鎌倉時代

後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕までの道のり

歴ブロ

後醍醐天皇は、廃位と即位を繰り返した天皇として知られています。

後宇多上皇の第二皇子として1288年に生まれました。31歳の若さで天皇に即位すると、1321年後宇多上皇の院政が停止した後に親政を敷きます。

後宇多上皇は、第一皇子である後二条天皇に皇位を継がせたいと思っていたので、後醍醐天皇は、中継ぎとして天皇に即位したとされています。

鎌倉時代の天皇家は、持明院統と大覚寺統の二系統に分かれて皇位を争い、鎌倉幕府がそれを調停する役割を果たしていました。その結果、両統が交互に皇位に付くことで決着し、南北朝時代もこの分裂がもとになっています。

 

上皇による院政の始まりと中世社会の始まり 日本では12世紀後半に武士による政権が生まれ、各地で荘園・公領の支配権を貴族層から奪い、次第に武家社会が確立。 この記事で...

 

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後醍醐天皇の倒幕計画

つなぎと知った後醍醐天皇は非常に激怒したとされ、こうして彼のライフワークは、両統迭立の枠組みを超えて自分の行為を安定させ、子孫の皇位継承させる事を目標としました。

しかし、この時代の皇位継承は鎌倉幕府の意向が大きく、後醍醐天皇にとってもこの幕府の存在は非常に邪魔な存在でもありました。しかも、建前上ではありますが、天皇の部下が宋軍で執権はさらにその部下であり、そんな執権北条氏が政治の実権を持っていること自体、天皇にとっては不快なものでした。

 

こうして後醍醐天皇は、天皇による親政を目指すべく、側近や天皇派の御家人を集め倒幕の計画を立て始めます。

その密談に呼ばれたのが、日野資朝と俊基でした。

彼らと密かに倒幕を計画していた後醍醐天皇は、幕府に不安を持つ武士たちを味方につけようと考えました。

 

日野俊基は山伏に変装して各地を転々とし、反幕府派の武士たちとつながりを持ち始め、京都に残った資朝は貴族たちを集め宴会や勉強会を開くようになります。この宴会と勉強会は表向きで、そこに集まった貴族たちを倒幕計画に引きずり込もうとしていたのです。

一方で首謀者の後醍醐天皇は、自分の子でも特に賢い、護良親王を【天台座主】にし、仏教勢力を味方につけようとしました。

こうして後醍醐天皇は、

  • 反幕府派の武士
  • 反幕府派の貴族
  • 比叡山の仏教勢力

を味方に付けることが出来ました。

 

最初の倒幕計画【正中の変】

しかし、後醍醐天皇の倒幕計画が、六波羅探題に流出します。

こうして起こったのが1324年正中の変です。

後醍醐天皇に倒幕の動きがあるとして、六波羅探題は兵を集め挙兵します。

まず、幕府は倒幕に加わっていた土岐氏と多治見氏を襲撃し、討ち取ります。

この正中の変で、日野資朝と俊基が捕まってしまい鎌倉へ送られてしまいますが、その判決が資朝が佐渡へ流罪、俊基は無罪とした寛大な処置でした。

こうして後醍醐天皇の最初の倒幕計画は失敗に終わりました。

一方で、首謀者の後醍醐天皇は、倒幕疑惑を追及されることはなく、無罪で事なきを得ました。しかし、天皇は倒幕の情熱を失っておらず、さらなる倒幕計画を立てるのでした。

 

楠木正成の出兵と笠置山の戦い

倒幕を無罪で乗り切った後醍醐天皇は、しばらくは大人しくしていたようですが、密かに後継者の誕生の祈祷と称し、倒幕の祈祷をしていたようです。

さらに天台座主になっていた護良親王とも接触をし再度倒幕へと動き出しました。

しかし、また討幕計画が漏れ、日野俊基が再び捕らえられ死罪になり、佐渡に流刑になっていた資朝も斬首の計に処されました。

これを知った後醍醐天皇は、次は自分の番だと悟り三種の神器を持ち出し、笠置山にこもり倒幕兵を挙げました。

 

こうして、周辺の武士たちは後醍醐天皇に付き兵を挙げます。

その中には、楠木正成の姿がありました。

後醍醐天皇は正成を呼び【幕府を倒すことが出来るか??】と問いかけます。

すると、正成は【知恵と策略を巡らせば、幕府の大軍を凌駕することが出来る】と進言しました。

こうして楠木正成は、朝廷側の武将として倒幕に参戦していくのでした。

 

