江戸時代

8月20日に起こった禁門の変とは?

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本日のテーマは幕末好きならご存知の1864年8月20日に京都で起きた 会津や薩摩をはじめとする江戸幕府 vs 長州藩との武力衝突事件

禁門の変 について書きたいと思います。

・・・と言いたいところですが、以前禁門の変と第一次長州征伐の記事で細かい内容を書いていますので、少し趣向を変えて当時の孝明天皇や朝廷からの視点も交えて事件を見ていきます。朝廷側の様子が見えることでグッと禁門の変がどんなものかが見えてきますよ。

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幕末期の長州藩の立ち位置

1861年に長州藩の目付というお偉いさん(有能な人が選ばれていました)

朝廷と幕府が開国策で協調して、軍備を強化したのちに海外に進出すべき

という思想を進言したことで、藩の考え方が 公武合体 に傾きます。

そこに待ったをかけたのが 高杉晋作 ら松下村塾出身者です。

通商条約なんて破棄して外国人を討伐しようぜ

という過激な思想です。

完全に思想が二分し藩は分裂を防ぐ必要が出てきました。そして、当時の長州藩がとった決断が公武合体を提案した目付を切腹させること。

これを機に長州藩は武力行使を伴う 尊攘運動 を開始していきます。

当時の朝廷の様子

時は遡り、1858年。日本とアメリカの間で『ある条約』が結ばれます。

日米修好通商条約 です。

この条約締結には多くの人が反対しました。

元々江戸時代には初期の時点で既に 禁中並公家諸法度 とよばれる

天皇や公家は政治に干渉しないでね

っていう法律、いわゆる 禁中並公家諸法度 が定められていたのですが、このルールを日米間の条約締結の際に幕府自ら破ってしまったのです。

なにしろ徳川幕府始まって以来の大ピンチ。

徳川幕府が始まって以降どころか武力によって国体が変えられてしまうかもしれない危機なんて元寇辺りまで時代を遡らなければないかもしれません。

幕府側の中には、この緊急事態で他の大名や朝廷から話を聞かず勝手に物事を進める危険性を感じている人たちがおりました。ペリーの来航以前の飢饉や改革などで既に幕府の信頼が揺らいでいる最中の出来事だったためです。

 

そんな状況下だったため、大名には意見を求め天皇には勅許を仰ぎます。

外国事情に精通している藩には『開国もやむなし』の意見もありましたが、そうじゃない藩は反対派が大多数。何しろ幕府は他国の情報を独占的に握って諸藩には知らせていませんから当然と言えば当然かもしれません。

外国事情を制限されていたのは朝廷も同様で 孝明天皇 もその反対派のお一人。しかも意志が非常に硬かったそう。結局、幕府の思惑とは異なり勅許を得ることができませんでした。

それでも、大国・清と大英帝国間のアヘン戦争やその他さまざまな外国事情を手に入れていた幕府の中でも重臣と呼ばれる人たちは

攘夷なんてとんでもない!

という考え。その筆頭が 井伊直弼 です。

井伊直弼はご存知の通り、日米修好通商条約を孝明天皇の意志を無視して結びます。

ここに将軍の後嗣争いが絡み、井伊直弼は安政の大獄を断行。

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その出来事に反発した結果が水戸藩の尊攘派による 桜田門外の変 による 井伊直弼の暗殺 です。

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禁中並公家諸法度 が定められていたとしても天皇の影響力が絶大だということを内外に知らしめた出来事でもありました。

そうすると出てくるのが

朝廷を味方にすれば上手く攘夷にこぎつけるのでは?

と言う考えです。もちろん

幕府と朝廷で国難に備えて協力しながら乗り切りましょ

という公武合体を考える者もいれば

倒幕したうえで追い払おう!

と考える者達もいるわけです。その後者の筆頭が 長州藩 でした。

当時の天皇・孝明天皇は・・・というと攘夷はするけれども協力して国難を乗り切ろうという考え方を持っていました。ところが、朝廷内部も一枚岩ではありません。厄介なことに勅(天皇の命)を偽造できるほど天皇に近い立ち位置に長州藩の味方になる公卿が複数人いたのです。

1863年、8月18日の政変と池田屋事変

上記の様な状況に気付き動いたのが長州と敵対していた薩摩藩(公武合体派)と京都守護職についていた会津藩。両藩に警備を頼んだうえで、尊王攘夷の過激派一派、さらにその過激派と親しい公卿の参内を禁止させます。

