平安時代

保元の乱が起こった原因とは??

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平安から鎌倉時代に移行する流れを知るのに避けられない争いが保元の乱平治の乱、そして治承・寿永の乱です。

それぞれを簡単にまとめると

  • 保元の乱後白河天皇崇徳上皇の間に起きた皇位継承問題が摂関家の内部争いと絡んで戦いに発展したもの
  • 平治の乱:戦後の処遇を巡って源氏と平氏が激突し、源氏が敗戦
  • 治承・寿永の乱平氏が政権の中枢部を握ったことで周囲からの不満が募ったために平治の乱の生き残り源頼朝が平家を討ち、鎌倉に幕府を開く 

このような戦いとなっています。

今回のテーマである保元の乱は正直非常に分かりにくい戦いです。

単なる皇位継承問題というだけでなく摂関家の内紛も絡まっている他、当時台頭していた源氏・平氏、崇徳天皇の前の鳥羽天皇時代からの政治顧問・信西の思惑も加わっていることも分かりにくい原因となっています。

皇位継承争い後白河天皇(重仁親王)
信西 が乳母夫
崇徳院
摂関家の争い藤原忠通藤原忠実・藤原頼長
平氏内部での争い平清盛平忠正
源氏内部での争い源義朝源為義

保元の乱に出てくる人たちの関係をイラストにしてみると

保元の乱関係図

こんな感じです。

今回は、そんな保元の乱に焦点を当ててまとめていきます。

 

保元の乱以前の朝廷内の様子や状況を見てみよう

 

朝廷内では、第76代の近衛天皇が崩御した頃

崇徳上皇の子ども重仁親王を天皇に!」というグループ

「守仁親王(後の二条天皇が良いけど、その前に父親の雅仁親王(後の後白河天皇が就くのがふさわしい!!」というグループ

に分かれていました。

結果的に雅仁親王が後白河天皇として即位。負けた側は追い込まれて 保元の乱 を起こすに至ります。その際に摂関家の争いも絡んだのはさっきお話しした通りです。

 

この時期の摂関家、実を言うと以前ほど力を持ってはいませんでした。院政が本格的になっていた時期だったためです。

摂関政治から院政へ。権力の変遷イメージ

イラストの矢印より上の方々は実際に政治を行う際に最も影響力を持っていた方々、矢印の下の方々が当時の天皇と退位年となっています。なお、白河天皇が上皇となった当初は、堀河天皇と摂関家との関係も悪くなく任せていました

院政と摂関政治の違いと言えば、どちらの場合も実務能力に欠ける天皇を補佐する役割を持ちますが

  • 摂関政治の場合は臣下が天皇の補佐役を務める
  • 院政の場合は天皇OBである上皇が後見を務める

ということで、摂政・関白より院の方が強い権力を持ってました。

 

保元の乱以前に院政を行った3上皇は全員が仏教を篤く信仰。出家して法皇にまでなっており、六勝寺などの大寺院を造営して盛大な法会を行ったほか、紀伊の熊野詣や高野詣を繰り返しました。

ただでさえ古い土地制度の無理が出てきていた中、費用調達をするのに成功(じょうごう)など位や官を売る者が増え政治の乱れがさらに酷くなっていきました。

政治が乱れると、治安が悪くなるなどの負の面が出てきます。治安が乱れた時に誰が活躍する者と言えば、軍事力を持つ者達ですね。もちろん、摂関家を抑えるために武士の力を積極的に取り入れていた側面もあったようです。

そんなわけで、朝廷内では平氏や源氏などの武士が存在感を増すようになっていました。武士が保元の乱に関わっていたのは、そんな時代背景もあったようです。

後の院政に影響を与えた白河天皇の人間関係

時は後三条天皇の生前まで遡ります。父・後三条天皇摂関家に外戚を持たず、東宮時代は当時の関白・藤原頼通から冷遇されていました。

そんな不遇な東宮の皇子だったため元服しても貞仁親王(のちの白河天皇に妃はありませんでしたが父の即位後は義理の従姉・藤原道子が、1071年には後三条天皇の希望もあって藤原賢子貞仁親王に入内しています。

