島津氏、大友氏、龍造寺氏による九州地方の三国県立時代
戦国時代は日本中が戦乱に明け暮れた時代でした。
これまで、関東や東北、近畿地方などの状況を紹介して来ましたが、九州や四国地方にも目を向けてみたいと思います。
今日紹介する九州地方では、大きな大名家が三家も台頭しことから九州の三国時代とも呼ばれています。これまでの地域での争いは、将軍家やその時の権力者が関わっている事が多いのですが、九州地方ではあまり関わっていないのが特徴です。
しかし、九州の争いも中央での戦いに負けず劣らずの激しさと知略・戦術の応酬があり、なかなか面白いと思います。
九州の三国時代の大名達
それでは、各大名の紹介からはじめたいと思います。
大友氏=大友義鎮(宗麟)
九州北部を支配下に置いた戦国大名で、戦国初期の頃から大きな勢力を持っていましたが、中国地方から大内氏や毛利氏に度々ちょっかいをかけられ、手を焼いていました。
後に、キリスト教に興味をもち自らも洗礼を受けました。それに伴い、キリスト教王国を目指して南の島津氏に侵攻しますが…
島津氏=島津義久
九州南部を支配した薩摩国守護大名の島津氏16代当主。
薩摩で島津家の地盤を作った島津貴久の跡を継ぎ、弟の島津義弘・島津家久と共に対立する九州南部の国人衆達との合戦に勝ち、島津氏を九州一の勢力へのし上げました。
九州の南半分を支配下に置いた島津氏は、北西部の龍造寺氏と北東部の大友氏へ侵攻を開始します。
龍造寺氏=龍造寺隆信
九州北西部(現在の長崎県)あたりを支配していた戦国大名で、当初はそれほど力を持っていませんでした。一時は、少弐氏に攻められ滅亡の危機に陥りましたが、隆信はまだ子供で難を逃れていました。
その後、隆信が龍造寺家を継ぐと、君主格であった少弐氏との戦いを制し、お隣の大友氏との戦いにも勝利し勢力を伸ばしていきました。
大友義鎮 (宗麟)と毛利元就による北九州の覇権争い
1550年~1564年頃、北九州と中国地方に大きな勢力を持っていた【大内氏】の崩壊が始まりました。平安時代からこの地方を支配していた名家は、重臣【陶晴賢】のクーデターによって当主・大内義隆が自害します。
そして陶晴賢は、大内義隆には跡継ぎがいなかったため、大友氏から養子として大友義鎮の弟・義長を迎え入れ大内家の当主に擁立しました。しかし、大内家の実権は、陶晴賢が握っており、大内義長はだたのお飾り当主だったのは言うまでもありません。
その後、大内氏の配下だった毛利元就が主君のあだ討ちの名目で陶晴賢とぶつかります。瀬戸内海の厳島で両者が激突し、陶晴賢は追い詰められ自害し、孤立した大内義長も毛利元就に攻められ打たれてしまいました。
この厳島の合戦で中国地方の大内氏の領土は、毛利氏が支配するようになります。
一方で、北九州の大友義鎮は大内義長は、自分の弟だったと言うことで北九州の大内氏の領土の権利を主張し、毛利氏と対話をしつつ北九州を実効支配をしていきます。
北九州には、大きな経済力を持つ貿易都市・博多があり、毛利氏と大友氏共に重要地と考えていました。そのため毛利元就もやすやすと北九州の地をあきらめることができません。
陶と毛利の戦い最中に大友義鎮は、大内義長の援軍要請を受けていましたが、毛利氏との対立を避け援軍を送りませんでした。しかし、その程度で毛利元就を懐柔できるほど小物ではありませんでした。
北九州の支配の確実なものとするために朝廷や幕府に働きかけ豊前・筑前の守護職と九州探題の役職を大友義鎮は手に入れました。しかし、実際に北九州を支配するのは簡単なことではありませんでした。
