承和の変とは?なぜ起こったの??分かりやすい背景と流れを見てみよう
承和の変とは、藤原氏が自分達の都合のいい皇太子を立てるべく邪魔な人を謀反の疑いで流罪にした事件で藤原北家の藤原良房の陰謀と言われています。
歴史上初めての藤原氏による他氏排斥事件とされ、10世紀に藤原北家が摂関政治を行うきっかけになりました。
今回はイラスト多めでこの承和の変について語っていこうと思います。
承和の変が起こるまでの状況は?
今回お話しする承和の変は842年の平安時代初期に起こった出来事です。794年の平安京の遷都から50年も経っていません。
奈良時代後半は政治的混乱に陥って遷都するに至りますが、この頃は藤原氏の中でも南家と式家がメインで勢力争いをしており、奈良時代後半の恵美押勝の変で南家が、薬子の変(平城太上天皇の変)で式家が没落。この薬子の変で北家が少しずつ陽の目を浴びるようになってきたような状況でした。
藤原氏の祖といえば中臣鎌足。大化の改新で知られる人物で天智天皇の腹心として活躍し、天智天皇が崩御する直前に「藤原」の姓を与えられています。
その彼の息子が藤原不比等で、こちらもまた大宝律令や日本書紀の編纂をした人物として名が知られます。この不比等には4人の子供がおり、この4人の子供たちがそれぞれ北家・式家・南家・京家を興しました。
この子孫たちが政界の中心的存在となっていくこととなります。
特に薬子の変では810年に起きたということで関係者が存命中。
桓武天皇が崩御した後に後を継いだのは平城天皇で、本来なら皇太子としたい息子たちがまだ幼く平城天皇自身が病弱だったため弟を後継と定めています。この弟こそが神野親王、のちの嵯峨天皇です。
自身の病を奈良時代後半の政治的混乱の中で無念に亡くなった者達の祟りと考えた平城天皇は天皇の寵愛を受け専横を極めていた藤原式家の藤原薬子と兄が反対する中で早めに弟に譲位し、元々の都・平城京へ引っ込みます。
が、嵯峨天皇になってから平城上皇の制度を改めようとしたことに平城天皇が怒り、二所朝廷と呼ばれる事態に。
藤原式家兄妹の二人も事態を好機と捉え、大いに利用。平城上皇は兵を動かすまでに至りますが、既に備えていた嵯峨天皇の動きを見て矛を納めました。が、式家兄妹のうち兄は射殺、妹は服毒自殺。平城上皇は出家するに至っています。
こうして権力を掌握した嵯峨天皇が承和の変でも大きく絡むこととなります。
承和の変の背景を見てみよう
承和の変が起こる2代前の天皇だったのが嵯峨天皇。嵯峨天皇は淳和天皇に譲位しました。
その理由に淳和天皇が親王時代に妃となっていた桓武天皇の娘・高志内親王(既に薨去)との間に生まれた子・恒世親王がいたためです。
本来、淳和天皇は有力な貴族の後ろ盾がなく(生母は式家出身)、天皇からは遠い立ち位置にいる上に本人もなる気はなかったようなのですが、両親共に桓武天皇の子という淳和天皇の息子は血筋で見ると皇位継承順位としてはかなり上の方。
だからと言って先に子供を即位させるわけにもいかず、淳和天皇が即位したのでした。
※恒世親王はイラストの中には書かれていません
823年に淳和天皇が即位し、息子の恒世親王が皇太子となっていますが即日辞退。後に仁明天皇となる嵯峨上皇の息子・正良親王が皇太子に立てられています。
結局、淳和天皇の在位中に恒世親王は826年に薨去され、父・淳和天皇の立ち位置だけが残ることに。
833年になると、予定通り正良親王に譲位し正良親王は仁明天皇として即位します。この時仁明天皇は我が子ではなく妹と淳和天皇の間に生まれた甥っ子の恒貞親王を皇太子にしました。
淳和上皇としては有力な貴族の後ろ盾がない息子を即位させることへの危惧もありましたが、淳和上皇の意向は通りませんでした。当時は嵯峨上皇が皇室のトップとして強い発言権を持っていたためです。
これまでの関係を整理すると、こんな感じですね。
そのうち、淳和上皇が崩御し嵯峨上皇が体調を崩しがちに(嵯峨上皇は842年に崩御)。
最大の後ろ盾であった嵯峨上皇の崩御により既に亡き淳和上皇の危惧は的中します。
恒貞親王を失脚させるために強硬手段を取りかねないと考えていた東宮坊の伴健岑(とものこわみね)とその盟友・橘逸勢(たちばなのはやなり)は恒貞親王を京から離そうとしたのを逆手に取られることになりました。
この京から離れる時に相談した相手が阿保親王。彼自身、過去に大きな苦労をしていたこともあって二人に与せず円満解決してくれそうな皇太后(嵯峨天皇の皇后)に相談しました。
※ちなみに阿保親王は在原業平の父親です
ところが、相談相手の皇太后は藤原良房に信頼を寄せており、皇太子による逃亡計画を張本人の良房に漏らします。皇太后自身にも道康親王の立太子の意図があったため伝えたとも言われているようです。
実際にこの情報を良房は利用。謀反の疑いありとして伴健岑と橘逸勢を流罪に、恒貞親王は皇太子を廃されることとなりました。
この結果、皇太后の娘は母を怨み、阿保親王は体調を崩し享年51歳で急死しています。自死もしくは精神的にはそれに近い形の死と解釈している先生もいるようです。
承和の変が起きた後の変化とは??
こうした経緯で甥っ子の道康親王を皇太子に引き上げた藤原良房。皇太子の外祖父となっただけではなく、伴氏と橘氏の失脚により朝廷での地位を引き上げることとなりました。
実際に道康親王が文徳天皇として即位すると、ますます地位は盤石に。
良房の行動はそれだけに留まりませんでした。文徳天皇が親王時代に良房の娘を入内させ、即位後に娘が第四皇子の惟仁親王を産むと惟仁親王を春宮(皇太子)としています。
やがて文徳天皇が崩御。9歳でこの惟仁親王が清和天皇として即位すると、事実上、良房は政を取り仕切る立場に上がりました。
この後、応天門の変を通じて藤原北家の立場を更に盤石とし、摂関政治への道が切り開かれることとなったのでした。