平安時代

源氏の地位が確立した後三年の役

前九年の役で謀反を起こした安倍氏の討伐を行った源頼義でしたが、古来より馬術・弓術に優れた東北地方の将兵たちは強く、武士の棟梁である源氏の力をもってしても制圧するのは至難の業でした。

 

源頼義が活躍した前九年の役はなぜ起こったのか? 平安時代の後期には、学校でも習う重要な争いが東北地方でありました。 それは、前九年の役と後三年の役です。 この二つの戦い...

 

そこで、同じ東北の出羽地方で力を持っていた、清原氏の力を借りて安倍氏討伐を実行。清原氏は、源氏の約二倍の兵を率いて協力し、安倍氏討伐に成功します。

この前九年の役の勝利で、源頼義伊予守に息子の義家出羽守になると、清原武則も鎮守府将軍になると奥羽の支配を進めていきました。

 

前九年の役から20年ほどが経ち、源氏・清原氏もそれぞれ世代交代が起こったある日、源氏に協力をした清原氏の家内で内紛が発生します。

この内紛が大きくなり、【後三年の役】として後世に知れ渡ることになります。

 

後三年の役のはじまりと経過

 

この頃の清原氏の当主は、清原武貞でした。

彼には、先妻のとの子の真衡(さねひら)と安倍氏に属していた藤原経清の未亡人を後妻としたときの連れ子の清衡(きよひら)を養子としていました。

しかし、後妻と武貞との間に清原家衡(いえひら)が生まれます。

この時、清原氏の家中では【清原氏の嫡流の真衡】と【安倍氏の血を引く清衡】【両方の血を持つ家衡】の複雑な兄弟関係が出来上がりました。

 

清原真衡が当主へ

 

武貞が亡くなると、一悶着ありましたが長男の清原真衡が清原氏当主となります。

この一連のイザコザが後三年の役のキッカケとも言われています。

清原真衡が当主となった一悶着だけですめば良かったのですが、この後のトラブルが【後三年の役】大きなのキッカケとなってしまいます。

 

清原氏の当主となった真衡は子供に恵まれず、桓武平氏の血筋からから養子をもらう事にしました。

 

この子が【清原成衡】です。

 

清衡か家衡のどちらかを後継ぎにしていれば問題が無かったのですが、当時は高貴な血が好まれる傾向が強く、真衡はどうしても桓武平氏の流れをくむ成衡を、源氏の流れをくむ女性と結婚させて【平氏と源氏の血を継ぐもの】を作ろうとしたのです。

 

後三年の役が勃発

 

1083年に成衡の婚姻の席で後三年の役が本格化するトラブルが起きます。

この頃も婚姻の席では親戚一同が集まる風習であり、清原真衡の叔父に当たる吉彦秀武(きみこ の ひでたけ)と言う人物もお祝いに来ていました。この秀武は清原氏の三代に仕えた重臣で所領や配下の兵も多い実力者でした。

吉彦秀武が新婦の父である清原真衡に挨拶に来たのですが、碁に夢中になっていた真衡は、秀武を無視してしまいます。親戚一同が集まっている場での出来事ですから、【真衡は秀武を冷遇している】と見えてしまいます。

当然、この仕打ちに秀武は激怒し、国へ帰ってしまいました。

 

この秀武の態度に逆切れしたのが真衡で、無礼を働いたとして秀武討伐のため兵を挙げたのでした。真衡の挙兵を知ると秀武は、後継者争いに遅れを取っていた、家衡と清衡に真衡討伐を持ち掛けます。

 

成衡の婚姻の席のトラブルが後三年の役の始まりのキッカケとなったのでした。

 

源義家の赴任と清原真衡の死

 

清原家衡と清衡は、吉彦秀武の協力を快く受けると、見る見るうちに真衡の本拠地へ迫りました。しかも、このタイミングで源義家が陸奥守として東北へ赴任してきます。

真衡は、源義家をもてなすために、多賀城でおもてなしをします。

国府側の源氏が清原真衡に付いたことによって家衡と清衡らは謀反人になることを恐れ、降伏をします。ここで、何事もなければこれですべては収まるはずでしたが、真衡が出羽に向かう行軍中で病により急死してしまいます。

