鎌倉殿の13人

平安時代末期の平清盛の台頭と後白河上皇(法皇)との政権争い

鎌倉殿の13人の主人公である北条義時は1163年に生まれました。

この頃の日本は、保元の乱と平治の乱が終わり平清盛が政治の中心にいた時代で政治の主導権が公家から武家へと移り変わろうとしていました。

その武家中心の政権を作るきっかけを作ったのが平清盛でした。

平清盛は、日宋貿易のため瀬戸内海の航路を整え、同線の輸入による貨幣経済を浸透させました。また、世界遺産に登録されている、厳島神社を今の姿に改修したのも清盛だと言われています。

そこで今回は、鎌倉殿の13人で北条義時が若い時の時代である平安時代の末期~鎌倉幕府成立頃までの流れをまとめてみたので大河ドラマを見る前に予習してみましょう。

 

平安末期の権力者の移り変わり

摂関政治でその権力をほしいままにしてきた藤原氏は、その血を繋げながらも勢力は弱まっていました。

この頃は、いくつかの有力者が登場します。

地方では、開発領主と呼ばれるものが台頭してきました。

彼らは元々、地方から任命された郡司や郷司などの役人で、赴任地で開発したり、放棄された田畑を整備し、その土地を中央の権力者に寄進する事で自らの地位を保とうとしました。

これを寄進地系荘園と言います。

 

中央では1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、上皇が政治の実権を持つようになる院政が行われ、上皇は治天の君と呼ばれていました。

言葉の意味は、実際に政治を行う天皇・上皇・法皇の事を指します。

そして、もう一つの有力者が後の江戸時代まで日本を歴史を担っていく【武士】です。

事の発端は、白河法皇が自分の警備をするべく、伊勢平氏を味方につけたことが始まりです。この伊勢平氏から平清盛が誕生します。

この頃は、清盛の祖父・平正盛の時代でした。

平正盛は、自分の領地(伊賀)を白河法皇に献上したことで顔を覚えられ、法皇の御所の北側に詰めて身辺警護をする【北面武士】と呼ばれる役職に命じられます。

正盛以外にも武士はいましたが、北面武士に就いたことで平家の地位が向上しました。

 

荘園の転換期と武士の成長 第60代天皇・醍醐、62代・村上天皇の治めた時代は【延喜・天暦の治】と呼ばれ、関白・摂政を置かず天皇自らが政を行うようになり...

 

平清盛を輩出した伊勢平氏

よく○○平氏などとたくさん登場しますが、伊勢平氏は桓武天皇から分かれた【桓武平氏】のうち、上総国に赴任した坂東平氏の分家とされています。

桓武天皇

桓武平氏初代・葛原親王

葛原親王の孫・平高望

高望の長男・平国香

国香の長男・平貞盛
→ 国香の甥に平将門 


貞盛の四男・平維衡
↓(三代略)
清盛の父・平忠盛

平清盛

国香の甥が平将門という事は清盛と将門は遠い親戚という事になります。

 

この頃、関東では源頼朝の祖先にあたる一般的な源氏と呼ばれる河内源氏が力をつけており、伊勢平氏はその下に仕える形で西へと移り住みました。そして、前九年の役と後三年の役の時に源義家が関東での地位を確立すると朝廷は警戒をします。

また、河内源氏は摂関家とのつながりも強く、摂関家の力をそぎたい皇室やほかの貴族にとって河内源氏の勢力が大きくなるのを阻止したいと思っていました。

このような理由で、皇室や貴族は河内源氏の対抗馬として伊勢平氏を引き立てるようになりました。

院政が始まった白河法皇時代は、院の権力が絶大で人事権を掌握し摂関家を骨抜きにしていました。摂家にも、白河法皇に対抗できるほどの人材がいなかったとも言えます。

 

伊勢平氏の台頭

時が進み、白河上皇の孫である鳥羽政権下でも自信が院政を敷きました。しかし、崩御後に治天の君をめぐり皇室・摂関家・平家・源氏が入り乱れ【保元の乱】が起きます。

その余波で【平治の乱】が起きると伊勢平氏の権力が拡大します。

この二つの乱で、伊勢平氏の棟梁だった【平清盛】が大きな功績を挙げました。

保元の乱と平治の乱は別記事でまとめていますので参考にしてください。

 

