室町時代

足利義満はどんな人で何をした人??

足利義満と言えば、昭和の時代にアニメ【一休さん】で登場した将軍様のイメージを持っている、世代の方も多い事でしょう。もしかしたら学校の勉強でこのブログにたどり着いた学生諸君は、知らないかもしれません。。。

室町幕府初代将軍・足利尊氏の孫である義満は、50年以上続いた南北朝時代に終止符を打ち、室町幕府最盛期を築き上げた人物です。そこで今回は、足利義満についてわかりやすく書いて行きたいと思います。

 

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2代目・足利義詮の子として生まれる

1358年足利義詮の子として生まれた義満は、同じ年に死去した尊氏と入れ替わる形で誕生しました。

尊氏の死去間もなくと言う事は、初代から2代目の移行期間でもあり幕府の情勢は非常に不安定でした。この幕府の不安定さの原因と言うのが、1350年に起こっていた観応の擾乱で、この戦いで不利になった側が南朝に寝返る事で、幕府にとって戦況が良いとは言えませんでした。

南朝との戦いと、観応の擾乱での内乱で裏切りが多発し、混乱する幕府運営を強いられることになったのが、足利義詮だったのです。

義詮は、苦しい情勢の中で南朝との戦いを終わらせ、室町幕府の安定に全力を注ぎましたが、1367年に志半ばに38歳の若さで亡くなります。

この父の大事業を受け継いだのが、三代目将軍・足利義満となります。

 

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就任当初は管領の補佐を受ける

1368年足利義満の将軍就任は、わずか10歳の事でした。

10歳で将軍の仕事はできないので、父・義詮は管領細川頼之を補佐に置きます。つまり、義満が大人になるまで、室町幕府の実権は細川頼之が握っていました。

義満もとい細川頼之は、まず【南朝との戦争終結】に全力を注ぎます。

そして、1369年に南朝のエースである【楠木正儀(正成の息子)】を幕府側に寝返らせることに成功します。翌年には、南朝の拠点となっていた九州に今川了俊を送り込み攻略を本格化。

同時に幕府の安定化を図ろうと、細川頼之が行動に起こそうとしますが、1379年に反細川派の斯波義将によって失脚させられてしまいます。

頼之をクビにしてくださいと嘆願する斯波義将の願いを、足利義満が了承した事で管領の細川頼之は失脚します。これには、20歳になった義満が自分で幕府を動かすのに頼之が邪魔だったと考えられています。

これを知ってか知らずか、細川頼之は抵抗する事もなく地元の四国へ去って行ったと言います。この出来事を康暦の政変※と呼ばれています。※覚えなくてもいいよ~

 

足利義満主導の政治

細川頼之が追放されると、足利義満主導の政治がスタートするのですが、義満がまず行ったのが幕府の安定化でした。

義満がまず行ったのが、幕府に歯向かう有力一族の力を削ぐ事。

最初の狙いは、幕府創設の功労者である土岐氏。頼康が亡くなると子・康行と満貞の家督争いが勃発します。1390年に義満は、これに介入します。

こうして、康行には美濃と伊勢、満貞には尾張を与える決定が下されました。

しかし、土岐康行がこれに反発し、尾張を実力行使で奪おうとします。

こうなると、義満の思うつぼで攻められた正当防衛と言う大義名分を掲げ土岐満貞に味方し、康行の力を削ぐことに成功します。

1391年には同じ要領で、山名氏の家督争いに介入し、山名氏の力を削ぎ落しました。

こうして強力な有力大名の力を分散し一方を叩くことで、その家全体の力を削ぐことに成功します。

 

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南北朝の合体

長年の南北朝の争いで、さすがの南朝も勢いが落ちてきました。

1392年には、土岐・山名などの有力一族を弱体化して幕府が安定したタイミングで、義満は分裂した南朝と北朝を一つにする交渉を開始します。

足利義満は交渉を見事にまとめ上げ、南北朝合体が達成されました。

有力大名の介入作戦と言い、この交渉から見ると義満は交渉事が非常にうまい人物だったと思われます。

しかし、南朝側は義満が約束を守らないと分かると、切れて再び独自の朝廷を開きます。この朝廷の事を後南朝と呼ばれてます。

 

