麒麟がくる

永禄の変で散った、剣豪将軍・足利義輝

歴ブロ

足利義輝は、室町幕府13代将軍として1546年~1565年まで務めましたが、最後は松永久秀と三好三人衆によって殺害されてしまいました。

 

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2020年のNHK大河ドラマ【麒麟がくる】にも登場し、向井理が演じることになっています。吉田鋼太郎の松永久秀と向井理の足利義輝の永禄の変では、どのようなやり取りが繰り広げられるか今から楽しみであります。

 

1467年から11年続いた応仁の乱は終わりを告げましたが、争いをまとめる事が出来なかった将軍の権威は失墜し、終わってみれば幕府の役職・管領や有力な大名が力をつけるようになりました。

足利義輝の父・義晴も将軍の権威向上に尽力し戦いに明け暮れた結果、13代将軍になった義輝がそのツケを払う事になりました。

前置きが長くなりましたが、今回は13代将軍・足利義輝の生涯について書いていきたいと思います。

 

https://rekisi-daisuki.com/entry/2016-11-09-205430

 

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足利義輝の誕生と将軍就任

 

1536年に12代将軍・足利義晴の嫡男として生まれた義輝は、9代将軍義尚以来の直系の男子でした。

この頃の将軍家は、管領家の細川氏と権力争いをしていましたが、戦に敗れ京都を追われていました。1546年には、わずか11歳にして義輝は、義晴より将軍職を譲られました。

1548年に、足利義晴細川晴元は和睦をし、将軍・義輝と共に京都の地へ戻りました。

 

しかし、細川晴元の家臣である三好長慶の関係が悪化し、争いが起きると晴元に従っていた義輝親子は再び京を追われることになります。これが原因で、父・義晴が近江の地で亡くなってしまいます。

この時、義輝は15歳で三好家と戦おうと決意しますが、1552年三好長慶と不平等な和睦を結ばされ、長慶が推す細川氏綱が管領となりました。以降、足利義輝は近江の六角氏を頼りに三好長慶と戦っては和睦を繰り返していきました。

 

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師匠・塚原卜伝も認める剣豪将軍に…

 

父・義晴の代からの災難続きに、義輝は自分自身を鍛えるために武芸に励みました。

歴代の室町将軍の中で剣豪と呼び名が高く、剣の師匠であった塚原卜伝もその実力を認めた腕前でした。一説には、剣聖・上泉信綱にも剣を教わったとも言われています。

 

1558年に義輝に転機が訪れます。

近江の六角義賢の仲介で三好長慶との本格的な和睦が成立しました。

これにより、5年ぶりに京都へ戻り御所での直接的な幕府政治を再開しました。しかし、三好家の権勢が弱まったわけではないので、義輝は牽制のため三好長慶と松永久秀を将軍の御供衆として幕府に残しました。

 

織田信長の謁見

 

1559年に尾張の平定を成し遂げた織田信長は、その支配を認めてもらうために将軍・足利義輝に謁見するために上洛をしました。

これが足利義輝と織田信長が直接会った最初の出来事となります。

 

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この謁見で信長は、室町幕府への忠節を誓い多くの金品を献上したと思われ、その見返りとして尾張を支配する許しを得て、大義名分とし帰国後、尾張統一の総仕上げを行おうとしたと考えられています。

しかし、本音では将軍への忠誠を誓うものではなく、当時の京都の状況を確認するためだったともされています。実際に、1560年桶狭間の戦い後に信長は、上洛の道を探るために美濃の攻略に着手しています。

 

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三好長慶の死と松永久秀の思惑

 

三好家の勢力はまだ強いものの、ひとまず京都に落ち着いた義輝は、後回しになっていた正室を迎えることにしました。この時23歳で、当時では晩婚だったそうです。

正室に迎えたのが近衛家からの姫で、これにより朝廷とのパイプを強くすることに成功しました。

 

1564年に足利義輝にチャンスが巡って来ます。

事実上の天下人となっていた三好家を支えていた弟達や嫡男までもが次々に亡くなってしまいます。この出来事にショックを受けた長慶は、そのままなくなってしまいます。

三好長慶の傀儡になって6年目の事でした。

 

義輝の喜びもつかの間で、三好家には優秀な家臣たちが残っていました。

それが、松永久秀と三好三人衆でした。

 

義輝が親政を行おうとしていましたが、久秀と三好三人衆にとってはまだまだピエロのままでいてもらわなくてはいけません。もし、将軍・義輝がピエロになる意思が無ければ、力ずくで排除を考えなければいけませんでした。

 

足利義輝の最後(永禄の変)

 

足利義輝が傀儡将軍になってくれないと解ると松永久秀と三好三人衆は、1565年6月17日に義輝の御所に1万もの軍勢で取り囲みました。

この永禄の変は、松永久秀が首謀者の一人として有名ですが、厳密には息子の松永久通が首謀し実行しています。久秀はこの時、大和国の自身の領地にいたようですが、何らかの事情は把握していたのは間違いはないでしょう。

 

御所の異変に気が付いた足利義輝ですが、自分の側近はわずか30名程度でとても1万の兵に対抗できるはずがありませんでした。しかし、義輝らもただではやられるわけにはいきませんでした。

 

側近たちと義輝は、互いに別れを盃を交わし討って出ました。

ある側近は、1人で数十人も討ち取るほどの奮闘したとも言われており、義輝も自ら武器を持ち応戦しました。塚原卜伝に師事し、奥義まで伝授された義輝は、その腕前を人生の最後に振るう事になりました。

 

義輝は伝来の名刀を畳に刺し予備を用意し、敵を斬って刀が使い物にならなくなると新しい刀に取り換えを繰り返し敵を斬り続けたと言います。

あまりの剣豪ぶりに松永軍も討ち取ることができませんでした。

そこで、畳をもって四方から押し倒して、止めを刺したと言われています。

 

13代室町将軍・足利義輝…享年30歳の事でした。

 

この時、同じ御所にいた実母・慶寿院も自害しています。そして、彼の子を身ごもっていた側室も殺されたそうです。三好・松永らは容赦なく、義輝の関係者を殺害し唯一残されたのが、後の15代将軍・義昭だったのです。

 

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足利義輝の辞世の句は…

五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで

(しとしとと降り続く五月雨は、ただの雨なのか、それとも無念の思いを残して死にゆく私の涙だろうか。ホトトギスよ、誇りを捨てずに戦い死んでいった私の名前を、どうか雲の上にまで届けてくれ)

 

父・義晴と共に足利将軍家の権威を取り戻そうとした足利義輝の願いは、三好・松永らの襲撃によりかないませんでした。その後の将軍家は、14代目・15代目と続きますが、その権威は戻ることなく室町幕府は滅亡へと向かっていきます。

将軍を襲撃した三好・松永両氏も下剋上で荒れた戦国の世に飲まれ、滅亡していきます。

 

2020年の大河ドラマでは、どのような足利義輝を向井理が演じてくれるのでしょうか?

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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