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浅井長政に裏切られた金ヶ崎の戦いと金ヶ崎の退き口で家康はどうした!?

歴ブロ
金ヶ崎城跡 Wikipediaより出典

1570年、越前国金ヶ崎で織田信長・徳川家康率いる連合軍が、朝倉義景軍と対峙した戦いを金ヶ崎の戦いと呼ばれています。この戦いでは、約3万の織田・徳川連合軍に対して朝倉軍4500と連合軍が優勢でしたが、信長の義弟・浅井長政の裏切りにより、形成が逆転します。

越前・朝倉と北近江・浅井の挟み撃ちになった織田信長は撤退を決断。

この危機的な状況からの織田信長の退却劇は、後の天下人である秀吉・家康も参加していた事から、彼らを扱ったお話では扱われる事が多い出来事です。

後世ではこの退却劇を金ヶ崎の退き口金ヶ崎崩れと呼んでいます。

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金ヶ崎の戦いの背景

北近江で浅井長政が勢力を拡大していた頃、織田信長は美濃国の斎藤氏の攻略に手をこまねいていました。そこで信長は浅井長政と協力する事で、斎藤氏を北近江と尾張で挟み撃ちできると考えた信長は、1567年に浅井長政と同盟を提案します。

同盟の証として、織田信長は妹・お市を長政に嫁がせ、朝倉氏を攻めないと言う条件も付けくわえて、浅井氏と織田氏との同盟が成立しました。結果、この同盟のおかげで斎藤氏攻略に成功しました。

この勢いに乗じて信長は、天下布武を掲げ更なる勢力拡大に乗り出します。

そして、足利義昭を擁立して上洛。

そこで信長は諸大名にも新しい将軍の下に上洛を要求しますが、越前国の朝倉義景はこれを拒否。この態度に信長は、浅井長政との約束を破る形で朝倉討伐に乗り出すのでした。

織田・徳川連合軍が朝倉領・金ヶ崎城に攻めると知らせを受けた浅井長政は、織田信長か朝倉義景に味方をするかの選択に迫られていました。悩んだ末に長政は朝倉義景に味方する事を決意しました。

これが、2023年4月2日の『どうする家康』の長政とお市のシーンにあった「私は朝倉に味方する事にする」だったのでしょう。

金ヶ崎の戦いの戦況

戦いの前に信長は、毛利元就に『若狭の武田氏家臣・武藤を攻めるよ』と戦の正当性をつづった書状を送っている事から、大義名分は若狭攻めだったと言われています。

若狭攻めを口実に越前・朝倉を攻めようと思っていた信長は、約3万の大軍を率いて京都を出発したと思われます。様々な説がありますが、若狭国の武田氏内でも朝倉派と義昭派が存在してたらしく、朝倉義景が朝倉派を支援した結果、信長が越前へ侵攻したと言う見方もあるようです。

4月23日に若狭の国吉城に入った信長は、すぐに武田家臣・武藤氏が治める佐分利郷へ侵攻します。25日には朝倉方の東の手筒山城に兵を差し向けます。

敦賀湾から望む手筒山 Wikipediaより出典
敦賀湾から望む手筒山 Wikipediaより出典

信長公記では、信長軍の猛攻で討ち取った敵が1370との事なので、織田軍にもそれなりの被害を出し激しい戦いだったと想像できます。

とは言うものの、3万の大軍には勝てずその日のうちに手筒山城は落城しました。

その勢いのまま織田軍は、敦賀湾に突き出した標高86mの丘にある城・金ヶ崎城の攻略に乗り出します。金ヶ崎城を守って居たのが、朝倉一門・景恒でしたが、義景との折り合いが悪く、一乗谷からの援軍が遅れたことで翌日には影恒は降伏します。

手筒山、金ヶ崎城が落城したのを受け、南方にあった支城の疋壇城もあっけなく開城しました。こうして、信長はわずか2日で敦賀郡を占領にしたのです。

敦賀一帯を制した信長は、朝倉氏の本拠地一乗谷へと兵を進めていきます。

しかし、敦賀と南越前を結ぶ木ノ芽峠に差し掛かったところで知らせが届きます。

それが先述した義弟・浅井長政謀反の知らせでした…

浅井長政は、信長の妹・お市を妻に迎えている一方で、大名として独立する際に朝倉氏の援助を受けおり、家中は織田派と朝倉派で分かれていた言います。長政の真意はハッキリしませんが、信長との同盟の際、朝倉氏の事は前もって相談すると言う約束を破った事が原因ではないかと考えられています。

