平氏と源氏に翻弄されながらも朝廷の復権に尽力した【日本一の大天狗】後白河法皇
後白河天皇は二条天皇に譲位すると、上皇となり以後34年間にわたり二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代の天皇にわたり院政を敷き権力を握りました。
1127年に鳥羽天皇の第4皇子として生まれ後白河天皇は雅仁と命名されます。第4皇子のため皇位継承から遠かったので趣味没頭する自由気ままな少年時代を過ごしました。
今様と呼ばれる当時の流行歌に周囲が引くくらい没頭し、連日の歌の練習で喉を枯らすことが多かったそうです。そのため、世間の評価は低く、父・鳥羽上皇も天皇の器ではないと皇位継承の構想外でした。
今様(いまよう)…歴史的には平安中期~鎌倉時代にかけて、宮廷で流行した歌謡の事を言います。主に、七五調四句の形で長く癖のある曲調で、扇や鼓などで拍子をとったり、即興で歌ったりすることもありました。
しかし、この頃の交友経験が後の驚異的な政治手腕を発揮する下地となりました。
こうして、皇位継承から外されていおり、自由気ままな貴族生活をしていた後白河(雅仁)ですが、人生のターニングポイントが訪れます。
後白河天皇の誕生
父・鳥羽天皇が譲位し院政を開始し兄・崇徳天皇が即位しますが、寵愛する藤原得子との間に子が生まれると、崇徳天皇に譲位を迫り近衛天皇が誕生します。
しかし、1155年に近衛天皇が17歳の若さで逝去。
崇徳上皇は実子を天皇に据えようとするのですが、近衛天皇の崩御が崇徳上皇と摂関家の藤原頼長が呪い殺したせいだという噂が流れ始めました。
これに怒った父・鳥羽法皇は妻の養子で、後白河の実子である二条を天皇にしようと画策しはじめたのです。
※後の二条天皇の実母は出産直後に亡くなり、美福門院が養育しています。
ところが、「守仁親王が天皇になったとしたら、父(後白河天皇)が親王では、慣例的におかしいのでないか」として、守仁親王(二条天皇)が成人するまでつなぎとして後白河天皇が誕生しました。
こうして、周りに何も期待されないつなぎの天皇として、後白河天皇が即位し終わってみれば約34年間権勢をふるうことになります。
保元の乱と平治の乱
実権を握っていた父・鳥羽法皇が崩御すると、兄・崇徳上皇は天皇は自分の子がなるべきだと後白河天皇と皇位継承をめぐり対立し保元の乱が始まります。
有力な武士団・平清盛や源義朝を味方につけた後白河天皇は、崇徳上皇を破り流刑に処しました。崇徳上皇は讃岐の地で憤死し長く朝廷を祟ったと言われています。
保元の乱に勝利した後白河天皇は、在位わずか3年で二条天皇に譲位し後白河天皇は上皇となり院政を敷くことになりました。しかし、周りからは「この上皇で大丈夫か?二条天皇が親政を敷いたほうが良いのでは?」と言った意見が多く、後白河院政が始まってみれば、後白河上皇派と二条天皇親政派が出来上がっていました。
さらに後白河院の家臣である信西と藤原信頼の対立構造が出来上がり【平治の乱】が勃発します。この平治の乱は、政治担当の信西と遊びの師匠・藤原信頼が対立し、それに二条親政派が藤原信頼に乗っかる争いですが、当の後白河上皇はどちらの味方もせず中立を決め込みました。
最終的には信西が敗れ後白河院政派は敗れ藤原信頼が実権を握るのですが、その身勝手な政治手法から二条親政派から反感を買いました。二条天皇は平清盛に保護され、藤原信頼は討たれることなっています。
平氏の台頭
平治の乱が、平清盛が味方した二条天皇方の勝利に終わると、後白河上皇は清盛との結びつきを強めます。清盛の福原の別荘にも訪ね、宋人と会ったりもしています。1167年には、清盛の妻・時子の妹・滋子が後白河上皇に嫁ぎ、平清盛と義兄弟となり、平清盛は従一位太政大臣となりました。
1168年には滋子の子・高倉天皇が即すると平清盛は位人臣を極めました。この頃の後白河上皇と平清盛の関係は最高潮だったようです。
ところが、滋子が没すると後白河と清盛の関係も冷え込み始めます。後白河上皇は平家一門でなく自分の近臣を登用し始め、平家の権力増長の抑え込みを始めたのです。その行動に清盛も次第に警戒感を強めていくことになります。
その中で起こったのが鹿ケ谷の陰謀で、この企みが清盛にばれると後白河上皇は院政を停止させられてしまいます。しかし、後白河上皇も清盛一族の荘園削減を目論み引き下がりませんでした。
さすがの平清盛も1179年に、兵を率いて京都に入ると関白と太政大臣を解任して後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し、独裁政治を始めます。この政治的クーデターを【治承三年の政変】と呼ばれています。
日宋貿易は後白河法皇も貢献!?
