後醍醐天皇の建武の親政と南北朝時代の始まり
日本では古くから天皇(朝廷)による政治が行われていましたが、1185年に源頼朝が鎌倉幕府を開いたことにより、日本史上初の武家政権が誕生しました。
鎌倉時代も末期になると、古代より政治を取り仕切っていた側の朝廷・後醍醐天皇が政治の実権を取り戻すべく倒幕を決意。これに賛同したのが、幕府の御家人・足利尊氏と新田義貞でした。
足利尊氏は京都の六波羅探題へ、新田義貞は鎌倉への攻撃を開始。
戦いの末、幕府の機関・六波羅探題が滅び鎌倉では幕府自体が滅亡した事により、朝廷・後醍醐天皇に政治の実権が戻ってきました。その後の醍醐天皇の政治の事を建武の新政と呼んでおり、度々テストに出題されます。
そこで今回の記事では後醍醐天皇の建武の親政から南北朝時代までをまとめていきます。
後醍醐天皇勝利から南北朝時代までの流れ
幕府より政治の実権を奪い返した後醍醐天皇でしたが思い通りにはいかず、討幕派だった同士の足利尊氏と対立する事になります。
こうした一連の争いを建武の乱と呼ばれています。
争いの結果は、足利尊氏が勝利し後の室町幕府に繋がっていきます。
尊氏との戦いに敗れた後醍醐天皇は、京都での監禁生活を脱し、吉野へ逃れそこで自身の朝廷を開き南朝として、京都の足利尊氏は他に天皇を擁立し北朝として、南北朝時代に突入する事になります。
それと同時に、1336年に足利尊氏は征夷大将軍に就任後、室町幕府を開く事になりこうした理由から南北朝時代が重なっている事になります。
建武の親政開始と御家人の不満
京都で足利尊氏が六波羅探題を滅ぼすと、その知らせはすぐに後醍醐天皇の元へ届きました。京都での朝廷を監視する、幕府の機関が落ちその影響力が弱まったと考えた後醍醐天皇は京都へと帰ります。
その帰路で後醍醐天皇は、新田義貞により鎌倉幕府が滅亡したという知らせを受け、後醍醐天皇は幕府に邪魔をされる事はなく、政治ができるようになったのです。
こうして、天皇は建武の親政を開始していくのですが、多くの人々から反感を買います。
後醍醐天皇は、貴族優遇・武士冷遇の政治を行った事で、多くの武士がこれに反発。次第に「鎌倉幕府時代の方が良かった」と考えるようになります。武士の間で「武家政権をもう一度」と思う人が増え、足利尊氏に期待が集まりました。
こうした風潮を懸念したのが、護良親王でした。
足利尊氏は六波羅探題を滅ぼしたが、その一つの軍功で人の上に立とうとしている。自分は、常に第一線で戦ってきた。
その私を差し置いて、北条一族だった足利尊氏が幅を利かせるのはいかがなものか??
と言い、護良親王と足利尊氏の対立が始まりました。
護良親王は、足利尊氏との戦いに備え、各国に尊氏討伐の令旨を出し準備を進めますが、その令旨が尊氏の手に渡ってしまいます。
すかさず尊氏は、護良親王は後醍醐天皇から皇位を奪おうと兵を集めているとして、親王を鎌倉へ島流しにし、牢へ入れました。
中先代の乱
一方、鎌倉では北条高時の次男・時行が鎌倉幕府再興のために兵を進めていました。こうして始まったのが1335年の中先代の乱です。
当時、鎌倉を任されていたのが尊氏の弟・足利直義でした。
このまま北条時行と戦うのは不利と考えた直義は一旦鎌倉を出るのですが、どさくさに紛れて捕らえられていた護良親王を暗殺し、北条氏との戦乱に巻き込まれて死んだことにしています。
ということで、中先代の乱では護良親王が死に、鎌倉は一時的に北条時行によって奪還されました。
この北条氏による反乱を聞いた朝廷は足利氏を関東へと送り込み鎌倉を取り返そうと考えますが、命令を受けた尊氏は「見返りに征夷大将軍に任命してほしい」と要求しました。
しかし、後醍醐天皇は将軍就任後に尊氏が幕府を開く可能性が高かったので、この要求は却下します。両者の間で「将軍にしろ」「駄目だ」の問答をしていたずらに時間だけが過ぎ、とうとう足利尊氏は後醍醐天皇の命令を聞かずに勝手に関東へと出兵して行きました。
その道中で、直義と合流し鎌倉へと進み、北条時行を討ち鎌倉を取り戻しました。
足利尊氏と後醍醐天皇の対立
鎌倉を取り戻した足利尊氏は、家臣達に恩賞を与え始めます。
この行動は、後醍醐天皇にとって勝手な行動しか思えません。
天皇は、尊氏に京都へ帰ってくるように指示をしますが、これを聞いた足利直義は京都へ戻ったら殺されてしまうとし尊氏を引き止めます。
直義の進言に従い尊氏は鎌倉にとどまり「新田義貞が真実を曲げているから、私に新田を討たせてください」と後醍醐天皇に手紙を送りました。
こうなると新田義貞も黙ってはいません。
新田義貞は後醍醐天皇に対して「尊氏の方が真実を曲げているから私に足利を討たせてください」と嘆願するのです。
