英雄か逆賊か?足利尊氏の生涯に迫る
足利尊氏と言えば室町幕府の創始者です。南朝が正当とされた戦前の尊氏に対する評価は散々でした。逆にあまりに散々な評価のため逆に見直す人もいたようです。
幕府の創始者でありながら『英雄』だけでなく、『逆賊』として扱われていた時代もある尊氏。今回は、そんな足利尊氏に迫っていきます。
足利氏は幕府のどの立ち位置?
足利氏は清和源氏の流れを汲み、鎌倉時代の初期段階で既に源頼朝の御供の御家人として名前が挙がっています。
鎌倉時代で最も力を持っていた北条氏との縁戚関係を結び良好な関係を続けており、足利氏は鎌倉後期まで序列の高い状態を維持し続けました。また藤原北家の流れを汲む上杉氏とも縁戚関係を度々結んでいます。
ちなみに足利氏の正統な後継者には共通して『義』もしくは『氏』のどちらかの文字が名前に入ります。代々継承される文字で「一族の一員」であることも示しているのですが、中には認められずどちらの文字も入れられない人も。足利尊氏の関係人物にもいるので少しだけ頭の片隅に置いといてください。
とにかく足利氏は鎌倉時代から『武家社会の超名門』として存在していました。
足利尊氏の誕生とその生涯
足利尊氏※は1305年に足利貞氏と上杉清子の次男として誕生しました。
※最初は尊氏でなく高氏と名乗っていましたが分かりやすいように尊氏とします。
長兄は北条氏の娘と貞氏の間の子で身分もしっかりしていたために、この長兄が嫡男として育てられました。一旦この長兄が家督を相続しましたが、1317年に早世(21歳)。父・貞氏がも1331年に亡くなったため、尊氏が跡を継ぎました。
ちなみに足利氏のトップに北条氏と関係の薄い人物を置いたのは尊氏が二度目。尊氏の祖父に当たります。
この尊氏の祖父という人は、尊氏の祖先である源義家(通称:八幡太郎)が残した置き文に「7代の子孫に生まれ変わりて天下を取るべし」と書かれた正にその7代目に当たる人物です。その尊氏の祖父は自分の代ではその悲願を達成できないとして、「3代後に天下を取らせよ」と祈願し願文を残したと言われています。
※そもそも義家の生きている時期は武家が新興勢力としてようやく出てきた時期で源頼朝が鎌倉幕府を開く前ですし、7代後と言わず既に嫡流で4代目の頼朝が天下を取ったわけで矛盾だらけ。『天下を取る』という概念自体がありませんでしたから、怪しい気はしますが…
元弘の乱
同じく1331年、後醍醐天皇を中心とした倒幕計画を幕府が事前に把握して天皇を捉えますが逃げられてしまいます。脱走した天皇は倒幕のため楠木正成と呼応して京へします。
一方で尊氏は、新田義貞らと共に討伐軍として鎮圧に乗り出します。この戦いで後醍醐天皇は再び捕縛され隠岐の島へ配流されて落ち着いたかに見えたのですが、一度目の戦闘後に潜伏していた後醍醐天皇方として挙兵した後醍醐天皇の皇子・護良親王や楠木正成が再挙兵。
1333年に楠木正成が僅かな手勢で幕府軍を翻弄している様が全国に伝わり、鎌倉幕府の威光が地に落ちたことで全国各地に倒幕の機運が広がっていきました。
楠木正成の活躍を知った後醍醐天皇は再脱出し、倒幕の綸旨(天皇による文書のようなもの)を出しました。この倒幕の綸旨は御恩ー奉公による主従関係への不満が元寇をきっかけに高まっていた御家人たちに刺さり、イイ感じで効果が発揮されます。
尊氏は再度幕府方として反乱を抑えに行きますが、北条氏一門の名越高家が討ち取られたのを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受け倒幕を決意します。尊氏はその足で六波羅探題(幕府の京都出先機関で朝廷を監視)を攻め滅ぼす活躍を見せ、同時期に新田義貞らが鎌倉を制圧し鎌倉幕府が滅亡します。
好敵手・新田義貞との戦い…
倒幕で大功があった足利高氏は、従四位下と30か所の領国を与えられ、後醍醐天皇から【尊】の字を賜り足利尊氏と名乗りました。後醍醐天皇による【建武の新政】では、尊氏自らは参加せずのちの室町幕府執事・高師直兄弟を送り込んでいます。
1333年に、倒幕の恩賞に不満を持っていた後醍醐天皇の皇子・護良皇子は尊氏と後醍醐天皇に対し敵視するようになり、鎌倉を治めていた尊氏の弟・直義が天皇の命で皇子を幽閉していました。
しかし、1335年に北条氏の残党が中先代の乱が起き、一時は鎌倉を占拠する事態となり、脱出をする際に足利直義は独断で護良皇子を殺害してしまいます。反乱軍鎮圧のために、尊氏は兵を率いて義直と合流し相模川の戦いで勝利し鎌倉の鎮圧に成功します。
鎌倉を回復した尊氏は、弟の意向もあり鎌倉に滞在し、建武の新政で苦しんでいた御家人たちに独自の恩賞を与えその心をつかみ、武家政権樹立の動きを見せ始めました。兵力を整えた尊氏は、兼ねてから敵対してた新田義貞の討伐を後醍醐天皇に申し入れますが、逆に足利尊氏討伐を天皇が新田義貞に対して命じました。
