平安時代

保元の乱の戦後処理と信西

 

平治の乱が起こった原因となった保元の乱の戦後処理について考察しながら探ります。

キーパーソンは保元の乱で参謀のような役割をしていた信西という人物。信西後白河天皇と共に保元の乱の後の体制を整えていきました。この信西保元の乱後の体制がどうなったかを知ることで平治の乱までの流れがつかめると思いますよ。

信西とはどんな人だったのか?

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俗名:藤原(高階)通憲

奈良時代の藤原武智麻呂を祖とする藤原南家出身。

元々学者の家系ですが、幼くして父を亡くし縁戚の高階家に引き取られ、その庇護の下で勉学に励み非常に優秀な人物に成長します。

高階家の娘を娶ったことで朝廷に出仕するようになり、その頭脳を武器に鳥羽院政下で頭角を現しますが、家柄により出世が頭打ちとされたことで思い悩み出家。

その後、二人目の妻が雅仁親王後白河天皇の乳母だったことで政界の中心人物へと変貌を遂げます。雅仁親王の即位は信西の後押しがあったためとも推測されているようです。

保元の乱で勝利し後白河天皇の地位が安定したことで、当然信西は重用されるようになっていきます。

保元の乱の戦後処理はどんなものだったのか?

保元の乱が終わると反対勢力の罪が問われた結果、崇徳院讃岐の国(香川県)へ流刑となります。崇徳院以外の反後白河派の処遇というと法に則っていたとは言え凄惨なものでした。信西は350年前の薬子の変以降行われていなかった死刑を復活させ、反対勢力の排除を決行したのです。

 

薬子の変(平城太上天皇の変)と天皇と上皇の関係 794年に都を平安京に遷都した桓武天皇は、806年に崩御し平城天皇が即位するのですが、病のためわずか3年で嵯峨天皇に譲位します。この...

 

https://rekisi-daisuki.com/entry/2015-11-05-123725

 

保元の乱は兄弟間や親子間、叔父や甥・・・と家族や親戚同士が敵味方に分かれて争った戦いです。

この死刑復活で一番最初に刑を執行されたのが崇徳上皇側に就いた平忠正でした。甥の平清盛が斬首する事となります。同じく源義朝も父兄を斬首したのです。

どちらの親子関係・縁戚関係も保元の乱の時点では不仲になっていましたが、流石に刑の執行は忍びなかったことでしょう。義朝は減刑を訴えますが聞き入れられることはありませんでした。

新体制に・・・

大きな戦乱後(政治的な意味で)ですから新体制を整えていくことになります。その体制を整えるために出したのが保元新制(ほうげんのしんせい)と呼ばれる宣旨7か条です。主に荘園の整理と寺社勢力に対する厳しい制限が盛り込まれています。

宣旨には新たな荘園設置には天皇の許可が絶対不可欠であることが示されています。天皇の権威を揺るぎないものにしようとする意図が見えてきますが、今までの荘園をすべて没収する訳にもいきません。白河院鳥羽院の院庁下文を持つ荘園はオッケーという事になりました。再度、記録荘園券契所も設置しており本気度が伺えます。

白河院鳥羽院院庁下文を持つ荘園院近臣の荘園が残ることになり、摂関家の弱体化を意味します。

ここで思い出してほしいのが源氏への荘園の寄進を禁止したこと。11世紀半ばから後半にかけて勃発した後三年合戦前九年合戦を経て、東国での存在感を強くしていた源氏に対して朝廷は荘園の寄進を禁止した出来事です。

平安時代から鎌倉時代への流れ 平安時代がとても長いので、少し表にまとめて流れを書いてみたいと思います。 これを見て流れをつかめたらいいなと思います。 図解...

この寄進の禁止白河院政下で起きています。源氏を抑えるために伊勢平氏を重用する流れも当時ありました。つまり白河院政下で重用されていた平氏の荘園は保元新制でも割と生き残った反面、源氏にとっては不都合が生じただろうとも考えられるのです。

さらに元々の出身が政治の世界じゃなく学者という事で信西は後ろ盾が少ない立場だったと考えられます。地盤をしっかり固めるためにも一族を要職につけることも信西は怠りませんでした。家柄が地位に直結する時代なので元々その要職の地位に就けるはずだった貴族たちの反発も当然免れない事態となってしまいます。

寺社勢力の抵抗が考えられる中、信西はどう寺社に対抗するか?

平安後期の主な軍事力といえば武士寺社の二大勢力寺社を敵に回した以上、信西武士の軍事力を頼ることが最善と考えられます。

武士といえば、平氏または源氏です。源氏保元新制で不利益を被ったと考えられはするものの後白河朝で権勢を誇る信西を敵に回していいはずもなく、義朝信西の息子を娘の婿にしてもらうよう申し入れますが、「学者の息子と武士の家の出だとちょっと・・・」と丁重にお断りされてしまったようです。

それなのに平清盛の娘はしっかりと信西の息子の嫁に迎え入れたため、信西義朝の仲は決定的に悪くなってしまいます。

その理由はインテリの信西と東国出身で荒くれものをまとめてきた義朝が性格的に合わなかったから、なんてことを言う人もいるようです。清盛武士の棟梁ではあるけれど京出身。義朝よりは清盛の方が信西と話が合ったのかもしれませんね。

まとめ

簡単に言うと、保元の乱が終わった後は後白河天皇信西が中心となって

  • 反対勢力の徹底的な排除
  • 摂関家の弱体化
  • 信西の地盤強化のために一族を要職につけるといった事を行っています。

既に既得権益のあった貴族や寺社は面白くありません。反信西派が軍事力を持った義朝を引き入れながらまとまっていくことになるのです。

※画像はキリヌケ成層圏からお借りしました。

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miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。