鎌倉公方と関東管領の違い。公方様とは誰の事を指していたのか?
室町幕府には、将軍を補佐する役職として【管領】と言う役職が置かれました。
管領は、幕政にとても大きな役割を持っていたので、将軍と共に【京都】にいました。京の都のほかに、武士の本拠地である【鎌倉】の地にも鎌倉公方と言う武士たちを統括する役職を置き、その補佐をする【関東管領】と言う役職が置かれるようになりました。
他にも、古川公方や稲村公方、堀越公方など色々なものがあります。
そんな、【公方様】や関東管領がどうしてできたのか、書いて行きたいと思います。
室町殿と鎌倉殿
室町三代将軍足利義満が京都室町に館を構えると、室町幕府の将軍の事を【室町殿】と呼ばれるようになります。一方で鎌倉公方とは、足利家の分家が代々なっており、鎌倉に住んでいたことから【鎌倉殿】と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代には、鎌倉幕府の事を【鎌倉殿】とも呼んでいたことから、幕府で一番偉い人物の事を〇〇殿と呼ばれていたようです。
鎌倉公方と関東管領
初代将軍・足利尊氏の4男、足利基氏は1349年に鎌倉に入り東国の管理を担当することになります。これは、幕府の安定のために、諸国の政務や治安維持のために一族を派遣し、鎌倉に入った基氏は【鎌倉公方】と呼ばれるようになります。
しかし、鎌倉公方就任時、基氏はまだ10歳だったので補佐役が置かれ、実質政務を行っていました。その補佐役が【関東管領】で上杉家が関東での政務を独占して世襲していくようになります。ここから関東管領が、上杉謙信まで流れていくことになります。
また、京都での将軍を補佐する執事も【管領】と言われていました。
この関東管領は、一人の武将で政務にあたっていたわけではなく当時は、畠山国清、宇都宮氏綱と上杉憲顕の複数で担当していました。鎌倉公方である足利基氏の補佐をして、関東数十か国支配していましたが、1352年に足利尊氏の怒りを買い上杉憲顕は、信濃に追放されます。
足利尊氏死後の1364年に、基氏は上杉憲顕を越後守護に任命して関東管領を復帰させます。これが、越後上杉家の発祥となりました。これがきっかけで、畠山国清らの他の管領を罷免させて、以後関東管領は【上杉家】が代々世襲していったのです。
しかし、これも長くは続かず、鎌倉公方の足利家と関東管領の上杉家が対立して、4代将軍足利義持が関東を直接支配しようとすると、1439年の永享の乱が起こります。この乱で、関東管領の上杉憲実が鎌倉公方の足利持氏に勝ち、自害に追い込むことによって鎌倉府が無くなります。
上杉家との対立で古河公方から堀越公方へ…
上杉家と足利家との対立が解消されないまま、鎌倉府の再興が行われ、足利成氏が鎌倉公方に、関東管領には上杉憲忠が就任します。しかし、上杉憲忠が足利成氏に暗殺されたことにより、1455年に享徳の乱がおこります。
足利成氏は、武蔵国の分倍河原の戦いで、上杉軍を打ち破りますが、上杉家と親戚関係にあった今川家の進攻にあい鎌倉が占領されてしまいます。そのため、成氏は本拠地を下総の古河御所を本拠地をします。これが、【古河公方】の始まりです。
この成氏のかわりに、鎌倉公方として室町幕府から足利政知が鎌倉に送られますが、この頃から幕府の権威が低下しており、上杉家の内紛も加わって、足利政知は鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越に御所を構えたことから【堀越公方】と呼ばれるようになります。
これにより、鎌倉公方と言う肩書が消滅することになります。
以降、関東では古河公方が頂点とし、関東諸国の豪族勢力に加えて、幕府側の堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家が関東を東と西に分けて戦い続けました。これが長期化することで、北条早雲が1493年に伊豆に侵入した事で、戦国時代へと進んでいくのです。
篠川公方と稲村公方
公方様には、篠川公方と稲村公方もいました。
篠川公方は1399年に3代目鎌倉公方の弟、足利満直が奥州統治のために伊達家や斯波家の抑えとして、陸奥の安積郡篠川に派遣されたことで『篠川公方』と呼ばれてました。
稲村公方も、陸奥の岩瀬郡稲村に派遣された足利満貞が呼ばれていました。
公方とはなに?
そもそも公方とは、鎌倉幕府を開いた足利尊氏が朝廷より公方号を授かったととに始まっています。ようするに本来は、将軍の敬称を【公方】と呼ぶのですが、足利義満の時代になると、足利家の出身者の事を【公方】と呼ばれるようになるのです。
これは、足利基氏が鎌倉公方と呼ばれたことから始まったとされています。
その後の関東の情勢と関東管領
やがて小田原城主の北条氏康が、古川公方・関東管領上杉家を駆逐して関東を制覇していきます。この時の関東管領【上杉憲政】が越後に逃れて「長尾景虎」に関東管領の職と山内上杉家の家督を譲ることにより、【上杉謙信】誕生します。
上杉謙信以降の関東管領は、消滅されたとしていますが1562年に武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ滅亡すると、前橋城に入った織田信長の家臣である滝川一益が【関東管領】を名乗ったとも言われています。
しかし、関東管領と言う役職が室町幕府体制下の役職であることや滝川一益が関東管領になったと言う史料が見つからないことから疑問視される声もあるということです。