絵で見る・律令制への道【乙巳の変】
絵で見るシリーズ『律令制への道』第2弾。前回は推古天皇・厩戸皇子(聖徳太子)・蘇我馬子の協力体制と蘇我氏全盛期についての話までしていたが、間が空いてしまったので前回の復習も取り入れながら簡単に流れを追って行こうと思います。
乙巳の変とは??
645年に、中大兄皇子と中臣鎌足らが当時の政権の中心にいた蘇我入鹿を暗殺した事件です。入鹿の父親である蝦夷は入鹿の暗殺を受けて自宅に火を放ち自害しました。
以前はこの一連の事件を大化改新と呼びましたが、近年の歴史認識の変更に伴い、大化の改新は乙巳の変の翌年646年の数々の政治改革を指すようになっています。
乙巳の変は蘇我氏の専横が原因とも言われています。間が空いてしまったので、蘇我氏の隆盛から見ていくことにします。詳しくは前回の絵で見るシリーズを置いときますので、ご覧ください。
推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子がやったこと
蘇我氏を力を持ちはじめた当時、隋(581~618年)が現在の中国付近に大国を建国したことで東アジア情勢が緊張し、倭国もこれまでの体制を一気に変える必要が出てきました。
推古天皇を中心に厩戸皇子・蘇我馬子が連携して国としての体裁を整えるため
- 遣隋使(小野妹子ら)
- 十七条の憲法
- 冠位十二階の制度
を整備し、当時の政治制度を一新させています。
3人体制になって変わったことは??
隋との交流のない時代、有力氏族の連合体で氏族ごとに役割を担当する形で政治を執り行っていました。このやり方、それぞれの氏族が業務を引く継ぐためプロフェッショナルを育てるには適していますが・・・
逆に言うと、どこかの1氏族がごねただけで政治が滞ることを意味します。
随という国が建国されて海外との交流が盛んになると、この政治の滞りが『まとまりのない国』という印象を与えることに繋がり、海外との交渉に不利となってしまいます。
そこで推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子は、適材適所で天皇が人事権を握る方式に変更させます。これを機に家柄では劣っている場合でも有能な人物に冠位を授けることも可能になりました。
誰かがごねても執政を続けられるようになったのです。
ただし!!
人事を天皇が握ったことで天皇近い氏族が圧倒的な権力を持つことに繋がっていきます。蘇我馬子時代に蘇我氏は天皇周辺を婚姻関係で固め、地盤を築いていったのです。
どんな婚姻関係を結んだの??
婚姻関係を結んで地盤を築こうという動きは、家系図を物凄く複雑にさせました。見ると分かるのですが、
ものすごーーーく入り組んでます。乙巳の変に関わった人物だけを抜粋しただけでも、こんな感じです。
こんなに入り組んでいる様じゃ、時期天皇選びにも苦労するというもの…推古天皇の次代天皇選びと34代の舒明天皇崩御後の後継者選びが難航してしまいます。
そんな中、蘇我入鹿(馬子の孫で蝦夷の子)が聖徳太子の息子で自身の従兄弟でもある山背大兄王を自害に追い込みました。
自害へ追い込んだ理由としては…
- 反蘇我氏への反発を弱めるため
- 馬が合わなかったため
- 山背大兄王がまだ若く未熟だったため後継者と認められなかったため
などと言われていますが、決定打はありません。ただ、この『山背大兄王を自害へ追い込んだ』一件は蘇我氏内部にも不信感を抱かせる決定的な出来事となります。
入鹿がひょっとすると味方にもつけられるかもしれない身近な『山背大兄王』までも自害に追い込む事件を目の当たりにしたことで不信感が募るのは当然でしょう。
ちなみに父・蝦夷ですら入鹿の山背大兄王の事件はやり過ぎと考えていたようです。
もう一人の蘇我氏の政敵とは?
