日本史の流れ

上皇による院政の始まりと中世社会の始まり

12世紀から13世紀の世界では、ヨーロッパにかけて封建社会が一つの転機を迎えようとしていました。

11世紀末に始まった十字軍の活動は、聖地回復をかけたローマ教皇の権威が高まりましたが、封建社会を支えた騎士階級の没落を促すことになりました。イタリアを始めとする各地で商工業者の活動が活発化し、ルネサンス宗教改革という精神面での封建社会からの脱却が進められました。

中国大陸では、宋時代から恐れられていた北方民族が次第に優勢となり、13世紀にはモンゴル人が中国全土を支配する元が成立し、ヨーロッパからアジアにまたがる大帝国を築き上げました。

 

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このような世界情勢の中で日本は、12世紀後半に武士による政権が生まれ、各地で荘園・公領の支配権を貴族層から奪い、次第に武家社会が確立していくのでした。

この記事では、平安時代末期院政期~平清盛登場直前までを書いて行きたいと思います。

 

後三条天皇の荘園整理令

藤原頼通に皇子が生まれなかったので、摂政・関白の外戚としない後三条天皇が即位すると、大江匡房などの学者を登用して、天皇による親政に取り組みました。

特に荘園の公領を圧迫しているとして、1069年延久の荘園令を出しました。

この荘園令は、中央に記録荘園券契所を設け、荘園の所有者から証拠書類と国司の報告を照らし合わせて年代の新しい荘園や書類不備などの基準に合わない荘園を停止しました。これには、摂関家も例外ではなく、この整理令で荘園の多くが権利停止になりました。

 

延久の善政と称えられた名君・後三条天皇は院政の基礎を作り上げた 平安時代の権力の推移を見ると、藤原鎌足や道長のイメージが強いのか、平清盛が出てくるまで藤原氏がずっと権力を持っていたように感...

 

荘園整理令によって、貴族や寺社の荘園と国司の支配する公領が明確になり、各地に貴族や大寺社の荘園が増えていきましたが、国司支配下の公領もまた大部分を占めていました。

そこで、その土地に力を伸ばしていた豪族や開発領主に対して、国司は国内を郡・郷・保などの単位に編成し、それぞれに郡司・郷司・保司として派遣して徴税を請け負わせました。また、国衛では田所・税所などの行政機関を設置して、国司が代官として派遣した目代の指揮に従って在庁官人が実務を行いました。

在庁官人は、公領を彼らの共同の領地のように管理したり、荘園領主に寄進したりしていたので、かつての律令制度の下で国・郡・里の上下の区分で構成されていた一国の編成は、荘・郡・郷が並立する荘園と公領で構成される体制に変化していきました。

こうれが荘園公領制と呼ばれています。

整備された荘園や公領では、耕地の大部分はとされ、田堵などの有力な農民などに割り当てられて、彼らは名の請負人として次第に力を持ち始めて名主と呼ばれました。名主は、名の一部を下人などの奴隷農民に、他の一部を作人と呼ばれる農民に耕作させながら、年貢・公事・夫役などを領主に収め、農民の中心となりました。

 

白河天皇による院政開始

白河天皇は、後三条天皇に習い親政を行いました。

1086年には幼少の堀川天皇に譲位し、自ら上皇(院)として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を始めました。

上皇は、荘園整理令を歓迎する国司たちを取り込み、院の御所に北面の武士を組織し、源平の武士たちを側近にするなど院の権力を強化し、ついに堀川天皇の死後には本格的な院政を始めました。

院政は、自分の系統に皇位を継がせようとするところから始まりましたが、法や慣例にとらわれず上皇が政治の実権を専制的に行使するようになり、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年余り続きました。

これにより摂関家は、その権力衰退を院と結びつくことで盛り返そうとしました。

 

院政では院庁から下される文章を【院庁下文】や上皇の命令を伝える【院宣】が政治的に効力を持つようになりました。

3上皇は、仏教をあつく信仰し、出家して【法皇】となり、六勝寺などの多くの大寺院を建設し、盛大な法会を行い、しばしば紀伊の熊野詣や高野詣を行いました。また、京都郊外の白河や鳥羽に離宮を造営するための費用を調達するために売位・売官が盛んになり政治の乱れが激しくなりました。

 

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院政期の社会

上皇の回りには、裕福な受領や后妃・乳母の一族などを院近臣と呼ばれる一団が集まり、上皇の権威の元に収益な豊かな国の国司などの官職に任命されました。

この頃には知行国の制度や院自身が国の収益を握る院分国の制度が広まり、公領は院や知行国主・国司の私領化し院政を支える経済定期基盤となりました。

 

院政のもう一つの経済基盤が、大量の寄進地系荘園でした。

得に鳥羽上皇の時代は、院の周辺に荘園の寄進が集中し、有力貴族や大寺院への荘園も寄進も進みました。また、不輸・不入の権をもつ荘園も一般化して、不入の権の内容も警察権の排除までに拡大されて荘園の独立性が高まるのでした。

大寺院の多くが荘園を所有し、下級僧侶を僧兵として組織して、国司と争ったり神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴して要求を通そうともしていました。当然、神仏の威を恐れた貴族たちは、大寺院に抵抗する事が出来ずに武士に鎮圧・警固を任せた結果、武士の中央進出を招く結果になるのでした。

 

その武士たちは、地方各地でを建設し、一族や地域の結びつきを強めており、中でも奥羽の藤原清衡の支配力が上がっていました。この奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡の3代に渡り金や馬などの物産で得た富で京都の文化を取り入れ、北方との交易で独自の文化を育てて栄華を誇りました。

 

奥州藤原氏の最盛期を築いた藤原秀衡は源義経を養育していた 源義経とも深いかかわりがある奥州藤原氏の藤原秀衡。死の直前、3人の息子に義経の指示に従い鎌倉に備えよと遺言を残したほどでした。 ...

 

こうして院政期には、私的な土地が多く展開し、院や大寺社、武士たちが独自の権力を形成し、日本各地で権力が分散されていくことになり、社会を実力で動かそうとする風潮が高まりました。

これまでの特徴を持った社会を中世社会と呼ばれ、そこから武士が台頭していくことになるのでした。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。