わかりやすい日本史

イラストで見る武士のはじまり

f:id:miumaga:20190327101240j:plain

戦国時代や室町・鎌倉時代・・・と書いてきたので、折角だしこれらの時代の共通点でもある武士のはじまりに迫っていきます。

複数ある説の中で自分が理解しやすい説を取り入れているのに加え脳内補完もしているのでご注意ください。

初期の土地制度

武士のはじまりには土地制度の変遷を見ていかない事には始まりません。

そもそも政権が土地を管理し始めたのは大化改新の時代にまで遡ります。最初に目指したのは人民・田地は天皇に帰属するというものです。ところが、この制度には決定的な欠点がありました。

f:id:miumaga:20190323162423p:plain

自分のものじゃないのでやる気が出ない。これでは収穫量は増えず、税(租庸調)の取り立ても上手くいくわけがありません。米以外の税負担もかなりのもの(労働力確保のために土地に縛り付けた、って見方もあるほど)で逃げ出す農民が出てきてしまいました。

そこで別の決まりを決めていきます。

f:id:miumaga:20190323163449p:plain

 ところが、このルールも上手くいきません。

f:id:miumaga:20190323163713p:plain

更に言うと、聖武朝は疫病が流行ったり反乱が起こったりして社会が大混乱中。社会を鎮めるため大仏建立を考えている時期だった(墾田永年私財法は大仏建立の詔の5ヶ月前に出されています)ので、税収と労働力を早く確実に確保したいという事情がありました。そんな事情が墾田永年私財法に繋がったとも言われています。

これを機にやる気を出せたのですが・・・

f:id:miumaga:20190323164102p:plain

特にやる気を出したのは主に貴族や大寺院でした。

私有地になる法ができ、一般の農民たちを使って未開墾の土地を開拓させていきます。あまりに未開墾の土地ばかりを開墾させるため一般の農民たちが所有していたはずの土地は荒れ果てていきました。更に有力者たちは、そういった耕作放棄地を集めて開墾し、ますます貧富の差が広がります。

あまりにも有力者に優位すぎるとして墾田永年私財法を禁止しますが、反発が強くすぐに取りやめ。朝廷の衰退が明らかになった一件でした。

荘園の誕生と藤原氏の台頭

そもそも税を徴収する権利を持つのは

f:id:miumaga:20190326092224p:plain

郡司です。国司が税を含む行政を執り行い、その下の郡司が徴税権を持っています。さらに下の里長(715年に郷長に改名)が実際に徴税を行っていました。

ところが、これまでの土地は公有地で新しく開墾した地が私有地なわけですから私有地と公有地が入り混じった状態となって、それに伴うトラブルが多発。

f:id:miumaga:20190326080508p:plain

いつの時代でも中間管理職はつらいものです。

f:id:miumaga:20190326092417p:plain

それでも最終的に痛い目に遭うのは一番下の弱い立場の人たちです。

f:id:miumaga:20190326092450p:plain

一般の貧困に苦しんでいる農民たちは戸籍を捨て貴族や大寺院の元に逃げ込んで労働力を対価に守ってもらう者が多くなっていきます。こうして貴族や寺院の管理する荘園ができていきました。

f:id:miumaga:20190326102808p:plain

その中で最も勢力を拡大していったのが 藤原氏

税収が少なくなると次第にこれまでの制度が崩壊。郡司・郷長の地位が低下し、その権限が国司に吸収されて国司の力が強くなっていきます。郷長は10~11世紀頃にはなくなってます。

代わりに国司(一番お偉いさんは受領と呼ばれるようになった)が使った者が田堵と呼ばれる有力農民。田堵の中には国司に取り入って勢力を拡大し、後々『大名田堵』『開発領主』と言われるまでに成長した者も出てきます。貴族や寺院の荘園だけでなく開発領主による私有地もどんどん増えていったのです。荘園が増え未開墾の土地が少なくなると、荘園同士のトラブルや私有地を巡るトラブルが増えていくと想像できますね。貧富の差も拡大していますから、治安も悪い。

武士の誕生

ところ変わって、朝廷に目を向けてみましょう。

藤原氏はじめ多くの貴族が荘園を持ち、政権内での発言権を増している状況です。それぞれの荘園の権利を拡大させようと動きます。そこで獲得していったのが

不輸の権利 です。

  • 不輸の権:税は払わなくても良いよ、という権利

 

流石に不輸権をかざされると国衙に入れる分の取り立てが少なくなるわけですから無理やりでも入ろうとします。荘園の持ち主と国司とのトラブルも増えていくわけです。そのうち、不入権(立ち入り禁止)を獲得する有力貴族も出てきます。

結果、どちらも持っている有力貴族による名義貸しが横行することになりました。

f:id:miumaga:20190326113020p:plain

開発した土地を寄進し、取り分を渡す代わりに名前を借りて不輸・不入の権利を行使。いわゆる寄進系荘園が増えていきます。

そして、もう一つのトラブル回避方法が『武装化』です。貧富の差の拡大による治安悪化に開発領主と国司の間のトラブル・開発領主同士のトラブルなど。

この武装化した農民たち同士で紛争が発生し、その鎮圧のために政府が送ったのが押領使・追捕使と呼ばれる中・下級貴族たち。有力農民出身で武装化した者の中からも武士は出てきましたが、押領使や追捕使と呼ばれた者の中で現地に残った結果、武士となった者も出てきます。こうして土地や血縁単位で武装し団結していくようになりました。

ちょうど似たような時期、子沢山な天皇が数人出てきます。税収が低下している中で皇族を多数養うのは非常に厳しい。そこで行ったのが臣籍降下(姓を与えられて臣下の籍に降りること)です。

f:id:miumaga:20190326150714p:plain

元親王たちは都に多数いる皇族の中の一人。下手すると30人以上もいる親王・内親王がいる中で臣籍降下しているわけですから、都にいてもいずれ市井に紛れていくのが知れています。そんな理由から一族で地方に赴きました。

武力トラブルを解消するには少人数で対応するよりも人数を集めた方が有利に進められることも出てきます。そこで武士たちは臣籍降下した元親王や子孫を中心として更に大規模な集団を作り上げていきました。

f:id:miumaga:20190327091708p:plain

その中で頭角を現していったのが平氏と源氏。平氏・源氏になったのは桓武天皇(桓武平氏)と清和天皇(清和源氏)の臣籍降下した元親王たちとなります。この大きくなった組織は武家と呼ばれる軍事貴族と呼ばれるまでに成長していきました。

平清盛は桓武平氏の子孫、源頼朝・足利尊氏は清和源氏の子孫です。

清和源氏はおろした拠点の場所によって、摂津源氏・大和源氏・河内源氏などの支流に別れます。頼朝・尊氏は清和源氏のうちの河内源氏の出身と言われています(家康もまた河内源氏の出身を名乗っていますがあくまで自称)

朝廷や貴族たちは日に日に勢いを増し実力をつけた武士達に目を向け始め、貴族や都の警護にあたらせたり宮中の警備を担ったりするようになります。政界進出も始まり、次第に朝廷内でも大きな影響力を行使するようになりました。こうして徐々に武士は力をつけていったのです。

ABOUT ME
miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。