三好長慶に信頼され出世した松永久秀の壮絶な生涯
松永久秀は、三好長慶に仕え三好政権下で頭角を現し活躍しました。
久秀は、室町幕府13代将軍・足利義輝との幕府の調整役として従事し、三好家内で嫡男と同等の扱いを受ける程の地位を得ていました。三好長慶の死後は、三好三人衆と離れてはくっつきを繰り返し機内の混乱の中心にいました。
織田信長の時代になると、臣従して家臣となりますが、反逆して敗れ信貴山城で茶器の平蜘蛛と共に爆死すると言う壮絶な最後を遂げています。
茶人としても有名で、平蜘蛛以外にもたくさんの茶器を所持していたとされています。
松永久秀の誕生
松永久秀の生まれはハッキリとしていませんが、1508年に生まれ【阿波・山城・摂津国】のいずれかに生まれたと言う説があります。
身分もそれほど高くないとされていましたが、最近の研究では、摂津国の土豪の出身ではないかと言われています。
名門・三好家に仕え頭角を現した松永久秀
松永久秀が1534年の25歳の時に、山城国の守護代の三好氏に仕えていました。
身分の低いと言われた松永久秀が名家・三好氏に仕えるのは異例であり、それほど久秀は能力の高い人物だったと言う事が分かります。
その三好家では、当主・三好長慶の下で、秘書のような業務をこなし事務方の仕事を一手に引き受けていたようです。その働きが長慶に認められ武将として戦にも参戦するようになり、一個部隊も任されるようになりました。
1549年に三好長慶が管領・細川晴元と将軍・足利義輝を近江から追放すると、公家や寺社と三好氏との仲介役を松永久秀が行うようになりました。本願寺証如から贈り物を受けている事から寺社との太いパイプが作られていたようです。
その後、三好長慶が細川氏綱を管領として担ぎ上げ上洛したときに久秀は、三好家の家宰に任命され、当主長慶の代わりに三好家を取り仕切る役になりました。同時に、三好長慶の娘を娶り、家内でも最も重要な地位に付きました。
1558年に、足利義輝と細川晴元が上洛しようと三好長慶らと衝突します。
激しい戦いの末、両者は和解することになり足利義輝は京都に戻ることになりました。
将軍が京都へ戻ったのち、河内国と大和国へ遠征に向かい、当時戦国大名より力を持っていた寺社勢力との戦いに勝利し信貴山城へと移ります。寺社との太いパイプを作っていた経験が大和国統治に役に立った事でしょう。
これまでの久秀のイメージでは、大和侵攻も【絶対的な支配の挙句、酒池肉林を楽しんだ】と言うでしたが、実際はそうではありませんでした。当時からの大和の一部を支配していた筒井氏が圧迫していた春日社を復興し、国人衆が参拝を遂げています。
松永久秀と言う人物は、大和国にとっては侵略者と言うより、救世主だったとも言えます。
だからこそ、戦乱に荒れ果てた大和国を救う久秀についていこうと、古くから大和国を支配していた筒井氏から久秀に付き従った柳生石舟斎のような国人衆がいたのかもしれません。
長慶と細川晴元が和睦し、久秀が功績を上げていった事で足利義輝の御供衆に抜擢されることになりました。この頃から、将軍・義輝に出仕することが多くなりました。
三好長慶からの信頼も厚く、三好家と将軍家の仲介役として重要な役割を果たすようになりました。要するに、松永久秀も天下を左右する存在まで成り上がった瞬間と言えましょう。
築城のセンスもピカ一だった松永久秀
1560年に大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を支配拠点として選び、リフォームし4階建ての天守を築きました。天守=安土城のイメージがありますが、城に天守を作るパイオニアは松永久秀でした。
また、1562年には政治目的で多聞山城も築城しており、信貴山城は軍事目的と言った用途別に城を使い分けていいました。両城の間は20キロほどでそれぞれの連絡道も確保されていました。
当時の先端を行った多聞山城
多聞とは毘沙門天の事で信仰心のあらわれとされています。
毘沙門天とは北の守護神であることから、奈良の北側に多聞山城がありました。
この多聞山城は、大和の民衆のみならず色々な要人たちも驚いたと言います。