足利義満の権力掌握

義満は、幕府安定の為に将軍の権力強化も同時進行で進めます。

具体的には、仏教・武家・朝廷の3つにメスを入れました。

仏教宗派は臨済宗推し

義満は、数ある仏教宗派の中で臨済宗を推すことを公言。また、臨済宗の寺院に格付けを始めました。この政策を五山十刹の制と呼ばれています。

格付けランキング一位になったのが相国寺で、義満が建てたお寺でした。

この政策は、義満のすごさのアピールの他に、圧倒的な経済力を背景に逆らう可能性が有った比叡山への牽制もありました。

三管領・四職制度

義満は幕府内でも序列を設けました。

まず、将軍の補佐役に管領に細川・斯波・畠山の3氏に限定しました。この三氏を三管領と言います。

同じく、京都の軍事や裁判を司る【侍所】には、一色・山名・赤松・京極の四氏に限定して、四職(ししき)と呼ばれて居ました。

これらの一族達は、全て源氏の血筋で、京極・赤松を除けば全て清和源氏でした。

この清和源氏の頂点に立つのが、足利義満であるという事をアピールしたのでした。さらに、血筋・家柄に応じて役職を決めてしまう事で、幕府内での争いを事前に防ぐ意図もあったようです。

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足利義満直属部隊【奉公衆】の設置

細川や山名と言った有力守護達は、自立した強い力を持っていたので、将軍の言う事を簡単には聞いてくれませんでした。そこで、義満は将軍直属の部隊を創設します。

これを奉公衆と呼ばれ、彼らは将軍の持っている所領の一部を与えられるほか、いくつかの特権が与えられました。奉公衆とは、鎌倉時代の御恩と奉公に似た関係が築かれ、たびたび義満の助けとなりました。

このように、自前の軍隊を持つことで有力守護達になめられないようにしたのです。

朝廷対策は、自身が太政大臣に…

京都で朝廷と幕府が共存するには、義満は朝廷が持つ京での特権をはく奪する必要がありました。この時に活躍したのが、四職の守護達が就任する侍所でした。

朝廷は、南北朝の動乱で弱体化居しており、京の警備など一部の仕事を侍所に委任していました。侍所は、その弱みに付け込み京の軍事権に加え、裁判権や徴税権までを手中に収めました。

こうなると朝廷は幕府に逆らう事が出来ません。

これで幕府は不穏な動きがあれば、すぐに貴族たちを逮捕でき、裁判が起きても幕府側に結果がゆだねられる。おまけに朝廷は幕府の経済力に依存しているので、朝廷は幕府に逆らえなくなりました。

1394年には義満は、朝廷の中の最高役職【太政大臣】にまで上り詰めます。

 

金閣寺の建設

こうして、朝廷・幕府・仏教にメスを入れた義満は、1395年に足利義持に将軍職を譲り出家します。大御所として、義持の背後で絶大な権力を持ち続けた義満は、京に北山殿と呼ばれる壮大な別荘を建て、そこから政治の実権を握りました。

この北山殿の中に、金箔に塗り固められた豪華絢爛のお寺が【金閣寺】です。まさに、圧倒的な権力・権威を持った足利義満を象徴するような建物でした。

現在の京都に残っている金閣寺は、1950年頃に再建されたものです。

 

日明貿易

権力と権威を手に入れた義満は、最後にを手に入れようと考えます。

そこで、明との貿易権を独占しようと、明からの船が寄港する大宰府を支配する事を画策するのでした。

大宰府は、南朝対策で送り込んでいた九州探題今川了俊が支配していました。長年の九州探題の任で絶大な権力を持っていた事を危険視した義満は、1395年に了俊を解任して、自分の息のかかった人物を九州探題に週にさせます。

これで明と貿易が出来たとしても【独占】する事はできませんでした。この頃、山口県あたりで強大な力を持っていた、大内義弘がすでに朝鮮や明との貿易を独占し始めてい居たのです。

1397年頃に足利義満は、大内義弘を軽んじる行為を繰り返した上で【京に来い!】と義弘に揺さぶりをかけました。

大内義弘は、この挑発に精神攻撃に激しく動揺します。

京都に行っても行かなくても地獄と判断した大内義弘は、1399年応永の乱を起こしますが、義満の奉公衆の前に敗れてしまいます。

これで大内氏が弱体化すると、義満は明との貿易独占を開始します。

1401年に義満は明に使者を送り、1404年には日明貿易が開始されます。

この貿易で義満は自らを日本国王と名乗りっており、太政大臣では飽き足らず天皇座までも狙っていたのではないかと考えられています。

しかし、義満も人の子・権力・権威・富を手にした足利義満は、1408年に51歳でこの世を去りました。

金閣寺=足利義満のイメージがありますが、こうしてみるとたくさんの功績を残し、小学校から高校までの歴史の教科書に載っているだけの事はあります。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。