新田義貞軍と畠山氏の南下に尊氏は、赦免を求め寺に引きこもり断髪をしますが、天皇の下へ送り込んでいた足利方の高師直がピンチとなると、彼らを救うため天皇に反旗を翻す決意をします。
足利尊氏は竹ノ下の戦いで新田軍を破ると、京都へ進軍を始めました。
それと同時に、光厳上皇を擁するために連絡を取り合い、争いの大義名分を得る工作を行いました。1336年に上洛を果たし後醍醐天皇は比叡山へ兵を引きましたが、畠山氏と楠木正成・新田義貞軍の攻勢に合い、京都を放棄し九州へ下りました。
延元の乱
九州で天皇方の勢力を次々と破り勢力の立て直しに成功した尊氏は、1336年に京へ向かう途中に光厳上皇の院宣を賜り、西国の武士たちを集め京都へ侵攻を開始しました。5月25日には湊川の戦いで新田義貞・楠木正成を破り、6月には京都の制圧に成功します。
京都を制圧した尊氏は、比叡山の後醍醐天皇を立てる形で和議の申し入れを行い、和議に応じた後醍醐天皇は、光厳上皇の弟・光明天皇に神器を譲り、11月7日に新たな武家政権の方針を示した建武式目を定め、この時をもって室町幕府が発足したとされています。
一方、京から吉野に逃れた後醍醐天皇は、光明天皇に譲った神器は偽物で自分が持っているのが本物とし、吉野の地で独自の朝廷【南朝】を作りました。
以降、南北朝時代が3代将軍・義満の代まで続くことになります。
観応の擾乱
1338年に尊氏は、光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実と共に成立します。その翌年、後醍醐天皇が崩御しますが、南北朝の戦いは続きます。
戦いは、基本的に幕府側が有利に戦いを進め、新田義貞・楠木正成・北畠顕家などの南朝の有力武将が次々に戦死し、南朝方より離反者も続出します。1348年には、高師直が吉野を攻め落とすなどの戦果をあげました。
室町幕府の体制は、尊氏が軍事権と恩賞権を握り将軍として君臨し、実際の幕府の政務は弟・直義に任せることにしました。この権力の二元化が後に内部対立を起こすことになり、高師直の反義直派と直義派の対立が生まれます。
この対立は、観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展し、尊氏は中立を保っていましたが、高師直のクーデターにより直義が政務の一線から退くと京都に後の二代将軍・義詮を呼び政務を行わせました。
一説によると、この直義引退劇は、高師直と尊氏の意図的な茶番だったと言われています。
動乱の泥沼化
幕府の一線から退いた足利直義は、南朝に降伏し直義派の武将たちも取り込み勢力を拡大し再び京都を制圧し義詮を追放。尊氏は、高師直兄弟を出家させる条件で和睦を申し入れ、直義は義詮の補佐役として政務に復帰します。
高師直一族は、足利尊氏に見捨てられる形で護送中に上杉能憲に殺害されています。
結果、政務に復帰した足利直義が勝利し、尊氏・義詮らは敗者になるのですが、幕府内の権威は大きく失墜するどころか、尊氏はこれらの戦いが無かったかのようなふるまいをしていたそうです。これらの争いはあくまでも、高師直と足利直義の争いだと思うような節があったようです。
足利直義は、1352年に急死しましたが、その死因は尊氏による毒殺とも言われています。直義死後、尊氏は病気がちになり幕府の運営は義詮を中心におこなわれるようになりました。
そして、1358年4月30日に合戦で受けた傷が原因で京都で死去、享年54歳でした。
足利尊氏の評価
江戸時代、水戸光圀が創設した水戸学によると皇統の正統性を重視しており、そのため正統な天皇である後醍醐天皇を追放した尊氏は逆賊として書かれていました。その後の幕末期には、尊王攘夷論者によって尊氏・義詮・義満の像が壊される事件が発生しています。
また、1934年(昭和9年)に商工大臣だった中島久万吉男爵が、足利尊氏を再評価したことにより、野党から批判材料にされ辞任にまで追い込まれています。
これらが、尊氏逆賊説です。
しかし、南北朝時代の歴史書の評価には『戦場での勇猛さ』『敵方への寛容さ』『部下への気前の良さ』という3つの徳があると書かれています。
傘下の武将たちへの恩賞を惜しまなかった事で苦境に立たされても武将たちの支持が得られたのだと思います。観応の擾乱後でも尊氏の権威が失墜しなかったのもこのためだとされています。
また、あれほど敵対していた後醍醐天皇に刺ささなかった寛容さと、新田義貞と楠木正成を撃破した戦上手との評価もあります。しかし、内部抗争の処理の失敗や政務を直義に任せていたことから、戦は上手いが政治的センスがまるでないと言われています。
戦国時代に生まれていれば、上杉謙信や武田信玄よりも器量は上で織田信長と対抗できる武将になっていたであろうとも言われています。