奥州藤原氏の最盛期を築いた藤原秀衡は源義経を養育していた
源義経とも深いかかわりがある奥州藤原氏の藤原秀衡。死の直前、3人の息子に義経の指示に従い鎌倉に備えよと遺言を残したほどでした。
そこで今回は、大河ドラマ【鎌倉殿の13人】でも登場する、奥州藤原氏の最盛期を作った藤原秀衡について書いていきます。
奥州藤原氏とは?
藤原氏北家・藤原経清の流れを汲むとされ、経清は前九年の役で活躍し源頼義と対立し敗北して処刑されています。その処刑も非常に残忍な鋸挽きと呼ばれる方法だったと言います。
鋸挽き処刑の背景には、財力を背景にした作戦で源頼義を翻弄し、大いに苦戦させたことからだと考えられています。
こうして、奥州藤原氏と源氏は前九年の役で深い遺恨を残したとされています。
その子孫たちである、藤原秀衡や源頼朝・義経はどんな思いでいたのかは本人しかわかりません。
1083年に奥州を支配していた清原氏の内紛が発生し、この内紛に源頼義の嫡男・義家が介入し、清原清衡と家衡で奥州を3群ずつの分割統治させます。しかし、この決定に不服とした清原氏の2人は再び争いを開始。
源義家は、再び清衡側に介入し家衡を討ちました。
この一連の戦いを後三年の役と呼ばれています。
こうして清原清衡が奥州6群を治めることになり、実父・経清の姓である【藤原】を再び名乗ったことで藤原清衡となり以後約100年の奥州藤原氏の祖となりました。
藤原清衡
│
藤原基衡
│
藤原秀衡
│
藤原泰衡
藤原秀衡の奥州藤原氏の継承
藤原秀衡の幼少期ははっきりわかっていません。
そんな秀衡が奥州藤原氏を継いだのが1157年の事でした。
特に家中で異論もなく順当な相続だったと言われています。
同時に軍事・警察の権限を司る官職である【押領使】も継承し、この時奥州では、兵力17万ほど動員できと言われています。また、奥州は名馬や砂金の産地であったことから、これらを軍資金に相当な戦力があったと思われます。
この頃中央では、【保元の乱】と【平治の乱】を経て平清盛が率いる平家が全盛期を迎えていました。中央では、大きな戦乱がったりましたが、秀衡は積極的に関わらず、立地的にも遠方の奥州は大きな影響は受けていませんでした。
中央政府からはるか遠方であることから、奥州を【独立した勢力】と捉えがちですが、先述した通り秀衡は朝廷から【押領使】の官職を得ていることから奥州藤原氏の権力は朝廷が裏付けていることになります。
また、この地方に国司の影響力が全くなかったわけではありません。
朝廷から見れば、あくまで奥州藤原氏に持たせたのは【軍事権】で【政治権】ではありません。その証拠に、当時の平泉は人口や財力も多い栄華な大都市でしたが、上方への献金や贈り物や寺社への寄進も行っていました。
実際に、藤原秀衡の正室も院近臣・藤原基成の娘です。基成は以前、陸奥守や鎮守府将軍を務めた人物で、秀衡の父・基衡時代からの付き合いでした。
このように、奥州と言う離れた地域でしたが、程よい距離感でありながら上方の文化をしっかり取り入れ繁栄を維持していたのだと思われます。
この努力の甲斐があってか、富のある所に人が集まり、モノや人の流れも盛んになりさらに富が生まれる。幼少期の源義経が遠路はるばる平泉にやってきたのも、それ以前から人の流れが盛んだったことが理由の一つでしょう。
源義経が平泉にやってきた
藤原秀衡の時代、中央政府でも秀衡の存在が意識され、1170年に後白河上皇は、従五位下・鎮守府将軍の官位を与えました。公家の中には、都に来たことのない田舎者などと言っている者もいました。
それを知ってか、秀衡本人も献金や贈り物をしたり、官職を粛々と受け取ったのみでひっそりとしていました。しかし、高野山への献金は派手に行ったようで、五大多宝塔ならびに皆金色釈迦如来像の開眼供養のためで、高野山側も大変感謝しており秀衡をべた褒めしていたそうです。
このように、中央とつかず離れずの関係を保っていた秀衡ですが、若き源義経が平泉に訪れてから歴史が動き出します。
この時、源頼朝は流刑で伊豆の謹慎生活中でした。
源義経は、秀衡の甥・藤原基成を頼りに奥州平泉へ逃れることになりました。
秀衡も、上方の源氏と平氏の争いの事を知っているはずで、もし源氏のゆかりのものをかくまって平家に目を付けられる恐れがあるかもしれません。どういう意図で義経をかくまうことを決断したのは、本人しかわかりませんがこの決断が今後の歴史に左右したことは、言うまでもありません。
源頼朝の挙兵
1180年に源頼朝が挙兵すると知らせが平泉にも届きました。