白壁に黒い瓦のモノトーンデザインでヨーロッパの城のような高層建築であったとされています。杉の木をふんだんに使い、その香りで訪問者を楽しませることを忘れず、庭園と樹木も綺麗に管理されており目の保養になるものでした。
【日本史】の著者・ルイス・フロイスも【日本で一番素晴らしく美しい城】と記していました。
後に織田信長が築城する【安土城】も多聞山城にインスピレーションを受けて建築されたのは間違いありません。
三好長慶の死以降は梟雄らしい人生に…
こうして三好家と将軍家に大きな影響力を得た松永久秀ですが、三好家に大きな事件が訪れます。三好長慶が寵愛していた嫡男と信頼の厚い弟達が相次いで亡くなり、失意のどん底に落ちていきました。※一説では久秀が暗殺したとも言われています。
この件で、長慶も亡くなり三好義継が家を継ぎました。
今後、三好政権は松永久秀と三好三人衆(岩成友通・三好政康・三好長逸)が支えていくことになりました。
しかし、彼らはとんでもない暴挙に出たのでした…
松永久秀の蛮行、将軍の暗殺・永禄の変
三好長慶の死後、チャンスと見た将軍・義輝は親政を敷こうとしましたが、三好政権を維持しようとした三好義継と三好三人衆と松永久秀の嫡子・久通が1万の軍勢で将軍御所を襲撃しました。
松永久秀の将軍殺し説として有名な出来事ですが、久秀本人は大和国におり参加していませんが、首謀者と言われています。息子である久通が参加していることから、知らぬ存ぜぬではいかないと思います。
将軍・義輝を暗殺した三好一派は、足利義英栄を14代将軍として擁立します。
この時、15代将軍になる義昭の命までは奪わないと言う誓約書を久秀は出しています。
義栄を将軍に担ぎ上げた三好三人衆ですが、機内主導権を巡り松永久秀と対立することになります。1565年には、阿波国の三好一門衆達も三人衆達に呼応し、久秀は三好家内で孤立することになります。
1566年には、畠山氏と根来衆らと連携し三好義継の居城を攻めますが、大和国の筒井順慶の増援により堺で上芝の戦いとなりました。多聞山城で体制を整え反撃をしますが、三好三人衆の前に為す術もなく松永久秀は、数か月間行方をくらまします。
松永久秀を三好家から追い出すことに成功した三好三人衆は、当主・義継を差し置いて家内で権力を持つようになりました。この三人衆の対応に不満を持った義継は、久秀を探し出し頼ってきました。
義継は、仮にも三好家当主ですから、彼を保護した久秀は大義名分を得て信貴山城へと帰還を果たしました。裏切りの人生のイメージが強い久秀ですが、この行動を見ると三好家当主に対しては忠義のある人物だったと感じられます。
これが私の認識していた将軍暗殺からの流れですが、最近では主犯の一人とされる松永久秀は、永禄の変当日は京都ではなく大和にいたようで、足利義昭の書状からすると、久秀個人としては将軍家に対して手荒なことをするつもりはなかったようです。
そのため完全に冤罪で、大河ドラマ【麒麟がくる】でも【息子たちはなんてことをしてくれた…】みたいな描写がありましたね。
前代未聞の東大寺大仏殿の焼き討ち
当主・義継を保護し、三好家再興を図る松永久秀ですが、三好三人衆達との戦いは終始劣勢でした。
1567年には、久秀たちのいる大和国へ三好三人衆が攻め込んできました。
この時、戦場は東大寺付近で行われました。
この戦いで、久秀は敵方へ奇襲をかけた際に、大仏殿に火が付き焼け落ちてしまいました。これが、東大寺大仏殿の焼き討ちですが、実際には久秀が故意で火を放ったのではなく、誰が放ったのかが不明なのが真実だそうです。
この戦いで、久秀は辛くの勝利を治めますが、阿波国の三好などの勢力もある三好三人衆達が優勢を保っていました。争いの中久秀は、拠点の信貴山城を失い、その支城である多聞山城に立て籠もりました。
多聞山城に立て籠もり、松永久秀はある人物とやり取りをしていました。
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織田信長との出会い
その人物は、尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長でした。
この時、織田信長は足利義昭を保護しており、1568年、義昭を奉じて上洛しました。もちろん信長の狙いは、義昭を将軍につけて自分が権力を握ることでした。