白河天皇の人間関係

賢子後三条朝で右大臣をしていた村上源氏出身者の孫娘ですが、摂関家が養女として迎え入れたため “藤原”賢子 として入内しています。このような素性から、摂関家の顔も立てつつ村上源氏の勢力を強くしようとする意図が見えてきます。

そういった周囲の思惑とは裏腹に貞仁親王賢子は夫婦仲は良好で、二男一女の子宝に恵まれています。

白河天皇と賢子の家系図

そうこうしている間に後三条天皇が即位して四年後、貞仁親王は後三条天皇から譲位されて白河天皇として即位しました。この時は後三条上皇の第二皇子・・・皇太弟(実仁天皇)が立てられています。

以前のような摂関政治ではなく、皇室主導の政治を目指していた後三条天皇ですから、摂関家と関係の深い白河天皇はあくまで繋ぎと考えていたようです。

皇太弟の薨去と賢子の死がもたらした変化とは??

後三条上皇が1073年に崩御してから11年後、白河天皇の最愛の妻・賢子も28歳で崩御すると、その1年後には皇太弟まで薨去してしまいます。

賢子が亡くなった時の白河天皇は憔悴しきりだったそうです。本当に仲が良かったそうなので亡き賢子の忘れ形見に跡を継がせようとしたのも無理はありません。

後三条天皇の遺言によって摂関家との外戚関係のない第三皇子の輔仁親王を皇太弟にさせようと白河天皇らの祖母・陽明門院後朱雀天皇の皇后)が動いていましたが、主な後見が陽明門院のみ。現天皇と摂関家がバックについている善仁親王堀河天皇を降ろすことはできませんでした。祖母の反対を押し切り賢子の忘れ形見の8歳の善仁親王を皇太子とし、同日に譲位したのです。

堀河天皇は成人すると関白師通とともに親政を敷き始めます。賢帝としても有名でしたが、やり手の師通が亡くなり補佐役の関白が政治経験の浅い人物に変わると白河法皇(この時期は出家済み)に相談せざるを得なくなりました。ここから白河法皇が本気を出し始めます。

その後、堀河天皇も若くして崩御すると、白河法皇の介入がますます強くなっていきました(というよりも強くならざるを得ませんでした)

一方のプライベートは荒れまくります。賢子が亡くなってから正式な女御も妃も迎えず身分関係なく女性と関係を持ち、男性にまで手を出すまでになっています。その上で関係を持った女性や男性が近臣に加わるようにまでなっていました。

院政だけで43年も政治の中心にいましたから、白河法皇の崩御後もこの近臣の関係者が白河法皇の息子や孫に仕えたり婚姻関係を結んだりして影響力を保ち続けることになります。

この女性絡みの信用のなさが白河法皇の孫にあたる鳥羽天皇とひ孫にあたる崇徳天皇との間に微妙な亀裂を入れることに。この親子間の微妙な関係が後の後継者争いに発展してしまいます。

崇徳天皇と周囲の関係

崇徳天皇の前に鳥羽天皇の話をしなければ崇徳天皇については語れません。

鳥羽天皇白河天皇の孫に当たる人物。当初、鳥羽天皇の元には白河天皇の養女・璋子(たまこ)が入内しました。顕仁親王(崇徳天皇)は、そんな二人の間に産まれた親王です。

後三条天皇~近衛天皇までの家系図

 

実のところ、この璋子には摂関家の長男との間に縁談があがっていたのですが、素行の問題によりお断りされたため、孫の鳥羽天皇璋子を嫁がせたという経緯があったりします。

※この時にお断りしたのが関白の忠実白河法皇と関係が悪くなり関白を罷免されるまでに。そこで白羽の矢が立ったのが息子の藤原忠通です。若い頃から関白として様々な政治闘争の場数を踏んでいく事になります。その後、鳥羽院政時代に忠実が政界復帰すると、忠通は名ばかり関白となり父子関係に亀裂が入りました。