そんな時に護良親王は北条氏によって殺されたのではなく足利直義によって暗殺されたと分かります。さらに、足利が軍勢を集めていると言う情報も伝わり、後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵と認定して新田義貞を鎌倉へと派遣しました。
一方、鎌倉では新田義貞の軍勢が迫ってきている情報を受け、天皇に弓を引くことはできないとして謹慎をします。しかし、足利直義は「謹慎したからと言って許される訳がない」と悟っており、新田軍と対峙するために軍勢を西へと進めていきました。
こうして新田軍と足利軍が激突するのですが、終始新田軍が優勢で足利軍は次第に東へと追い詰められていきます。
鎌倉まで引き返した直義は謹慎中の尊氏を訪ね、「新田軍は足利一族を許さず殺して良いと許可をもらっている。謹慎したところで許してもらえるとは思えない。」と報告。直義の進言を信じ尊氏は、挙兵を決意し再度兵を西へと進め、新田軍と衝突したのです。
尊氏参戦後の足利軍は常に優勢に立ち新田軍を西へと推し進めます。期待の御家人・足利氏が盛り返したことを聞きつけた各地の御家人が味方した事により、足利軍の勢いは増加。とうとう足利尊氏は新田軍を追い詰め、京都はたちまち火の海となりました。
新田義貞率いる官軍が敗れたことで後醍醐天皇は京都を離れ比叡山へ逃れたのです。
北畠顕家と楠木正成の援軍
北畠顕家とは、朝廷側の人間で新田義貞が戦っている時に東北から南下して足利軍を挟み撃ちにするつもりでした。しかし、軍勢を集めるのに手間どってしまい、関東で挟み撃ちが出来ずに追いかける形で西へと兵を進めていました。
ようやく、追いついた時には京都は火の海になっており楠木正成、新田義貞、北畠顕家は滋賀県で合流する事に。
新田連合軍と京都を挟んで対峙した足利尊氏は激突。さすがの尊氏も連合軍の前に敗れてしまい九州へ逃れ体制を立て直すことになりました。
官軍の勝利を聞いた後醍醐天皇は比叡山を下りて再び京都に戻ってきます。
多々良浜の戦い
九州に落ち延びた足利尊氏は、当時九州にいた朝廷側の御家人・菊池氏と死闘を繰り広げていました。
戦力的に足利軍が圧倒的に不利な戦いで、尊氏は自害を決断するところまで追い詰められていましたが、直義に止めらられて思いとどまり、巧みな戦術を駆使し何とか勝利を手に入れました。
九州の勝利で体制を立て直した尊氏は東へ軍をすすめ、鞆浦へ到着。ここで、足利尊氏は光厳上皇から新田義貞追討の院宣を賜ります。
ここで当時の皇室は大覚寺統と持明院統に分裂しており対立していました。
大覚寺統の後醍醐天皇と持明院統の光厳上皇で対立しており、足利尊氏は持明院統の光厳上皇に付くことによって大覚寺統に付いている新田義貞を討つ大義名分を得たのでした。
これまで朝敵とされてた足利尊氏は、上皇の命令を受けたことによって、朝廷に逆らうものから天皇VS上皇の戦いとしての争いとして持っていくことに成功したといえます。
湊川の戦いでの楠木正成の戦死
上皇の院宣の知らせを受けた後醍醐天皇は、新田義貞を西へと向かわせます。
しかし、播磨国の守護・赤松則村に妨害され、時間と兵を無駄にした新田義貞は京都に援軍を求めました。
援軍を求められた楠木正成は、疲れ果てた少ない味方では、足利軍を打ち破ることが出来ないとして、新田義貞を一度京都へ戻し比叡山へ籠城し、追撃したところを兵糧攻めにしようと提案します。
しかし、後醍醐天皇は、一年に二度も天皇が比叡山に逃れるのは良くなとし、楠木正成の意見を却下します。
こうして、楠木正成は、兵庫へ兵を進めることになりました。
桜井の別れ
死を覚悟した楠木正成は、息子の正行を呼び寄せます。
自分も戦についていくと正行に対して「自分が戦死した後は任せた。いつか必ず朝敵を滅ぼせ。」と諭した楠木正成は息子と決別し、新田義貞と合流する事になりました。
こうして始まったのが湊川の戦いです。結果は足利尊氏が勝利に終わり、楠木正成は戦死、新田義貞は京都へ逃れています。
南北朝時代の始まり
官軍が敗北した事で、京都では大慌てで、後醍醐天皇はまた京都を捨て比叡山へ逃れることに。この時に、足利尊氏に院宣を出した光厳上皇は京都にとどまり合流しました。
こうして、比叡山の後醍醐天皇と京都の足利尊氏の対立が本格化していきます。
この戦いは、ほぼ互角の争いで結果的には、和睦と言う形で決着が着き、後醍醐天皇は京都へ戻るのでした。
しかし、後醍醐天皇が待ち受けていたのは軟禁生活でした。これを受けて後醍醐天皇は、吉野へと脱出した事により、大覚寺統の南朝と持明院統の北朝に分かれた南北朝時代が始まります。