浅井長政の裏切りを知った信長は、このままでは朝倉軍と浅井軍の挟み撃ちにあうことを悟り、撤退することを決めます。木下秀吉・明智光秀らを殿に命じ、金ヶ崎城を守らせ自らは若狭方面から京へと退却を目指しました。

殿を決める際に秀吉が自ら志願したと言うのが様々なメディアで描かれますが、当時の秀吉の立場を考えると、光秀らを筆頭に秀吉にも殿を命じたと言うのが事実なようです。

金ヶ崎の退き口【撤退戦】

織田信長はよほど焦っていたのか、共に越前国を攻めていた徳川家康に連絡もせずに撤退したとも言われており、家康自身も何が起きたのかわからないまま、自身も撤退に向けて行動をしたようです。

太閤記では殿は木下勢のみで行われた事が記述されていますが、国吉城には複数の軍団がいたのは間違いないようです。

織田信長は、わずかの兵を連れ丹後街道を南下し、朽木街道を進みます。

この時のキーマンが周辺を支配していた朽木元綱。元綱は織田信長に対しては中立の立場を取っていましたが、将軍の味方ではあるが浅井氏ともつながりがある人物でした。

朝倉記では元綱は織田信長を討ち取るつもりでいたと記されています。

ここで活躍したのが、裏で外交面で活躍していた松永久秀。久秀の必死の説得により元綱は街道通過を快諾し、手厚くもてなしたとされています。

元綱の身の振り方次第では、その後の織田信長の活躍が見られなかったかもしれません。

こうして、迅速な決断と行動により、朝倉・浅井連合軍の進撃よりも早く撤退に成功する事ができ、信長は4月28日には京都へと退却する事が出来たそうです。

一方で、国吉城で殿軍の命を受けた木下秀吉・明智光秀・池田勝正と徳川家康※は、信長を退却させるための戦いを開始。敵の追撃を一手に引き受ける殿軍は、特定の部隊が戦場を離れるまで続くことから、孤軍奮闘が続き命がけの戦いでした。

浅井・朝倉の連合軍が激しく追撃する中で、秀吉らは鉄砲隊や弓部隊をなどをうまく使い敵軍を寄せ付けることなく撤退を遂行。かなりの激戦であったようですが、連携がうまく取れていた事や朝倉方の連携が上手く取れていなかった事から追撃が鈍化し、主な家臣達の戦死者を出すことなく退却に成功しました。

殿軍部隊は、5月6日には京都に到着し、9日には本拠地・岐阜に戻り朝倉・浅井に再戦を仕掛けるために体制を立て直します。岐阜への帰還中に信長が杉谷善住坊に狙撃される事件が起こるりかすり傷を負ったが、無事に岐阜へ帰還しました。

その2か月後に、体制を立て直した織田信長は徳川家康と共に再度、朝倉・浅井軍を攻め、1573年の姉川の戦いを経て両家は滅亡しています。この時の小谷城の戦いで、お市とその娘たちの物語があるのですが、これはまた違う記事で書きましょう。

金ヶ崎で見事に殿軍を勤め上げた秀吉と光秀は、これを機に織田家中で重用され頭角を現していきます。そして、光秀は坂本城主に秀吉は長浜城主にまで出世していきます。

金ヶ崎の退き口での徳川家康の行動

家康の前に、金ヶ崎の退き口を語るうえで外せないのが、お市が信長に袋の両端を縛った【小豆の袋】を陣中見舞いに送り挟み撃ちの危機を伝えたという逸話が各メディアで描写されますが、これは後世の創作と考えられています。

最後に、金ヶ崎の戦いでの徳川家康の行動ですが、国吉城のあった地元の史料『国吉籠城記』と呼ばれる諸本に「織田軍が国吉城に入った際に徳川家康が従軍している」と記載があるようです。

国吉城で秀吉と碁を興じたなどの伝承もある事から、この戦いで徳川家康は信長と一緒に戦った事は事実のようです。しかし、上記で※にしたように殿軍については、江戸時代に記された『三河物語』などの二次史料にしか記載されておらず、同時代の史料である一次史料に出てきません

こうした事から、この戦い時代に従軍しなかった可能性もあるのですが、国吉城の地元・美浜町内に伝承が多く、従軍してなかったとも言い切れないのが事実です。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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