一方で六波羅探題では、京都から脱出した後醍醐天皇を追って笠置山へ向かっていました。

こうして始まったのが、1331年の笠置山の戦いでした。

天然の要塞であった笠置山は、そう簡単に落ちる場所ではなかったので、六波羅軍は鎌倉に援軍の要請をしました。この幕府軍に従軍していたのが、足利尊氏だったのです。

しかし、足利尊氏率いる幕府の援軍が京都へ向かっている最中に、六波羅の夜討ちが成功し笠置山が陥落し、後醍醐天皇は捕まってしまいます。

一方で鎌倉から上洛している幕府軍は、彼らが到着する前に笠置山の戦いが終わってしまい、無駄足を踏んでいました。

 

楠木正成と赤坂城の戦い

そこで足利尊氏率いる幕府軍は、せっかくなので楠木正成が居る赤坂城を攻めることに。

これが赤坂城の戦いです。

しかし、幕府軍は楠木正成の強さに苦戦します。

幕府軍が色々な策略で攻めるも、楠木正成もそれを上回る戦略で返り討ちにしました。

城から石や大木を投げ、時には熱湯を浴びせたる戦略は、当時の幕府軍には予想もつかない戦略でした。

こうして楠木正成は、少ない軍勢で約1か月戦い続けるのですが、兵糧が尽来たところで、城を焼き払い赤坂城を捨てます。城が焼き払われた事で、幕府軍は楠木正成が死んだと思わせることに成功したのです。

 

こうして楠木正成は一時的に姿をくらますことに成功します。

 

隠岐の流刑生活からの後醍醐天皇の再起

さて、幕府軍に捕まった後醍醐天皇ですが、隠岐の島へ島流しになり、天皇には光厳天皇が即位します。

 

しかし、後醍醐天皇の倒幕の熱意はまだ消えていませんでした。

当時の執権・北条高時は、鎌倉で田楽や闘犬に夢中になっており、政治には全く関心を示していないと情報を聞いた後醍醐天皇は、鎌倉幕府の滅亡は近いと悟り、時が流れるのを待っていました。

後醍醐天皇が隠岐に流されたあとも、畿内周辺では死んだと思われた楠木正成が再度姿を表したり、後醍醐天皇の息子・護良親王が倒幕運動を行ったりと反幕府の流れは止まることはありませんでした。

 

この時、楠木正成はいつか幕府軍が攻めてくるに違いないとして、多数の山城を築きます。

こうして、作った城の一つが千早城でした。

こうした機内の動きに、もちろん、執権・北条高時は黙って見ているはずがありません。

大軍を派遣して、反乱軍の鎮圧を命じました。

これに対して、反幕府勢力は籠城を決めます。

しかし、始めに反幕勢力の赤坂城が落とされます。この時に捕まった反幕府勢力の武将たちが一人残らず斬首刑となり、六条河原にさらし首になりました。幕府のこの対応に、降伏しても殺されるのだと高を括り、それなら最後まで抵抗しようと考えるのでした。

そして、次に落とされたのが、護良親王がいる吉野。

敗北が濃厚となった護良親王は、最後の宴を開くのですが村上義日が身代わりになった事により、一命をとりとめました。

 

吉野と赤坂城を攻略した幕府軍は、勢いそのままで千早城に攻め込みます。

ここでも楠木正成は、知略を巡らし籠城し続けます。

楠木正成と護良親王の機内での倒幕運動は、隠岐の島の後醍醐天皇の耳にも届きます。

こうして後醍醐天皇は、隠岐の島を脱出。

倒幕の命令を全国に出します。

こうして多くの西国の武士たちは後醍醐天皇の下に集結し、西の朝廷軍と東の幕府軍が激突する事になります。

 

鎌倉幕府滅亡と建武の親政

朝廷軍討伐には、また足利尊氏が駆り出されます。

しかし、ここで状況を変える出来事が起こります。

それが、足利尊氏の離反でした。

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1331年、後醍醐天皇側に寝返った足利尊氏は、軍勢を増やしながら京都へと進軍。そこで京都に置かれた六波羅探題を攻め滅ぼします。

当時、六波羅にいた者たちは、光厳天皇を引き連れて関東へ落ち延びようとしていましたが、朝廷側に捕まり自刃。

こうして、朝廷軍は、京都から幕府軍を追い出すことに成功したのでした。

その後、倒幕の動きは関東でも巻き起こり、新田義貞によって鎌倉幕府はじりじりと追い詰められていきます。

北条高時は東勝寺へと逃れていき抵抗しますが、敗北を悟ると一族や幕臣たちが自刃。ここに鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の親政が敷かれることになります。

 

こうして、後醍醐天皇による親政、建武親政が行われることになるのですが、話が長くなりましたので、別記事に書いて行きたいと思います。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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