織田信長の器量をいち早く見抜いていた久秀は、三好義継と共に臣従します。この時、手土産に名器とされる茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を信長に献上しました。
茶の湯に凝っていた信長にとっては、この上ない手土産だった事でしょう。
その後、信長が三好三人衆を機内から追い出し、将軍・義栄の急死も相まって足利義昭が15代将軍となりました。また、久秀は大和国を平定しその支配権を認められました。
こうして、松永久秀は名目上は幕臣となりますが、実際は織田家の臣下として活躍していきます。
織田家での活躍と信長包囲網
織田家でも久秀は、活躍をします。
信長が越前の朝倉を攻めた際のピンチには、退却の安全確保のため地方の豪族を説得して回りました。また、三好三人衆との間に入り調停役となり和睦をまとめています。
順風満帆な活躍をしていた久秀ですが、徐々に不穏な動きを見せます。
信長は本願寺攻めを始めた頃、足利義昭との仲が悪くなっていました。
そこで義昭は、信長を滅ぼそうと各地の大名に働きかけ「信長包囲網」を形成しました。これに応じたのが、甲斐国・武田信玄でした。この時、久秀は信玄と秘密裏にやり取りをしていたそうです。
そして、1572年に久秀は三好義継と三人衆と共に信長に反旗を翻しました。
東には武田信玄が上洛して、織田信長の最大のピンチでしたが、1578年に武田信玄が亡くなってしまい、信長包囲網が解散してしまいます。
それに加えて、足利義昭は信長に追放され、戦いの最中三好義継も戦死してしまいます。頼りの三人衆も信長に敗れ、多聞山城を包囲された久秀は、やむなく降伏を選びました。
降伏し、処刑されると思いきや信長は久秀を大和国の一領主に落としたものの許しました。
信長の性格からして、この行動には疑問が残りますが以外にも松永久秀の利用価値を冷静に考えたのかもしれませんね。残りの大和国の支配権は織田家に移り、その後釜に仲の悪い筒井順慶が支配するようになります。
宿敵・筒井順慶が大和国の支配者になった事に不満を抱いたかどうか分かりませんが、1577年に信長が石山本願寺を攻めると突如として久秀は居城の信貴山城に立てこもってしまいました。
これには、新たな反信長勢力の上杉謙信や毛利輝元、石山本願寺が加わりこれに呼応したと考えられますが、真相ははっきりしていません。
裏切られた信長ですら、久秀の行為に戸惑い使者を派遣して理由を尋ねる始末でした。
【何かあるなら言ってくれれば対応する】と言うような感じの書面だったようですが、久秀は使者にも合わず追い出しているそうです。
1度ならず2度の裏切りに信長も堪忍袋の緒が切れて、息子の信忠を総大将とした4万の大群で信貴山城を包囲しました。
茶器・平蜘蛛と共に信貴山城に散る
信貴山城を信長軍4万が包囲し、久秀軍はわずか八千でしたが、城は簡単に落ちず大軍を擁してもかなりの時間を費やしました。
しかし、内通者のによって城に火の手が上がりました。
ここで信長は、最後の交渉として久秀所有の名茶器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を差し出したら許してやると持ち掛けます。
茶器が欲しいのか、久秀が欲しいのか分かりませんが、久秀の答えはNOでした。
【我々の首と平蜘蛛は信長公にお目にかけぬ。鉄砲で粉々に…】と言うなり、平蜘蛛をたたき割り、天守に火をつけ自害しました。平蜘蛛に火薬を詰め爆死ししたとされていますが、この逸話は後世の創作だと言う事です。
麒麟が来るでは、大和守護の後釜に筒井順慶がなった事に納得がいかなかった松永久秀が、本願寺に呼応して裏切るとされていましたね。平蜘蛛の茶器も明智光秀に託していました。
これまで、ゲームでも小説などで松永久秀は、信長を裏切り、主家の三好家を乗っ取った稀代の悪党のイメージですが、本当の歴史では三好家に対して保護し忠節を尽くしています。
三好家では家宰として力を持っていましたが、長慶の死後も主家乗っ取ろうとはせず、義継を補佐し続けていました。
後世の記録とは、時の権力者次第で良くも悪くもなります。
織田信長に2度も反逆した松永久秀は、梟雄として後世に名を残すことになったのかもしれませんね。