酔った勢いで土岐氏断絶危機に!?【土岐頼遠】
土岐頼遠は鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した武将です。
かなりの破天荒ぶりを発揮していて衝撃的な人物なのですが、あまりメジャーな時代じゃないために埋もれがちな土岐頼遠を紹介していきます。
土岐頼遠の出世街道
土岐頼遠は室町時代の美濃の初代守護・土岐頼貞の六男として誕生しました。鎌倉時代には父・土岐頼貞と共に鎌倉幕府の執権・北条得宗家、六波羅探題に仕えています。祖母が鎌倉幕府の執権の娘だそうで、鎌倉時代から土岐氏が重用されていたのが分かるかと思います。
そんな良いとこのお坊ちゃんのはずなのですが、頼遠は非常に個性的なお方でした。当時は服装も行動も派手でぶっ飛んでいて古くからの権威に反抗するような社会風潮・流行があったようです。
そんな人達を『バサラ(婆娑羅)大名』と呼んでます。頼遠はバサラ大名の筆頭みたいな人です。総じて戦に強いことが多い。頼遠も戦で名を挙げた1人です。
頼遠が六波羅探題で務めている真っただ中、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討伐を決行。土岐氏の一族の中には後醍醐天皇の第一回目の倒幕運動で反鎌倉幕府側についた人もいたようです。頼遠の父も倒幕疑いのあった1人ですが、疑いだけで難を逃れました。
一度目は失敗に終わるも1333年に後醍醐天皇は捉われた場所から脱出して再起をはかります。
「倒幕するから協力してね」
という後醍醐天皇からの詔を受けると頼遠は父と共に挙兵し足利尊氏の軍に加勢しています。
鎌倉幕府倒幕後に後醍醐天皇が建武の新政を行った際には、それまでの功績から父が美濃守護に任命されましたが、その建武の新政が失敗すると足利尊氏が挙兵し別の天皇を擁立。父と共に尊氏の元で後醍醐天皇方を相手に各地を転戦し、度重なる戦いの中で頼遠は名を上げていったのです。
ちなみに、この時に尊氏が擁した天皇のいる朝廷を『北朝』、後醍醐天皇が新たに作った朝廷を『南朝』と呼びます。頼遠は尊氏らと縁の深い北朝方の武将ということになります。
青野原の戦い
頼遠が特に名を上げたと言われているのが青野原の戦いです。
というのも相手が北畠顕家。北畠顕家は公卿でありながら(しかも活躍した当時は何と10代)かなりの戦功をあげている人物です。
日本史史上でも強行軍として有名な豊臣秀吉の10日間で約200㎞の距離を移動したと言われている『中国大返し』よりも更に長距離の600㎞を16日間で移動(拠点が陸奥国なのでどこ行くにも遠い)した軍を率いていたのが北畠顕家でした。この大強行軍が足利尊氏を九州に追い詰める決定打になっています。
北畠氏は『兵は拙速を尊ぶ』の孫子の兵法から取った『風林火山』の旗を武田信玄よりも100年近く前に用いてた、なんて話もあるようです(超軽っ!日本史 カリスマ塾講師による歴史“で”学ぶより。様々な逸話が散りばめられていて飽きないで読めるので、ゆるく日本史を知りたい人におススメ。ちなみに風林火山の話は「信憑性は分かりませんが」と但し書きが書かれています)。
この北畠顕家が1337年から1338年にかけ後醍醐天皇の招集に応じて足利尊氏を追討しようと、奥州に拠点を置く腹心の結城宗弘や伊達行朝を率いて北朝方と戦いながら上洛しています。尊氏の嫡男・義詮の守る鎌倉を落とし、東海道を西へ進むと・・・
その通り道に美濃がありました。北畠顕家が率いる兵力数は50万騎(誇張もありますが、旧幕府の北条氏残党も合流していたため、かなり数だったことは間違いない)とも言われています。
足利尊氏は、その時越後で新田義貞の対応中。新田義貞と言えば楠木正成と並んで後醍醐天皇方にいた武将として有名ですね。尊氏も結構警戒していたことに加え、相変わらずの北畠顕家の行軍速度に対処できなかったようです。
頼遠以外の味方達は相手があまりもの大軍のため「疲れるのを待とう」というのに対し
こうして土岐頼遠は北畠顕家に対抗することになります。
北畠顕家も全ての軍を頼遠達に向けるわけではないでしょうし兵力も落ちていたのでしょうが、それでも頼遠達は不利に違いありません。この時に頼遠が率いていた兵力は精兵とは言え、たったの1000騎だったのです。
頼遠達はかなりの奮戦をしましたが兵力数に圧倒的大差があっては劣勢を覆すことはできません。仲間は散り散りになり、ほとんど死傷したり行方不明になってしまったり・・・しまいには頼遠自身も一時行方不明になるほど激しく攻め立てた結果、足利方の頼遠達は敗戦しました。
この間、一時は北畠に落とされた鎌倉を足利方の上杉憲顕らが再奪取。頼遠たち美濃を拠点にする足利方と遠江の今川範国や三河の吉良満義らに高氏が合流して北畠を挟み撃ちしようとしましたが、北畠顕家は方向転換。近江経由で京に入ることを諦めます。流石に長距離の強行軍+鎌倉と美濃での戦いが響いたようです。
こうして青野原の戦いでは負けてしまいましたが、北畠の思惑を交わすことができたため頼遠の名声が一気に高まったのです。
頼遠が父の跡を継ぎ美濃の守護となる
頼貞の嫡男は既に亡くなっていたため、頼貞の後継者として選ばれたのは頼遠です。
2年程前の大活躍以外にも数々の戦功を上げ、室町幕府軍を支える武士団の名を上げていくことになります。
順風満帆に見える頼遠でしたが性格的に少々残念な部分がありました。お気付きの方もいらっしゃると思いますが、非常に調子に乗りやすい方だったそうです。傍若無人な振る舞いで奢りたかぶっていたなんて話が結構出てきます。この調子のいい性格が頼遠に取り返しのつかない事態に追い込んでしまいます。
土岐頼遠がおこした事件
土岐頼遠がやらかした取り返しのつかない事件は、1342年、土岐頼遠が笠懸(流鏑馬みたいなやつで馬に乗りながら的に矢を射る)をした帰りにバッタリ光厳院の列に出くわしたことに始まります。
一緒に笠懸に出かけた二階堂行春は光厳院の列だとすぐに築いて下馬したのですが、頼遠は酔って院の牛車を蹴り倒した挙句に弓矢で射るという暴挙に出たのです。
当時の政治の中心が足利直義。直義は頼遠の行動に対して大激怒。
当然、お家断絶くらいのやらかし・狼藉だったのですが、これまでの功績から庇う人が続出します。結局、お家断絶とはならず本人だけの罪として裁かれ斬首されました。
ちなみに直義は室町幕府の基本方針『建武式目』でバサラを禁止しています。室町幕府の正当性や兄・尊氏の正当性を全否定する暴挙ですから、頼遠の行動に対して父方母方妻方の三族への罰が妥当だと考えていたなんて話もあります。
そこまでの処分を検討していたにも関わらず本人の斬首だけで済んだのは、これまでの武功の半端なさだけでなく当時の戦続きで抜き差しならない情勢の裏付けだと思われます。これだけの事件にもかかわらず、事件から3ヶ月経ってようやく処罰が下されましたし・・・
とにかく何事もやり過ぎは良くないですね。