この地域では鎌倉時代に元寇で総大将をし、この地方で大きな権力を持っていた名家・少弐氏の存在がありました。大内氏も少弐氏も名家だったため、北九州の国人衆は従っていましたが、ポッとでの大友氏では従う者があまりいませんでした。
この地域は、中国や朝鮮半島の貿易が盛んだっただめ、国人衆と言えど高い経済力・軍事力を持っていた勢力が多かったのも背景にあるようです。
大友氏と毛利氏の対立が決定的になったのが、元少弐家の配下・秋月氏が毛利氏を頼りり、大友氏討伐の支援を要請したことが発端となりました。1559年、秋月氏の要請を大義名分とし、毛利元就は九州と中国地方の間の関門海峡の城・門司城を大軍を持って攻撃し占領します。
毛利との対話の中で、北九州の権利は自分の物と思い込んでいた大友義鎮は、毛利の侵攻に虚を突かれました。
大友義鎮もすぐに軍勢を集め、大軍で自ら門司城奪還に向かいます。しかし、毛利家の乃美宗勝や小早川隆景と村上水軍の活躍により敗退し、大友義鎮の門司城の奪還は失敗に終わりました。
毛利軍は、退却中の大友軍を先回りし追撃すると大友軍は大被害を被ってしまいました。この戦いは門司合戦と呼ばれ、大敗のショックで大友義鎮は、出家し宗麟と名乗ります。
門司合戦で毛利元就に負けてしまった大友宗麟は策を講じます。
将軍・足利義輝に献金しつつ、毛利家の非道を訴え、幕府による和睦の仲介を取り付ける一方で、毛利氏の中国地方のライバル尼子氏に、打倒毛利の連携を申し出ます。
この動きに対して毛利元就は、単独で大友家と和平交渉を進めようとしますが、尼子氏はそれに反発して交渉の引き延ばし図り交渉は難航し数年もつづきました。
1564年にやっと、毛利氏の北九州での占領地を大友氏に返還する事で和睦が成立し、毛利氏は尼子氏、大友氏は九州制圧に専念する事ができるのでした。
薩摩国の動乱
その頃、南九州の薩摩では、島津氏が台頭していました。
この島津氏は元々、南九州を治める薩摩守護の名家でした。
しかし、戦国時代に入ると南九州の各地で国人領主が台頭し、本家の島津氏の力は完全に衰えていました。そこで、義久の祖父・島津日新斎は分家の身分ではありましたが、武将としての評価が高く衰退していた島津氏の復興を期待され、本家の跡を継ぐことになります。
1543年に、島津氏を運命を大きく変えるイベントが起きました。
【鉄砲】の伝来です。
種子島に漂着したポルトガル人が持っていた鉄砲を、種子島時尭が大金をはたいて購入し、これが薩摩にも伝わり急速に実用化されたのです。
1554年頃に薩摩国内で起こった島津氏の家督争いでは、すでに鉄砲の撃ち合いが起こっていたようで、島津氏が戦国時代の大名家の中でも、もっとも早く鉄砲を使った戦いを行っていました。
1561年頃から、島津貴久に家督が継がれると、すでに薩摩は島津家の統治によって安定していました。そんなとき、大隅を支配する肝付氏と島津氏の間で、宴会が催される事になります。
肝付氏と島津氏は、昔から友好的な関係で、互いに娘を嫁がせたりして縁戚関係にもあり、島津氏が薩摩の支配を固める戦いでも肝付氏は支援をしていましたが、もともと、両家は以前からわだかまりがあったようで、この宴会の席で両者にトラブルが発生。
宴会の後、肝付氏の当主・肝付兼続はすぐに帰城し合戦の準備をします。
先代の島津日新斎は怒りを収めようと、 肝付兼続 の元へ行きますが話を聞いてくれず、仕方なく当主の島津貴久は合戦を決意し、島津軍と肝付軍は戦いに突入します。
さらに肝付氏は、友好関係にあった日向の伊東氏に救援を要請。そしてこの伊東氏がさらに、仲の良かった肥後の相良氏に協力を要請したため、酔っ払いのケンカが南九州全土を巻き込む戦乱へと発展していきます。