乙巳の変、大化の改新と聞いてすぐに出てくるのは『中大兄皇子』ともう一人。
この人物…中臣鎌足です。実はこの中臣氏。鎌足や入鹿の祖父世代の時代からの因縁の相手でもあります。
というのも蘇我氏が勢力を拡大するきっかけになった対立を思い出していただけるとすぐに理解できます。
そのキッカケとは、蘇我氏と物部氏との対立です。仏教を取り入れるか否かで対立が激化されています。
中臣氏の職業は古来から信仰されてきた祭祀担当。反蘇我氏の立場に立つことになるのは当然です。結果、丁未の乱(587年)が発生。物部氏の衰退を促し、蘇我馬子や聖徳太子ら仏教推し派が政治の中心を担います。
ここで思い出してほしいのが中臣氏の以前の担当。
祭祀担当ですから仏教が入ってきた事で中臣氏の力が弱くなったことは想像に難くありません。実際、中臣氏の中に丁未の乱で物部氏側について亡くなった人もいます。とは言っても流石に馬子の孫の代で復讐という線は薄そうです。
蘇我氏に対する不満は中大兄皇子だけでなく他の皇族や豪族、果ては蘇我氏内部からも噴出していたわけですから出世のチャンスと考えたのではないでしょうか。大義があれば周りから認められやすいし、下火になった中臣氏の力を取り戻す絶好の機会でもありますから。
中臣鎌足は第36代天皇になった舒明天皇の皇子時代(軽皇子)に近付いていたとも言われていますし、蹴鞠をきっかけに中大兄皇子と親しくなった話も鎌足の野心家な一面が見え隠れしている逸話じゃないかと思います。
実はよくわかっていない乙巳の変
後々まで影響を与える律令制度を構築するきっかけになった出来事であるのに、あまりにも古い出来事過ぎて様々な説が出ては消えていっています。
分かっているのが朝鮮半島にあった三カ国(新羅・百済・高句麗)からの使者の来日で行った朝廷内での儀式で蘇我入鹿が殺害され、そのあおりを受けて父の蝦夷も自宅に火をつけて自害をはかったこと。
その原因が一般的には蘇我氏の権力が強すぎることによる反発からと言われています。教科書的には『蘇我氏の専横』という説が正しいです。
が、実は他にもいくつかの説がありますので紹介していきましょう。
35代皇極天皇・軽皇子黒幕説
皇極天皇と軽皇子がどのような関係か?名前だけ聞いてもよく分からないので関係図を置いときます。
推古天皇の崩御後、後嗣を決めず揉めた34代の天皇でしたが、何とか田村皇子が舒明天皇として即位するまでこぎつけます。ところが舒明天皇の崩御後、再度35代の後継者選びも難航したため、ひとまず妻が皇極天皇として即位。
皇極天皇は「我が子を皇位に就けたい」、軽皇子は「自らが皇位に就きたい」ということで利害が一致し、邪魔な蘇我一族を排除したかったというのが皇極天皇・軽皇子黒幕説となります。
軽皇子は643年の聖徳太子の息子で有力な天皇候補であった『山背大兄王の事件にも関わっており蘇我氏の軍勢に加わっていた』とされています。さらに史上初めて行われた譲位が『姉→弟』というのも根拠として囁かれています。
なお、日本書紀に斉明天皇(=皇極天皇と同一人物)が蘇我蝦夷に祟られているという描写が描かれていることもその信憑性を高めているようですね。
蘇我氏と中大兄皇子・中臣鎌足の外交路線の相違で揉めた説
蘇我氏と言えば馬子以来3代続けて政権の中心にいた氏族。故に海外の情勢にも詳しかったと言われています。
- なぜ白村江の戦いのような無謀に思える戦いを仕掛けたのか?
- 壬申の乱でなぜ大海人皇子についた豪族が多かったのか?
がしっくりいくような気がします。
白村江の戦いをしないことは、『蘇我氏が正しかった』と認めてしまうようなものになるから強行したと推測できますし、正当性がないのに戦いに関わる様々な負担を強いられたことによる不満が大海人皇子を後押ししたとも考えられるためです。
他のものも含めて様々な憶測が蔓延している乙巳の変ですが(中大兄皇子=百済の人質豊璋みたいな説まであります)、この事件により政権内の力関係がガラッと変わり天皇中心の中央集権体制を築くことになったのです。