日宋貿易は貨幣経済に大きな進展をもたらしました。
宋人により法皇の謁見は平清盛に大きく助力する形になります。さらに、奥州藤原氏の鎮守府将軍に任官は重要な輸出品をたくさん献上させるための意図があったようです。
日宋貿易は平清盛の功績で語られますが、裏で後白河法皇の助力があってこその進展でした。こうして輸入された宋銭は日本国内で大量に流入して、貨幣経済の発展へとつながるのです。
源頼朝の挙兵と平氏滅亡
こうした平清盛のクーデターは反平氏勢力の反感を強め、1180年に後白河法皇の子・以仁王と源頼政が挙兵、さらにこれに呼応する勢力が各地に挙兵します。
そして、8月に源頼朝が伊豆に挙兵、9月に木曾義仲が信濃で挙兵、10月に富士川の合戦で平家方が大敗します。
そして、1181年平清盛が死去すると、没落する平家についていた孫・安徳天皇には同行せず、都から落ち延び平氏滅亡に巻き込まれる難を逃れました。
後白河法皇はすぐに院政を再開し、奥州藤原氏に頼朝討伐の院宣を出したり、源氏の木曽義仲の上洛の際には義仲を手玉に取り征夷大将軍に任命し源頼朝や義経を対立させるなどの策を講じていています。
源義経が木曽義仲を打ち破ると、その武力を認め寵愛します。その際には、鎌倉の頼朝と対立させ源氏を内部分裂させようとしました。
後白河法皇の策に見事はまった源義経は、判官の任を受けて頼朝討伐の院宣を受けました。しかし、頼朝が京都に迫ると今度は義経討伐の院宣を出して頼朝に取り入っています。
このように状況によってコロコロと言動や行動を変える後白河法皇に対し源頼朝は【日本一の大天狗】と非難し警戒しています。
1190年11月に源頼朝は後白河法皇との関係を修復するために千騎あまりの軍勢を率いて上洛し後白河法皇に初めて謁見しました。その後、40日に渡り京都に滞在し、その間に8日ほど後白河法皇と会いその関係はかなり改善されたとしています。
しかし、この謁見の間に源頼朝に守護・地頭の設置を認めたため、朝廷の力は次第に低下する結果となりました。
鎌倉幕府設立前後の後白河法皇
鎌倉幕府設立前後の後白河法皇は、朝廷が摂関家領問題の解決と地頭職設置を認めることで改善傾向に動きます。1187年に大江広元が上洛すると大地震で壊れた内裏の修繕作業を行いました。
また、京都では盗賊問題が問題化しており、朝廷でも警備を強化していたのですが源頼朝は、鎌倉から千葉常胤を派遣し京都の治安維持にも協力をしました。
1188年の院御所が火災によって焼失した際にも源頼朝は、その再建に尽力し新しい御所を造成してくれました。これにより、後白河法皇は少しずつ頼朝を信頼していきます。
こうしたことから、朝廷の方針は段々と鎌倉方との融合に傾いていきました。やがて義経が奥州藤原氏の庇護にあると分かると、朝廷は頼朝の求めに応じて藤原泰衡に義経討伐の宣旨を出し、1185年には義経を自害に追い込みました。
後白河法皇は、頼朝に「義経が自害したことでもう戦は必要ないだろう…」と伝えますが、頼朝はさらに奥州藤原氏滅亡を画策していました。
その年の7月には、宣旨を受けずに奥州討伐のため大軍を組織し、2か月後には奥州藤原氏を滅ぼしてしまいました。
私闘ではありますが、わずか2か月での決着に後白河法皇は、泰衡追討の宣旨を出して容認し「この短期決戦はこれまでにない」と一定の評価を付け加えています。この頃には、すでに「朝廷側が鎌倉幕府と協調関係を結んでいこう」と考えていたようです。
晩年の後白河法皇
平氏と源氏の間で朝廷の権力を様々な策略で維持しようとしていた後白河法皇でしたが、露骨に主義主張を変えて時の権力者にすり寄った行動は、朝廷内で天子にあるまじき行為と受け取られ朝廷内での評価は芳しくなかったようです。
公卿・九条兼実は『玉葉』という日記で後白河法皇について
後白河法皇は、和漢の間で比類少ない暗主である。
(中略)
しかし、二つだけ徳がある一つは、もし何か行ないたいことがあったら人が制止するにもかかわらず、必ず遂行する事である。二つ目は、自分で聞いたことは何年たっても絶対に忘れない事である。優れているのはただこの二点だけである。
「制止するにもかかわらず」とありますが、悪く言うとわがままな天子様という事で、絶対忘れないは、執念深いともいえるかもしれませんね。とは言うものの、当時の近臣は後白河法皇を暗愚と評価していたのがわかります。
1186年、後白河法皇は壇ノ浦で生き残った安徳天皇の母・建令門院が大原の庵室に訪ねています。『平家物語』に綴られているくだりでは、後白河法皇に建礼門院が仏法の六道になぞらえて自らの人生を語る場面が登場します。
朝廷の復権を生涯の目的に置いていた後白河法皇も老いには勝てず、復権もかなわず敗者への悲しみを感じ始めていたのかもしれません。
1191年の暮れあたりから後白河法皇は、体調がすぐれないことが多くなりました。
後白河法皇は、崇徳・安徳天皇の怨霊を恐れてか讃岐と長門に御堂を立てることを命じています。
翌年の1192年2月、後白河法皇は後鳥羽天皇の見舞いを受けます。
このとき、後鳥羽天皇の笛に合わせて得意の今様を歌う姿が見られました。その後、後白河法皇は丹後局に院領分与に関する遺詔を伝達した事から、自らの最期を覚悟したようです。
そして3月、後白河法皇は六条殿において崩御しました。陵所は法住寺陵にあります。