鎌倉時代

ジャンプ漫画【逃げ上手の若君】の主人公・北条時行の生涯

歴ブロ

北条義時の死後150年程後の人物で孫の孫の孫の子供にあたり2022年11月現在、少年ジャンプで【逃げ上手の若君の主人公であるのが北条時行。

鎌倉幕府の執権・北条高時の次男として生まれましたが、時代は鎌倉時代末期。後醍醐天皇が倒幕の為に兵を上げていた頃で、幕府の本拠地鎌倉も新田義貞の手によって攻め滅ぼされてしまいました。

北条高時を始め870人の一族や家臣たちが自害する中、幼い時行は諏訪一族に守られながら、鎌倉の脱出に成功します。その後は、父・高時を死に追いやった足利尊氏を仇とばかりに戦いを挑み続けました。

そこで今回は、鎌倉幕府再興を賭け、その生涯を復習に生きた北条時行について書いて見たいと思います。

 

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北条時行の誕生と鎌倉幕府滅亡

鎌倉幕府の事実上の支配者である執権・北条高時の次男として生まれました。

生まれた時期はハッキリとしていませんが、長男が1325年にすでに生まれており、1329年に書かれた金沢貞顕書状に【今度生まれる高時の子供】言う旨が書かれている事から1329年に生まれたと考えられています。

 

1331年の時行2歳の頃に鎌倉幕府と後醍醐天皇が対立。

当初、幕府が優勢でしたが、御家人・足利尊氏と新田義貞の離反により、尊氏によって六波羅探題が滅亡。新田義貞によって鎌倉が落とされ、父・北条高時はじめ870名の一族や家臣たちが東勝寺にて自害しました。

この時、幼かった時行は、家臣の諏訪氏の助けにより鎌倉を脱出し、諏訪市の本拠地である信濃国へと逃れたのでした。

兄の北条時邦も鎌倉の脱出を試みていたのですが、家臣の裏切りに合い新田方に捕まり処刑されています。

 

新田義貞による鎌倉攻めと鎌倉幕府の滅亡 足利高氏が六波羅探題攻略したわずか1日後、関東では新田義貞が挙兵します。義貞は、鎌倉を目指し稲村ヶ崎から兵を進め侵入し、鎌倉の街...

 

建武の親政と北条時行の挙兵【中先代の乱】

後醍醐天皇による建武の親政に不満を持った御家人たちは、各地で反乱を起こすようになります。これらの反乱のほとんどは、北条氏の関係がある者たちによって起こされたとされています。

研究者の間では、北条氏ゆかりの者が主導したのではなく、不満を持っていた御家人たちが北条氏を担ぎ上げたのではないかと考えています。

中先代の乱

1335年、時行は北条氏の残党や後醍醐天皇に不満を持つ御家人たち【諏訪頼重】などと共に信濃国で挙兵。その勢いは、凄まじく当時の信濃守護・小笠原禎宗を撃破し、そのまま関東平野へ進軍しました。

鎌倉に滞在していた足利尊氏・直義兄弟は、大軍を派遣しますが、北条軍はこれも撃破し、東国の有力な御家人たちを打ち破ります。足利直義もまけずに応戦しますが、また北条時行が勝利した事で、鎌倉を脱出し時行の鎌倉奪還が成功しました。

しかし、ほどなくして兄・足利尊氏が京都から進軍。時行は、善戦しますが、ジリジリと追い詰められ、鎌倉は再度足利勢に落ち、北条軍は壊滅しました。

こうした一連の戦乱を先代の鎌倉幕府と当代の室町幕府の間という事で【中先代の乱】と呼ばれています。

 

この時、時行を支えた諏訪頼重・時継親子ら一族は、自害しましたが、顔を剥いで自害した為に、誰の死体かわからない状況になりました。これを見た足利尊氏は【きっと時行も自害したのだろう】と処理したと言います。

しかし、北条時行は、何を逃れ再び挙兵する機会をうかがっていたのです。

 