それを知り義経は、兄の所へ馳せ参じたいと申し出ますが秀衡は反対した言われています。
一緒に過ごすうちに情がわいたのか、ほかの思惑があったのかはわかりませんが、最終的にはお供の家臣や馬を与え送り出すことにしました。最後の遺言の事を思うと、自分の娘を義経に嫁がせ、息子たちの力になってほしいと思っていたのかもしれません。
一方で平家では、1181年に藤原秀衡に対して従五位上・陸奥守に叙任させました。
これは、宗家を継いだ平宗盛の推挙で、【後白河法皇が奥州藤原氏に頼朝を討つように院宣を出したらしい】と噂を広めるためでした。
この噂に対して秀衡は、何もせず平泉で静観していました。
秀衡からすると、平家や源氏に加担しても正直メリットがありませんでした。
そもそも兵を出すなら、義経が兄の元へ行くときにもっと軍事的な事をしていた事でしょう。おそらく秀衡にとって中央の動向より、平泉の安全確保が最優先でそれが脅かされる事はしたくなかったのだと思われます。
鎌倉の源頼朝からの挑発にも乗らず
東北で莫大な富と兵力を併せ持つ奥州藤原氏・秀衡は、周りからは煙たい存在でもありました。特に、地理的に少々近い鎌倉の源頼朝からは、しょっちゅう圧がかけられました。
その源頼朝の有名な嫌がらせが1186年の
と言ったこと事でしょうか。
一見、良いやつそうに見えますが、以前から秀衡は直接都に物や金を送っていたのですから、わざわざ頼朝に仲介を頼む必要性が有りません。
これを知っての頼朝の発言は、【奥州の蛮族ごときが都と直接やり取りするのは言語道断!お前らは俺らの下なのだ!!】と遠回しに言っているのです。
このような子供じみた悪口でも当時は立派な策略でした。
それでも秀衡は、頼朝の考えを見透かしたうえで直接の対立は避け、頼朝の言う通り鎌倉へ金と馬を届けています。しかし、頼朝はどうしても奥州をつぶしたいので引き下がりませんでした。
そこへ、源義経が頼朝と対立し京都を離れ再び奥州へ訪れました。
この時、秀衡は鎌倉と事を構える覚悟を決め義経をもう一度かくまうことにしました。
頼朝は朝廷を通して【秀衡が義経を匿い反逆を企てている】と問いただしました。
しかし、後白河法皇からしてみれば、【秀衡はこれまで膨大な献金や献上品を差し出しているので、朝廷に歯向かう理由が思い浮かばない。むしろ鎌倉から動かず、力を蓄えつつある頼朝のほうが危険】と思っていました。
いずれにしよ、朝廷側からしたら力を持った武士なんて邪魔なだけなんで、奥州と鎌倉が共倒れになってくれさえ思っていました。
そんないざこざの中で秀衡には、別の悩み事がありました。
それは、奥州藤原氏の跡取り問題です。
秀衡は、子宝に恵まれ6人の息子がいたとされています。その中で、長男と次男が問題で、地元出身の側室の子で出来の良い長男・国衡、上方出身の正室の子で出来はそこそこの次男・泰衡でした。
地元では、奥州出身の女性の子で武勇にも優れた国衡を推す声が多かったようです。
このまま、後継ぎ問題を先延ばしにすると家中分裂の危機を残し、そこに頼朝が介入して奥州藤原氏を崩される恐れがありました。
そこで秀衡は、自分の妻を国衡に娶らせ、泰衡と義理の親子にしまいました。
後家が息子に嫁ぐと言う習慣を利用したのですが、生前にそれをやらねばならないほど、当時の奥州藤原氏家中がピリピリしていたのかがうかがえます。
藤原秀衡の遺言
この頃、人生の最後の時を迎えようとしていた秀衡は、最後の力を振り絞り国衡と泰衡に遺言をしました。
おそらく秀衡は、頼朝の目的が義経の件に便乗して何が何でも欧州を滅ぼし、鎌倉の勢力を拡大する事だと思っていたのでしょう。仮に義経を差し出したとしても、後の奥州藤原氏存続に良い影響はないと見抜いていたのです。
ならば義経を筆頭に、一定以上の意地を見せて朝廷の仲介を引き出すことに望みをかけていたのではないのでしょうか?
しかし、この遺言は藤原泰衡に破られ、義経の首を持って頼朝の許しを得ようとするも失敗し、頼朝の奥州合戦により約100年4代の奥州藤原氏は滅んでしまいます。
この合戦で泰衡が【義経は父・秀衡が保護したもので自分は全く預かり知らず…】などの書状が頼朝の宿舎に投げ込まれた事が吾妻鏡に書かれている事を考えると、父・秀衡は臨終の際にあまり多くは語らずに義経と共闘せよと言ったのではないかと推測されます。
要するに、泰衡は父・秀衡の思いと頼朝の狙いを見抜けていなかったという事になります。
おそらく、大河ドラマ【鎌倉殿の13人】でも義経関係と奥州藤原氏の討伐は描かれることになると思いますから、どのように放送されるかを楽しみしておきたいと思います。