平安時代

平安時代の恋愛・結婚事情

歴ブロ

平安時代の女性たちは基本的に外出を避け部屋の奥で生活をしていました。

立ち歩くことも良しとせず、座っていることが多かったといいます。

数少ない外出の際には、牛車などのり扇子や袖を使って顔を隠していました。一般庶民はわかりませんが、光る君へでのまひろが元気に京の街を走り回っている描写は、当時の貴族階級ではあまりなかったのかもしれません。

家族や親族以外に顔を見せる機会が少なかったので、源氏物語には一夜を共にした翌朝に初めて相手の顔を見るなどのエピソードがあります。現代では信じられない感覚ですが、上記のことを踏まえるとあり得ない話ではありません。

そこでタイトルにある通り、平安時代の男女の恋愛・結婚事情について紹介しましょう。

スポンサーリンク

平安時代は現代と同じ一夫一婦制

平安時代も多くの側室を抱える一夫多妻制がとられているイメージがあります。しかし、この時代は法律で一夫一婦制と定められていました。757年に制定された戸籍関係の法令で、重婚は刑罰の対象として男性は懲役1年、女性は杖刑一百と明記。つまり二人の妻を持つことは犯罪とされていたのです。

こうした法に定められた妻を正妻(光る君では北の方と表現か?)として、基本的には親同士が相手の家柄などを考慮して決められていました。後に藤原道長と源倫子が結婚するが、これは両家の思惑があったともいわれています。

一方で源氏物語では光源氏と多く女性との恋愛模様が描かれ、一夫多妻制が取られていたようにみえますが、正式に妻と呼ばれる人はたった一人。ほかの女性たちは、『妾』や『妾妻』と呼ばれています。

妾とは内縁の妻的な存在で【実質夫婦生活をしているが、法律上の夫婦とは言えない関係】といえます。現代における内縁の妻の立場は正妻の立ち位置であることが多く、平安時代のような複数の内縁の妻を持つことは稀です。

平安時代の夫婦が同居せず夫が妻の住まいを訪ねる婚姻の相手はあくまでも【】で正妻ではありませんでした。正妻は夫と同居しています。これから紹介する恋愛模様は、正室ではなく法律的に何の保証もない妾の立場。ちなみに紫式部と結婚した藤原宣孝の両人もまた、何も保証のない通い婚でした。

妾の立場は非常に弱く通っている夫が来なくなれば関係はそれで終わりを告げます。それに対して正妻と離婚するには何らかの理由が必要でむやみにできませんでした。

恋のきっかけは口コミから

平安時代の恋のきっかけは、口コミから始まります。

『ここの姫は美しいそうだ』『ここには一人娘がいる』などの情報を男性陣がキャッチすることで恋が動き出します。その情報源は娘たちの親や乳母たちだったようです。その情報をもとに、屋敷の垣根や御簾、植え込みの隙間などから奥にいる意中の女性をのぞき見しました。

現代でいうところの、マッチングアプリでプロフィールでお気に入りの女性を見つけたともいいましょうか、この覗き見からの一目ぼれで男性は女性にアプローチをすることになります。

そのアプローチ方法がメールです。当時は『懸想文』と呼ばれる和歌で、源氏物語で光源氏も若紫に送っている描写があります。和歌のやり取り(メール送信)を繰り返すうちに両者は親密になっていきます。
ここまで来るには、相手の女性はもとより女房役や乳母たちにも気に入られなくてはいけません。周りの反対が多いと、どんなに良い内容の和歌でも、姫にまで届かないこともありました。

条件がそろい、和歌のやり取りで二人の心が親密になると男性陣は婚姻に向けてギアを上げていきます。

三連泊の後に婚姻が成立!?

和歌のやり取りで親密になったら、オフラインでの顔合わせになります。これは、夜に女房たちの手引きで男性が女性の部屋に忍び込む手はずになっています。しかし、あまりゆっくりする時間がなく明け方には帰宅して『後朝の文』を姫に送るのが習わしでした。

ところが、どんなにメールで親密になっても会ってみて相性が悪いということもあるようで、その時男性は姫のもとへは訪れず、関係はそれまでになってしまいます。逆に気いれば2日、3日目と通い続けます。

そして、3日目の夜になると女性側が婿に迎える証として男性に『三日夜餅』と呼ばれる儀式が行われ餅がふるまわれます。この儀式が当時の結婚式的なもので、晴れて二人は夫婦となるのでした。

妾とはいえ夫婦ですから、二人の間に子どもが生まれると基本的に女性が育てます。しかし、正妻以外との結婚は、男性が他の女性に夢中になったら自然消滅することが多く、夫婦関係はとても不安定なものでした。

大河ドラマ『光る君へ』では、主人公・まひろ(紫式部)と藤原道長の純愛ともいえる展開が繰り広げられていますが、史実の道長にも当時の貴族同様に複数の妾がいました。一説には、その妾の一人が紫式部で源氏物語の光源氏のモデルが道長とも考えられています。

源氏物語の内容を考えると、史実での道長は権力の頂点に立っただけに女性関係も相当派手だったのかもしれませんね。

スポンサーリンク
ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
記事URLをコピーしました