足利尊氏への復讐を誓い南朝へ帰順

鎌倉を制した足利尊氏は、そのまま後醍醐天皇に反旗を翻し、京都に上り後醍醐天皇を幽閉しました。しかし、京都を逃れた後醍醐天皇は、大和国の吉野で朝廷を開き、京都では北朝、吉野では南朝が並立する南北朝時代が始まりました。

この時の、北条時行の正確な動向は不明ではあるものの、吉野側の南朝に帰順して、朝敵だった事を罷免する旨の書状を得たと言います。

太平記には、【父・高時は自らで幕府を滅ぼしたのだから仕方がない。しかし、足利氏は北条氏が恩賞を与え血縁を結ぶことで発展してきたのに、その恩をあだで返し北条氏を滅ぼしたことが許せず、尊氏と直義に復讐したい】と描写されており、研究者の間でもこの説が通説になっています。

 

いざ鎌倉へ!!

南朝に帰順した時行は、1337年に陸奥国から京都を奪還するために挙兵した畠山顕家と呼応するように伊豆国から5000人の兵を率いて鎌倉を目指して進軍しました。以前、鎌倉を直接滅ぼした新田義貞の子・義興も上野国で挙兵し、足利方を敗走させます。

その勢いで、京都へ進軍中に、足利の有力武将・高師直や土岐頼遠を敗走させてます。

一旦、伊勢国で休憩を取りながら、進路を大坂に向け遠回りで進軍するが、これが仇となり畠山顕家が戦死。軍が壊滅し、北条時行は再び雲隠れするのでした。

三度・四度と挙兵するが…

1340年に時行は、諏訪頼継と共に挙兵し、北朝側の小笠原貞宗との戦に挑みます。

何度も、小笠原軍を退けるも、度重なる攻勢に兵士が持たず敗走し、再び雲隠れします。

 

1352年に上野国で新田義興・義宗兄弟が、信濃国では宗良親王を奉じて諏訪氏が挙兵すると、新田義興軍に属して足利基氏を破り、鎌倉を奪還しました。

しかし、約一か月後に鎌倉は幕府軍に奪い返され、再び鎌倉を脱出して雲隠れをしようとしますが、今回は足利勢に捕まり、1353年鎌倉の処刑場で、処刑されてしまいました。

足利尊氏に戦いを挑み続けながらも結局は目的を果たせず、鎌倉幕府が滅亡してからちょうど20年目のことでした。

 

北条時行の伝説は後北条氏に関係する

1353年に時行は、処刑されたと言われていますが、これには異説があり、処刑されたのは時行の身代わりで、本人はしっかりと逃亡に成功し、伊勢国に渡り伊勢次郎と名乗りその生涯を終えたと言います。

その伊勢次郎は、時盛、行長、氏盛とその系譜を繋げたと伝えられています。

ここで歴史好きなら、伊勢氏盛と聞いてピンときたでしょう。ご存じ、戦国武将のパイオニア北条早雲その人です。伊勢氏盛⇒宗瑞⇒北条早雲です。

歴ぴよ
歴ぴよ
北条早雲と言う名は、伊勢宗瑞死後、子の北条氏綱が北条氏を名乗った事から付けられたなとされています。
北条早雲
日本初の戦国大名北条早雲(伊勢盛時)と小田原後北条氏100年の基礎 下剋上のパイオニアとして良く取り上げられる北条早雲は、戦国時代初期に活躍した武将で、一介の浪人から大名にまで成り上がったその野心的な...

 

早雲の出身は、伊勢氏でほぼ間違いないとされていますが、伊勢氏と北条時行の関係が、いまだ伝説の域を超えていません。しかし、時行は幕府滅亡後のしばらくは音信不通で所在が分からなくなっています。

もしの伝説が本当であれば、後北条氏はしっかりと執権・北条氏の子孫だったという事が分かるのですが、ジャンプの題材になるくらいの人物なのだからもしかしたもしかするのかもしれませんね。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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