交わしている中で池田屋事件の一件を知ってしまいました。これにより過激派が激昂。

桂小五郎久坂玄瑞といった慎重派は彼らを沈静化させようとしたものの抑え込むことが出来ず、ほぼ暴発する形で長州藩は挙兵。続々と京へ兵が向かうこととなったのです。

 

どんな人たちが参加したの??

慎重派に圧されて藩兵を率いた一人の久坂玄瑞高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と呼ばれた人物で、吉田松陰の弟子で松陰の妹を妻に娶りました。

彼と真木和泉(久留米藩)が率いる約300人の軍勢は山崎天王山に、来島又兵衛、国司信濃ら約600人は嵯峨天龍寺に、福原越後ら300人は伏見に、益田右衛門介らは八幡にそれぞれ布陣しています。

一方の幕府軍。会津、桑名、薩摩をはじめとした諸藩総動員で布陣を敷きました。もちろん池田屋事件で活躍した会津藩御預の新選組も参加。伏見方面の守備についています。

↑スペース上書いてありませんが、幕府側は他の藩や武士も参加しています

長州藩は入京を訴えますが、兵を連れて入京出来るわけがありませんでした。幕府からは全軍撤退を言い渡され、交渉が決裂したことを知ると7月19日(現在の暦だと8月20日)の早朝から武力行使に訴えています。

御所の蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突。禁門の変が始まりました。

 

嵯峨天龍寺方面からの勢いが強かったと言われ、蛤御門のお隣の中立売御門は一時的に来島又兵衛、国司信濃隊に突破され御所内へ侵入されてしまいます。ここを防いだのが中立売御門の蛤御門とは逆隣を守っていた薩摩藩兵による援軍です。

周辺に布陣していなかった新選組は禁門よりもだいぶ南側で長州勢と銃撃戦を行っています。その後に御所方面へ向かいますが、到着した頃には既に長州軍は退却を始めていたため公家の鷹司邸内に隠れた一部の敗残兵を倒しました。

また、別の日には掃討戦にも参加。戦争の首謀者の一人とも言うべき真木和泉ら17人を会津藩と共に天王山の山頂に追い詰めています。彼らは山頂にある山小屋に駆け込むと火薬を仕込み、全員で自決しました。

結局、禁門の変は一日で収まったのですが、久坂玄瑞をはじめとした長州藩でも影響力を持つ人材を失う手痛い敗戦を被ったのでした。

 

京都の被害状況

長州藩にとっても手痛い出来事でしたが、最も被害を受けたのは京都の一般庶民たちです。

禁門の変

戦闘の最中に長州勢が落ち延びるために藩邸に火を放ち逃走。会津藩も長州藩士が隠れていると見た家屋を攻撃し、そこから火の手が上がります。この時は北風が吹いていたとも言われ、風にあおられて二か所の火元から上がった炎はあっという間に京都市中に燃え広がっていきました。

火は翌日どころか三日間も燃え続け、六角通にある政治犯などを収容した六角獄舎に及びそうになると「火災に乗じて逃げ出さないように」と役人の独断で刑の確定していない者も含む33名が首を刎ねられる悲劇も起きています。

この中には池田屋事件で捕縛された古高俊太郎も含まれていました。

 

『禁門の変』後

御所を前にこれだけの騒ぎとあって、長州藩は完全に朝敵と見做されています。御所に向けての発砲したこと、藩主の毛利慶親と元徳父子が国司信濃に当てた軍礼状が見つかったことが理由です。

幕府からは長州征伐の命が下されただけでなく、毛利慶親は官位と将軍家から賜った慶親の偏諱を剥奪されました。以後、敬親と名を改めます。

 

長州にとって最悪な事に、ちょうどその頃、前年に関門海峡で外国船を砲撃した事件の報復として英仏蘭米の4ヶ国が襲来。下関戦争が起こったため、長州征伐では実際の戦闘は行われずに幕府側の要求を受け入れることで終了しています。

この時に実際に戦闘が行われないように介入したのが西郷隆盛でした。

 

長州征伐では尾張藩主の徳川慶勝が総督に、参謀に西郷隆盛が任命されています。西郷は幕府側の要人で軍艦奉行・勝海舟に協力要請のため会いに行きました。

この勝との会談で「列強各国が日本を狙っている中、国内を二分して争うのは避けなければならない」と考え、長州へ折れるよう積極的に働きかけていたのです。

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無血開城について話し合った会談は、この会談の約3年半後です

 

結果、敬親は禁門の変を率いた三家老である国司信濃、福原越後、益田右衛門介の切腹と参謀の斬首など、さらに敬親自身も謹慎を受け入れ一応の決着をつけたのでした。

 

少し違った視点で見たい方は下の記事も参考にしてください。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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