これが 八月十八日の政変 と呼ばれているものです。

自分たちは陛下の意思に従い攘夷を実行すべく動いた

と考える長州藩の過激派や周辺の公卿たちのとっては後味の悪い結末になりました。朝廷内はこれを機に公武合体派が優位に立っていきますが、長州藩のいなくなった京の政局は・・・というと、精彩を欠いたまま。1863年の末には合議制会議が発足されますが、意見がまとまらず上手く機能していませんでした。

少しずつ尊攘派から

長州が京都での政局を復帰できるようにして欲しい

という声が囁かれ始めます。

そんな様子を見ていた長州藩。京での立場を巻き返そうとする者と時期を見て慎重に動こうとする者達の間で意見が分かれます。

中でも、すぐに動こうとする考えの長州の中でも特に過激派の者達は

京に火を放ち混乱に乗じて皇族の中川宮を幽閉、将軍後見職の一橋慶喜、会津藩主で京都守護職の松平容保を暗殺しよう

という計画の話し合いをしようとしていました。この会合が1864年7月8日にあるという情報を得ていた新選組が長州藩の浪士たちを襲撃。この出来事が有名な

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池田屋事件 です。

※現在は居酒屋さんになっています 

ちなみに中川宮は八月十八日の政変に大きく関わった人物。松平容保は京での治安維持を担っていた新選組の総元締め。しかも、この三名は公武合体派の中心にいたような方達でもあります。

※池田屋で孝明天皇の拉致計画を立てていた説が割と一般的なのですが、個人的にその計画は無茶がありそうと考えているので敢えて公武合体派の暗殺のみに言及しています

この事件により長州藩は逸材を何名も失い、大打撃を受けました。と同時にあまりにも衝撃的な事件だったため藩内の意見は強硬な物へと変化していきます。この強硬派に引きずられる形で 禁門の変 へと発展していったのです。

禁門の変が起きた結果

江戸幕府側は一橋慶喜、一方の長州藩は福原 元僴(ふくばら もとたけ)を総大将とし、戦闘が勃発。この戦いは江戸幕府の勝利に終わり1日で収束したものの、京では市街地戦が行われ約3万戸もの住宅が消失。

長州は戦いの最中に大砲を投入。御所(蛤御門)にも発砲したことで 禁門の変 を機に朝敵として認定されてしまいます。加えて攘夷派の指導者やその指導者に従った多くの浪士たちを失い、勢力を大きく後退させました。

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↑ 蛤御門

一方の幕府側の変化というと、この争いで主力を担った 一橋慶喜、会津藩、桑名藩 が京都での政局を担うことになったこと。

ところで、ある藩が抜けていることにお気付きでしょうか?そう。薩摩藩です。

どうして 八月十八日の政変 でも 禁門の変 でも薩摩藩は参加していたはずなのに政局の中心に入れなかったのでしょうか?

長いですが最後に薩摩藩が京での政局に関われなかった事情についてお話しします。

薩摩藩の事情とは??

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上の絵は1862年に起きた生麦事件の錦絵です。

生麦事件とは大名行列を横切ったイギリス人商人が殺傷された事件です。生麦事件の後処理がこじれて外交問題となり、翌年には 薩英戦争 が始まります。

この戦争は一つの結論を薩摩に出させます。その結論とは

(今すぐの)攘夷は困難 というもの。久光をはじめ、多くの薩摩藩士にこの認識を植え付けました。

また、薩英戦争が契機となって互いに認めるような形で薩摩藩はイギリスと接近する土壌ができていったのです。

ちょうど同時期、公武合体の一つの帰結として新たな政治体制を島津久光が提案し、参与会議が発足していきます。

※上の話は島津久光による文久の改革と八月十八日の政変にも書いてあるので、良かったら確認してください

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そんなおり、長州藩が薩摩藩の貿易船を砲撃。薩長の仲は決定的に悪くなります。

外国との交渉事を最優先したい慶喜と実害が出ているので長州藩の処罰を優先させたい久光。参与会議はまとまりません。

しかも、慶喜ら幕府側から見ると薩摩藩は非常に裕福で藩主が(参与会議の提案や八月十八日の政変から分かるように)非常にキレる人物で要注意の藩だったことも影響し、なるべくなら政局から遠ざけた方が良いと判断されたのかもしれません。

 

参与会議の中で

攘夷は(後に)するけど開国派 という久光の立場を明らかにされた事で、ゴリゴリの攘夷派で開国なしを主張する孝明天皇の信頼を失いました。

一橋慶喜も開国派で似たような考えではありましたが、上手く交わして孝明天皇の信頼を勝ち得ています。そんな経緯から薩摩藩は京での政局に関わる機会を失うことになっていったのです。

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miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。