戦国時代の内閣官房参与【御伽衆】とは一体どんな人たちなのか??
現在の内閣には【内閣官房参与※】と言う役職があります。※以下参与
メンバーも、元大物秘書や元外交官、その道に精通した教授などが名を連ねます。
参与の仕事は政党や官庁に属さず、自らの経験や見識から直接、総理大臣にアドバイスを送るのが役目。総理の立場からすると、政治家や官僚たちは、何かしらの忖度や影響下にあるから心から信頼はできません。
しかし、参与は直属のブレーンだから腹を割って話ができると言うわけです。
こうした参与的な役職は、戦国時にも【御伽衆(おとぎ衆)】と呼ばれる人が存在しました。
君主の暇つぶしでおとぎ話でもしてくれるのだろうか?と思うような名前ですが、彼らは政治顧問でもあり、話し相手でもあり時には政策提言も行いました。
御伽衆の前身は室町幕府の【御相伴衆(御しょうばん衆)】
前身は室町幕府内の【御相伴衆】と言う名で登場します。
将軍の側近で、話し相手だけではなく、将軍と一緒に会合やイベントごとに参加した名誉ある役職でした。そのため、相当な家格が必要で【管領】を務める一族や有力守護大名しか就任できませんでした。
御相伴衆は武家社会で非常に高い身分に位置し、管領の次の席次が与えられました。
設定当初の御相伴衆には、細川や畠山氏の庶流や四職家の赤松・山名・京極・一色の6家しか任じられていません。そのため、彼らは一様に強力な発言力や軍事力を有していました。
つまり当時の御相伴衆は、過去に名をはせたベテランよりは、栄典を受けた現役の大名が務める名誉職でした。
この記事で管領と四職に少し就いて触れています。
応仁の乱後の将軍権威の失墜により御相伴衆の地位も低下していきます。
それでも名誉ある職として、守護大名の武田信虎・大友宗麟・今川氏真や北条氏康や毛利元就・隆元親子など地方を代表する有力大名が就任できませんでした。
この頃になると、幕府関係なしに各大名家が領国経営をしていたので、大名自らが自ら人材を雇い御相伴衆を用いていました。基本的には相談役のような役回りが多く、隠居した元重臣が再雇用されたり、剃髪した元有力武将など訳アリ僧侶がその役に付いた。
こうして、次第に現在の内閣官房参与に近い性質を持つようになります。
役職として機能した御相伴衆は、室町幕府のみでしたが安土桃山時代、江戸時代には御伽衆へと変化していきます。
豊臣秀吉の豪華御伽衆
豊臣政権が始まると、より実践的な御伽衆制度が始まります。
秀吉が抱えた御伽衆は、元武将や僧侶だけではなく、商人や茶人と言った民間人も多数含まれていました。
こうした背景には、秀吉が農民出身と言う自身の出自があります。
本人に知識が無いから、専門家を周りに集めて補おうとしたのです。現代の参与に高度な専門知識を持った人材を固めるのと似ています。
驚くべきことは、その規模で現代の内閣官房参与は11人※ですが、秀吉政権では800人に及びます。※Wikipedia参照 2023年1月1日現在
この人数では、一日2人にあっても一年で一回りできません。任命されたけど、一度もあった事ない人もいたかもしれません。
さらに秀吉のすごい所は、規模だけでなくその人材がすごい物でした。
まずは、室町幕府最後の将軍・足利義昭で、彼は京都から追放をされた後も将軍であったが、将軍を返上して御伽衆に入る。民間人の今井宗久の子・宗薫や春日局の養父・稲葉重通なども採用されています。
また、信長の子・信雄、信包や弟で一流の茶人・織田有楽斎と名を連ねます。
織田をコンプリートをすることによって、織田家から実権を奪い取った秀吉の正当性をアピールする狙いがあったとされています。
また、近江の六角承禎の息子は弓の名手であったので秀頼の弓術指南役のために御伽衆に召集されています。
ライバルも御伽衆に取り込む
秀吉は、元同僚やライバルも御伽衆として採用しています。
茶道の古田織部や清須会議で柴田勝家方に居た滝川一益の甥・雄利、同僚では織田家の古参武将・金森長近や宮部継潤の名前があがっている。信長に反旗を翻し、隠居生活をしていた荒木村重も晩年は秀吉に召し出されています。
御伽衆の役割は人それぞれで、先述した弓指南役のような武術指南系や暇つぶしに引退した猛将による武勇伝語り、内政上手にはその知識を秀吉に授けたりして豊臣政権運営にとって有意義な情報をもたらしました。
江戸時代初期頃までは、格大名家で御伽衆を雇っていたらしいですが、内政システムが整備され統治制度が確立されると、経験や見識は必要なくなり次第に時代遅れの役職となっていきます。
とは言うものの、御伽衆たちは自分の話を聞いてもらうために、面白おかしく実体験を脚色して話していたので、こうした説話が江戸時代に流行する【講談】の元ネタになっている事が多いと言います。
歴史に名を残せなかった者たちの再就職先である御伽衆でしたが、思わぬ形で現代に残され生き続けることになったのでした。