鎌倉時代

新田義貞による鎌倉攻めと鎌倉幕府の滅亡

歴ブロ

足利高氏六波羅探題攻略したわずか1日後、関東では新田義貞が挙兵します。義貞は、鎌倉を目指し稲村ヶ崎から兵を進め侵入し、鎌倉の街は火の海となりました。

幕府執権・北条高時は応戦するも敗れ、こうして鎌倉幕府は滅亡するのです。

そこで今回は、新田義貞の鎌倉攻めと鎌倉幕府の滅亡を書いて行きたいと思います。

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鎌倉攻めまでの経緯

京都へと上洛した時に足利高氏は、人質として息子の千寿王を鎌倉に置いていました。しかし、足利家の家臣達が千寿王を連れ出し脱出。この子供が後の室町幕府二代目将軍・足利義詮となります。

人質脱出を聞いた執権・北条高時は京都の高氏が裏切ったと不審に思い、幕臣たちを上洛させますが、上洛途中の静岡県付近で六波羅陥落の知らせを受けることに…

仕方なく幕臣たちは鎌倉へ戻るのですが、道中に同じく逃走中だった足利尊氏の長男・竹若丸と出会い捕縛します。捕まった竹若丸は、投獄されたのち殺されてしまいます。

幕臣たちの知らせを受けた北条高時は、京都に向けて大軍を上洛させます。その手薄となった鎌倉を攻略しようと出兵したのが新田義貞でした。

新田氏と足利氏

元々両氏は、縁戚関係にあり源義国の子・義重から始まったのが新田氏、義康から始まったのが足利氏でした。同じ義国の子として両氏は対等に見えますが、新田の方が明らかに地位が低かったようです。

この確執は源平合戦までさかのぼります。

源頼朝が平清盛を倒そうと挙兵した頃、新田氏の祖・義重は長い事中立の立場を取っていましたが、頼朝が関東を制圧したころに鎌倉へと参陣しました。この時に頼朝は参陣が遅いことを叱責したと言います。

一方で、足利氏の祖・義康は、頼朝と姻戚関係を結んだだけではなく、北条氏とも代々婚姻を結んでいました。とは言うものの両氏が敵対関係だった訳ではなかったなく、婚姻関係も結ばれていたようです。

このような経緯から、家格が大きく開いていき足利高氏が六波羅探題を陥落したころの官位が従五位上、一方の新田義貞は無官無位の状態だったようです。一部では、後醍醐天皇と足利高氏が争っていた以前、新田義貞は足利氏の一部将とも考えられています。

新田義貞の倒幕計画

楠木正成と鎌倉幕府が戦った千早城の戦いに帰還した新田義貞は倒幕の計画を立てていました。そんな時に、幕府から2人の使者が訪れます。

度重なる後醍醐天皇の挙兵の対応に軍費が重なった幕府は、新田義貞が治める領地に重税を課すと言うのでした。この重税のトラブルで、2人の使者を捕えて処罰します。

度重なる幕府の仕打ちに義貞は倒幕の決意を固め、使者の処罰を知った北条高時は知った義貞討伐を命じて北に兵を向けるのでした。

新田義貞は、今こそ鎌倉を討つ好機として見方が集まれば鎌倉を攻め、集まらなければ討ち死にすると言う背水の陣で挑んだようです。

こうして新田義貞の鎌倉攻めが始まります。

新田義貞の鎌倉攻め

1333年5月に生品神社で挙兵した時の新田軍は150騎だったが、越後からの援軍で2000騎、甲斐・信濃の源氏軍5000騎と膨れ上がりました。

軍を進めていくと、武蔵国の利根川を超えたあたりで、鎌倉から逃げ出した千寿王と出会います。千寿王の手勢は200程でしたが、彼らが新田軍と合流して鎌倉を攻めると言う事実を知った周りの御家人は、足利氏が動いたと知り続々と援軍に向かい、結果的に20万騎までに膨れ上がったとされています。

この情報は早馬で鎌倉にもたらされます。

機内の混乱も収束していない状況でしたが、幕府も急ぎ作戦を練ります。

幕府の作戦は正面からは北条貞国を総大将に小手指原で南下してくる足止めし、埼玉付近で千葉軍と合流。そのまま背後を付くというものでした。

しかし、いざ新田軍と対峙してみるとあまりの軍勢にしり込みしていた鎌倉軍の隙をついて新田軍が小手指原を超えてしまいました。

小手指原・分倍河原の戦い

この戦いは、両軍が遭遇する形で始まったので、陣を張る時間はありませんでした。戦況はどちらも譲らず決着が着かぬまま日が暮れます。両軍は引き上げ陣を張り次の日に備えることに。

夜が明けると新田軍は幕府軍に先手を打たれまいと奇襲攻撃を仕掛けます。

しかし、幕府軍は動かずの姿勢を取っていた事で新田軍の奇襲は失敗に終わりました。すぐに幕府軍は、軍勢を二手に分けて挟み撃ちを展開しますが、新田軍はこれを見やぶり軍勢が分断されないようにまとまって戦います。