鳥羽天皇璋子との間には崇徳・後白河天皇を含む五男二女が誕生し、1123年には息子の崇徳天皇が即位するなど順調かのように見えますが、それも白河法皇の後ろ盾があってこそ。1129年、白河法皇の崩御で璋子の状況が一変してしまったのです。

保元の乱のキーパーソン?藤原得子

さらに崇徳天皇璋子にとって悪いことは続きます。1134年頃、白河法皇の乳母の孫・・・いわゆる院の近臣の身内である藤原得子が鳥羽院の寵を受けるようになりました。

鳥羽上皇得子の間に1139年体仁親王(後の近衛天皇が誕生。体仁親王は生後一か月でまだ子のいなかった崇徳天皇の元に養子に出され、1141年には鳥羽上皇が当時23歳の崇徳天皇に譲位をさせて3歳の近衛天皇を即位させています。この時点では徳上皇にも直系の重仁親王が産まれ、義母にあたる得子の元に養子として出していました。

※ この重仁親王の生誕を巡って崇徳天皇摂関家との関係が悪化。関白忠通の娘との間に子はできず、違う女性との間に重仁親王が誕生したためです。

そんな中で近衛天皇の即位前後から『ある噂』が流れ始めます。「崇徳天皇の父親は白河法皇」「璋子が得子を呪い殺そうとした」というもの。

もちろん当時のことなので崇徳上皇の父親が誰かは知りようがありませんし、事実かどうかも怪しいものです。そのことで母親の璋子が罰せられることもあり得ません。

しかし、もう一つの『呪詛』に関しては当時立派な犯罪。結局璋子は出家するまで追い込まれ、得子の地位は盤石なものとなります。1142年には既に譲位した太上天皇の妻であるにも関わらず、異例の皇后即位となったのです。

崇徳天皇は母が出家まで追い込まれ摂関家との関係も悪化したことで、徐々に孤立を深めていくようになりました。

近衛天皇の即位と後継者争い

崇徳天皇が譲位し近衛天皇が即位する際、ある罠が仕掛けられていました。近衛天皇は『息子』としてではなく『』として即位するようになっていたのです。院政とは直系子孫の後見として政治を行う制度でしたから、仮に鳥羽上皇が引退し上皇崇徳上皇のみとなっても院政を敷くことは出来ない状況になってしまいました。

そうした中で病弱だった近衛天皇は17歳で跡継ぎのないまま崩御。次の天皇を決める事となります。

ここで少し注目してもらいたいのが

 

1142年に近衛天皇に譲位した時点で鳥羽院はご存命という点です。

崇徳上皇としては「養子に出した重仁親王を天皇に」という意図があっても、(前天皇の第一皇子・重仁親王が天皇の有力候補だったのは間違いないのですが)鳥羽天皇を含めて周りの人間も口説き落としていかなければなりませんでした。

 

得子だけでなく関白忠通、エリートとはかけ離れていたけど学者の家出身でその博識を武器に鳥羽法皇の政治顧問にまでなった信西などの思惑も入り乱れ、話し合いは縺れてしまいます。

忠通とは重仁親王の出生を巡ってわだかまりが残ったままですし、信西はもう一人の天皇候補・雅仁親王(=後白河天皇)の育て親(妻が雅仁親王の乳母、それが出世の助けにもなっていた)です。そして、得子は因縁の相手。

重仁親王が即位すると、それまで幅を利かせていた者たちが一掃されるのは目に見えていましたから重仁親王の即位はどうしても阻みたいのが心情でしょう。

結局、政争を長年生き抜いてきた反崇徳派の思惑が通り、雅仁親王後白河天皇として即位しました。

 

こうして後白河天皇派の人々が政争に勝ったのですが…これらの動きで崇徳上皇は相当追い詰められたのが分かるかと思います。こんな裏事情から保元の乱が起こり、平安時代は終わりの始まりを迎えるようになったのです。

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歴ブロ
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。