歴ぴよ
歴ぴよ
保元の乱後白河法皇と崇徳上皇との兄弟間の争いで、それが摂関家の内部抗争に武士が巻き込まれた戦乱だよ。
歴ぴよ
歴ぴよ
平治の乱…後白河天皇と二条天皇派の親子喧嘩で清盛が全て美味しいところを持っていきました。平治の乱とは【平家が治めたから…】ではなく、この時の元号が平治だったことから付けられたので平氏とは関係ないよ。

 

いつの世もツテがあるのは強いもので、平清盛の正室が後白上皇の第一皇子・二条天皇の乳母を務めていたこともあり、この平治の乱以降、平清盛は後白河上皇と結びつきを強めていきます。

 

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平清盛の権力掌握手腕

二条天皇は、父の院政を嫌い天皇による親政を行います。そこで清盛は、後白河上皇のために蓮華王院三十三間堂を建造するなど、親子の対立をさせないように配慮しました。

また同時に、関白の近衛基実に娘を嫁がせて摂関家とも太いパイプを作りました。

一見、八方美人な方針ですが、伊勢平氏は元々官位が高くないために【周りに対立関係を作らない】この方針が成功のカギだったのでしょう。源氏と比べて内輪での争いが少ないのも、ここからきているかもしれませんね。

 

二条天皇が亡くなった後、六条天皇が即位すると後白河上皇は好機とみて院政の再開を試みます。しかし、平清盛はこれまでの付き合いから上皇と距離を置くことを考えました。

ところが、このタイミングで清盛が病にかかり出家してしまいました。

そこで後白河上皇は、六条天皇を退位させ第七皇子・高倉天皇をつかせました。

清盛の体調が回復すると、日宋貿易の拡大とし厳島神社の整備に取り掛かり、政治の世界から一歩引くように思えましたが、後白河上皇も清盛と強調する姿勢を見せており両者の関係は良好に保っていました。

しかし、平家の荘園が500カ所も超える勢力になると、後白河上皇も無視できなくなります。そこで、【鹿ヶ谷の陰謀】と呼ばれる会合が持たれましたが、密告されてあっけなく清盛にバレました。

この会合に関わった人を清盛は処断します。この時の中心人物であった後白河法皇は、罪に問いませんでした。

ところが、近衛基実に嫁いでいた娘がなくなり婚姻関係が破綻すると、後白河法皇が動き出します。

 

後白河法皇に対してクーデターを決行!

清盛の娘・盛子の死がキッカケに歴史が動き出しました。盛子の所有していた荘園を後白河法皇が召し上げたのです。さらに、清盛の嫡男である重盛が亡くなると、重盛の領地だった越前も没収。続いて近衛家の家督にまで介入する事態に…

これらの後白河法皇の行動は、清盛への相談や事前連絡無しでのことでした。

近衛家については不問でも、自分の子供たちの領地を勝手に召し上げられたのは、さすがの清盛も黙ってはいませんでした。

 

そして、清盛は後白河法皇に対して【治承三年の政変】を決行するのでした。

朝廷内で、反平家の貴族を全て退任させて親平家派に切り替え、後白河法皇を鳥羽御殿に幽閉し院政を停止させ、高倉天皇と平家による政権を作り出します。

その後、清盛自身は福原に引き上げていることから、自分が政権を握るためより後進の息子たちの立場を残すために行ったと考えられます。しかし、後任の平宗盛は残念ながら政治手腕が欠けており、渋々清盛が復帰せざる得ませんでした。

1180年に高倉天皇が清盛の娘との間に儲けた安徳天皇に譲位しました。

 

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以仁王の挙兵を機に各地の武士たちが立ち上がる

建前上は、高倉上皇の院政と言う形でしたが、周りから見ても清盛を始めたとした平家の傀儡政権であることが明らか。しかも平家の身分は元々高いものではありません。

こうなると、皇族や摂関家や貴族、同じ武士の河内源氏からも不満・やっかみを買うことになりました。こうした流れで、反平家勢力が少しずつ動き出します。

 

まず、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおうが平家討伐を計画・実行しますが、事前の準備不足のため、すぐに鎮圧されてしまいます。しかし、これが各地の武士や貴族が立ち上がるきっかけとなりました。

 

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そして、平治の乱の戦後処理の際に関東へ追われていた源頼朝を中心とした平家討伐が始まり、【壇ノ浦の戦い】で平家を滅ぼします。その後、頼朝は自分の指示に従わない弟・義経や、それに味方する奥州藤原氏を滅ぼして足場を固めます。

源頼朝も後白河法皇と良い関係を築けたわけではなく、征夷大将軍に任じられたのは法皇が崩御した後の事でした。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。