鎌倉幕府と室町幕府の違い
源頼朝が鎌倉後に幕府を開き、その後500年近く武士による日本の統治が続きます。
その中でも鎌倉と室町幕府は一見似たような仕組みに見えます。一方で江戸幕府は、同じ武家政権でも、まったく別の仕組みで統治していました。
鎌倉幕府と室町幕府の違いは、良く試験などに出てくるみたいです。
そこで今回は、違いや共通点などを書いていきたいと思います。
鎌倉幕府と室町幕府の違い
鎌倉幕府と室町幕府の違いは、いくつかあります。
全国の統治体制の違い
鎌倉幕府の支配体制は全国各地であったのに対し、室町幕府は京都を中心とした西日本地域でした。以前、信長の小さな天下の記事を書いた時に天皇を中心とした機内が天下統一の範囲と書きましたが、まさにこの範囲です。
そのため、室町幕府では関東中心とした東国には鎌倉府が置かれ代々・足利尊氏の家系が鎌倉公方として統治していました。また、東北には奥州探題・羽州探題、九州には九州探題が置かれ、足利家に近い大名家が統治していました。
上記のように、室町幕府は全国を異なる統治機構で分割統治していたことになります。
そのため、鎌倉府は度々室町幕府に対して、反乱を起こし両者の関係は微妙なものでした。
将軍・武士の関係の違い
鎌倉幕府では、将軍と御家人との間で、御恩と奉公の関係で主従関係が構築されていましたが、室町幕府では幕府全体が有力大名の連合政権となっています。
室町将軍家は、大名を束ねる盟主として機能していましたが、個々の大名が力を持っており、義満の時代を除き、将軍家が幕府の運営を主導できず、常時政権が安定していたとは言えませんでした。
これは鎌倉幕府で、将軍から見れば一御家人に過ぎない北条氏が執権を世襲し、将軍に代わり、その強大な権力の下に幕府を主導したのと対照的に見えます。
幕府の開いた場所の違い
源頼朝は、鎌倉の地に幕府を開き、足利尊氏は京都の地に幕府を開きました。
しかし、尊氏は源氏の継承者として鎌倉の地に幕府を開きたかったようです。
なぜ尊氏は、京都に幕府を開いたのでしょうか?
それは、後醍醐天皇との確執にあります。
当時は、南北朝時代で京都に勢力を置く北朝と吉野(奈良)に逃れていた、後醍醐天皇の南朝に分かれていました。足利尊氏は、北朝側の天皇に征夷大将軍を認められたので、北朝が倒れては困ります。
もし、鎌倉に幕府を開いていたら、後醍醐天皇の思うつぼなので京都から離れるわけにはいきませんでした。そのため、尊氏は京都の地に幕府を開いたのです。
守護・地頭の権力の移り変わり
鎌倉幕府では、守護の権力は謀反人・殺害人逮捕などの警察権のみで、徴税権を持つ地頭の方が力を持っていました。しかし、室町幕府は惣領制が解体し、地縁的結合が重視されるようになった時代なので、守護の力が強くなっていきます。
さらに、幕府から警察権に加え、司法の執行の権利を得て、支配権を強めていきす。
守護の支配権が強くなった要因は【半済】で、荘園・公領から年貢の半分を兵糧として徴収できる制度で、争いの激しい一部の国にしか認められませんでしたが、これが全国へ波及します。
この半済や年貢の徴収を守護が行う【守護請】を通し、公領や荘園が次第に守護領へ変わっていき、守護大名が成立します。この頃には鎌倉時代の地頭たちは、守護大名の家臣となり吸収されていくのです。
鎌倉・室町幕府の財源の違い
鎌倉幕府は、直轄の荘園や御家人を通して諸国の知行による収入がメインでした。
室町幕府は、貨幣経済の発展を受けて、関所の通行税、港の利用税や京都五山や土倉、酒屋からの献金が大きな財源でした。さらに、国家的行事の際に、守護を通して全国から段銭(土地税)や棟別銭(建物税)をもらいます。
室町幕府自体の直轄領の年貢は、とても少なくほとんどが上記のような収入が主な財源で、貨幣経済や守護の実力に依存した財政だったのです。
鎌倉幕府と室町幕府の共通点
大きな違いが理解したところで、共通点を見ていきましょう。
共通点は、両者とも朝廷の権威を前提とした上で、同様の統治機構を構えた点があります。正確には、室町幕府が鎌倉幕府の統治機構を参考にして、その仕組みを構築したと言うのは間違いないでしょう。
実際に、鎌倉幕府で設けられた、政所、侍所などが室町幕府でも設けられています。
また、鎌倉幕府では将軍を補佐する最高権力者として執権がありましたが、室町幕府においては、将軍を補佐する役職として管領が設置されています。
鎌倉幕府と平氏政権の違い
源頼朝が源平合戦の末、源氏の棟梁として征夷大将軍に任命され、鎌倉後に幕府を開き日本で初めての武家政権が誕生しました。1183年には、東国における荘園・公領からの年貢納入の保証と支配を公認する宣旨を発しています。
1185年には、守護・地頭の設置を認められています。
こうして、源頼朝は、全国的な支配を拡大していきました。
一方で同じ武家でも、平清盛による平氏政権は、従来の朝廷の貴族制度内で、平氏一門を朝廷で高い官職を占めて政権を取った事により、貴族政治的な要素が強いと考えられ、武家政権とは数えられない場合が多いようです。
しかし、近年の研究で、平氏政権が地頭や国守護人を設置した事に着目し、日本初の武家政権とする見解が非常に有力となっています。
最後に
鎌倉幕府は、源頼朝という優れた政治家の下で計画的に政治が行われていたのですが、地盤が軟弱なので、源氏将軍が3代で費える事になり、4代目以降は執権北条氏による政治がメインとなりました。
一方で、室町幕府の足利義満くらいまでの時代には将軍の力で守護大名を押さえつける力がありましたが、段々と将軍の権力が失墜すると守護大名達によって将軍が傀儡化される流れが出来き、大名同士の権力争いが激化する事で戦国時代へと進んでいきました。