 

清原清衡と家衡の争い

 

清原真衡の死後、源義家は真衡の所領の奥六郡を3郡ずつ分け与える事としますが、これに不満を持ったのが家衡で、1086年に清衡の館を襲撃しました。

 

清衡は何とかして逃げ延び、義家に助けを求めました。

源義家は、兵を率いて家衡を攻めますが敗れてしまいます…

 

この勢いで家衡は、清原武衡を味方につけ清衡・源義家の上方軍を倒してしまおうと難攻不落の金沢柵を押さえることにしました。

 

一方、源氏方では義家の弟・義光が官職を辞して、兄・義家の救援に駆け付けました。

 

日本史初の兵糧攻め

 

源義光の援軍を得た義家・清衡一行は、金沢柵を攻め始めました。

ここで、吉彦秀武の案により兵糧攻めにて金沢柵を攻めることに…

清原清衡&源義家・義光軍も、長い時間をかけて金沢柵を包囲しました。

 

包囲最中に、女子供らが降伏を申し出てきましたが、攻略を優先した義家は降伏してきた者を皆殺しにしてしまいます。柵内でその様子は知るところになり、降伏する者がいなくなり、柵中の食糧はみるみる尽きていきました。

結果、家衡と武衡は火を放って逃走しますが、程なくして打ち取られます。

 

後三年の役の戦後処理

 

清衡と義家軍が勝利した後三年の役ですが、その後の戦後処理が上手くいきませんでした。

と言うのは、前九年の役では【地方の大名が謀反の疑いがあるので、中央から軍を派遣した戦い】でしたが、後三年の役は【地方のお家騒動に源義家が勝手に介入しただけ】だったのです。

そのため、朝廷からの正式な恩賞等はもらないどころか、陸奥守である義家が中央へ治めるはず税金を送らず、戦費に充てていたのでお咎めまで受ける始末です。

これにより義家は、10年ほど朝廷から、使い込んだん分の請求をされる事になり、出世もできませんでした。

 

武家の棟梁としての地位を確立

 

また、部下への恩賞も支払わなくてはいかなく、義家は私財を投げうって恩賞を出しました。この頃から、武士と言うのは恩賞をもらって働くが基本でしたので、恩賞が支払えなくて命が狙われるより、ましだと考えたのでしょう。

 

ところがこの行動が武士たちへ好印象を与える結果となり、源義家を中心として源氏と東国武士団の主従関係が強まり、源氏は武士の棟梁としての地位を固めていきます。

また、東国武士団の中には義家に土地を寄進して保護を求めるものが増えていきました。

このころの地方武士は大名田堵(たと)として経営を維持しながら、開発領主として成長して領地を拡大したり保護を求めるものが多くなり、これらの地方武士を家人(けにん)として組織しながら強固な結びつきを作りました。

 

奥州藤原氏の誕生

 

また、この戦いで得をしたのが清原清衡で、清原氏の所領を全て相続することになり、平泉を本拠地に奥羽の支配者となり実父の姓である藤原を名乗るようになります。

金や馬の産物によって財をなすと、摂関家と近づき京都文化を移入するとともに宋など北方との交易で独自の文化を育てていきました。

 

これが子の基衡、孫の秀衡の代まで3代100年に渡る奥州藤原氏の始まりでした。

 

つまり、奥州藤原氏は源氏の助けを得て興った家だという事がおわかりでしょうか?

100年後に源義経が頼朝に追われ奥州を頼ったのも、そういった経緯があったからなのでしょうか?しかし、その奥州藤原氏も、同じ源氏の後裔・源頼朝に滅ぼされてしまうのですから、なんと言う皮肉な話でしょうか…

 

 

おまけに…

源義家の家系から頼朝・義経が出てきて、さらに分離して足利尊氏が出てきました。

また、弟の源義光の子孫からは甲斐の大名・武田信玄が輩出されています。

 

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miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。