幕府側も新田側も相手の作戦を看破し合いどちらの作戦もうまくいきませんでした。

そんな中で戦況をものにしたのは新田軍で幕府軍は分倍河原へ退却を強いられました。

幕府軍劣勢の情報が入り、鎌倉から次々と援軍が到着。一方で新田軍は、幕府軍の援軍情報が入っておらず、再び奇襲を仕掛けようと幕府軍に詰め寄ります。

これに幕府軍は矢を放ち応戦。多すぎる幕府の矢の雨に新田軍は前に進めないところを幕府軍が挟み撃ちを仕掛けます。新田軍はたまらず、久米川の陣へ引き返していきます。

同じようなタイミングで新田軍にも北条氏を見限った三浦義勝の援軍が到着しました。元々幕府側の御家人が援軍として参じたことで新田義貞はこれを利用します。

「三浦義勝が相模の軍勢を集めて援軍として向かっている」という情報を先に流しておきます。幕府軍は三浦義勝が離反した事を知らず自分たちに援軍をと思っているので、幕府軍に近づいても攻められません。これを利用して幕府軍を油断させて西方向から奇襲攻撃を仕掛けたのです。

新田義貞もこの戦いに乗じて正面から幕府軍に向かって攻め込みました。この作戦は成功し、幕府軍が壊滅状態となり鎌倉へと引き返して行くことになります。

こうして新田義貞は、鎌倉へ到着することが出来たのです。

鎌倉の戦い

新田義貞は軍勢を巨福呂坂、化粧坂、極楽寺の3つ切通しに分け、鎌倉へ攻め込もうとしました。

れきぴよ
れきぴよ

切通しとは、外敵を攻撃するための構造や施設を備え、防御施設の役割も担っていました。

こうなると簡単には軍勢が通れるはずもなく、新田軍は苦戦を強いられます。

小袋坂(巨福呂坂)の戦い

北条一門で執権・赤橋守時が約3万軍勢で守りを固めていました。

守時の妹が足利高氏の妻であった事から、北条高時に疑われまいと決死の覚悟で戦いに挑んだと太平記に書かれています。新田軍に一日に65回の突撃を受け激戦を繰り広げますが、幕府軍は多大な損害を受け、赤橋守時は自刃。

新田軍はその勢いで兵を進めますが、幕府軍の壁は厚く突破には至りませんでした。

極楽寺坂

幕府軍の大仏貞直が守備をしていたのが極楽寺坂。

その守備は固く、突破は難航していたので、新田兵の一部が稲村ヶ崎の波打ち際を通り鎌倉へ突入しました。しかし、幕府軍の包囲に合い大舘宗氏を含む11人が戦死。

化粧坂

新田義貞率いる主力が攻める化粧坂は、幕府の金沢貞将のガッチリと守り苦戦を強いられました。何日も攻撃を加えますが破ることが出来ませんでした。そこで、義貞は化粧坂を実弟の脇屋義助に任せ、大舘宗氏が戦死した極楽寺へと援軍に向かいました。

鎌倉市街地の攻防

極楽寺坂の戦場を戦場を見た義貞は、ここは切通しも堅牢にできており、海にも敵船が待機しているとして負けてもおかしくないと悟りました。

そして、馬をおり海の方に拝み自分の付けていた太刀を海に沈めると、海はみるみる引いていきそこに砂浜が現れました。

こうして新田義貞は稲村ヶ崎海岸を上り鎌倉へと到着するのです。

この頃、北条高時は北条邸に控えており、一騎当千の島津四郎も一緒に居ましたが、高時は坂東一の名馬を与え義貞のいる由比ガ浜へ向かわせました。

勇猛な武将・島津四郎が出陣した事で幕府軍の志気があがり、新田義貞も好敵手が来たと固唾をのんでいました。そして、とうとう新田義貞と島津四郎が相まみえると、皆がその戦いを見守りました。しかし、四郎は義貞の前に来たと思ったら、降参し幕府を見限ったのでした。

一騎当千の島津四郎が寝返った事で、幕府軍の中にも寝返る武将が続出し幕府軍が総崩れになってしまいます。そこに、義貞は街に火を放ち戦いは市街地戦になりました。

北条高時ら幕府の高官たちは、北条邸を後にして代々北条氏の墓がある東の東照寺へ移動していました。次々と幕府の猛将たちが散る中、東照寺では幕臣含む800人以上の人が自決。

こうして新田義貞による鎌倉攻めにより鎌倉幕府が滅亡したのですが、その後の義貞は後醍醐天皇と足利高氏の対立で、天皇側に付き敗れ歴史からその姿を消すことになります。

今回は、新田義貞の鎌倉攻めと鎌倉幕府滅亡にスポットを当てましたが、いずれ新田義貞の人物伝を書いて行こうと思いますので、良かったら読んでください。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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