戦況は当初、肝付連合軍が優勢に展開し、島津貴久の弟も戦死するなど、島津軍は敗退します。しかし、開戦から3年ほど経った頃、喧嘩を吹っかけた本人・肝付兼続が倒れ病死します。
この戦いが始まり、10年経った1571年に、島津家の当主・島津貴久も病死します。当主は貴久の子・義久となり、島津家は大きな飛躍を遂げていくことになります。
島津貴久の病死を知った、肝付・伊東・相良の連合軍は共同で大規模な進軍を開始、島津領に進攻していきます。これに対し義久の弟・島津義弘は肝付連合の進攻に備えて防御を固めますが、兵力差は島津氏300に対し連合軍3000でした。
以前、島津義弘の記事でも書きましたが、義弘は相良家が進軍してくる方面に数十人を派遣し、軍旗をたくさん立てかけて大軍がいるように見せかけ進軍を遅らせると、各所に伏兵を配置して伊東軍を待ち構えました。
数に勝ると伊東軍は一気に島津家の城を攻略しようと、前線の城を包囲して一斉に攻め立てますが、島津軍の必死の奮戦によって攻撃は失敗し、伊東軍は一旦後退して 相良軍 の到着を待つことに。
しかし、相良軍は大量に立てられた島津家の軍旗を見て、島津の援軍が来たかと思い引き返していたので、伊東軍の援軍は到着しませんでした。それを見た島津義弘は本隊を率い、伊東軍に突撃を開始をするも、数には勝てず島津義弘の部隊は、そのまま後退します。
ここで伊東軍は一斉に追撃を開始!!
しかし、これが義弘の策略で敵をおびき寄せて包囲してせん滅する島津家の得意戦法【釣り野伏】でした。後退を続けていた島津義弘の部隊は突然停止すると、反転して反撃を開始と同時に周囲から伏兵が一斉に現れて伊東軍を四方から包囲します。
伊東軍が気がついたときにはすでに遅く、伊東軍はそのまま崩壊し総大将も戦死しました。さらに島津家の本国から来た援軍がちょうど伊東軍の敗走部隊に追いつき、伊東軍は大損害を受ける結果となりました。
多数の将兵を失った伊東氏は、その被害を回復することが出来きず、結果的に肝付氏よりも先に倒れる事となります。伊東氏の支援を無くした肝付氏は以後は防戦一方で、合戦に長けた島津義弘・家久・歳久の兄弟の攻勢を止めることも出来ず、敗退を続けていくことになります。
1574年に肝付氏が降伏すると、薩摩・大隅と日向を支配した島津家は一気に勢力を拡大し、南九州の覇権を得る事となりました。
肥前の熊、龍造寺隆信の台頭
南九州では島津氏と肝付氏・伊東氏の戦いが決着の時を迎えようとしていた頃、北九州では、大友氏がその勢力を大きく伸ばしていました。
毛利との和睦後、北九州で反乱を起こした勢力を鎮圧した大友宗麟は、豊後から肥後の北部、北九州の豊前・筑前まで広がる大きな範囲を支配下としました。
これで気を良くした宗麟は、芸者を呼んで毎日酒を飲み、酒池肉林で遊びまくっていたようです。家臣の立花道雪が忠告しましたが、ぜんぜん聞きません。
そんな大友宗麟の日頃の行いにトラブルを発生が発生します。
なんと宗麟は、家臣・一万田親実の奥さんに一目ぼれをし、親実を追い詰めて殺害しその妻を自分のものにしてしまったのです。
これに怒ったのが大友家の家臣で合戦での功績も高かった、一万田親実の弟・高橋鑑種で、人妻目当てに兄を殺された鑑種は、これを理由に大友家からの独立します。
高橋鑑種の離反をきっかけに、北九州の多くの諸勢力も次々と離反し、さらには毛利氏に逃れていた北九州の秋月家も挙兵し、まだ北九州を諦めていなかった毛利氏も反大友側の勢力に支援をしました。
実際には、高橋鑑種の離反は以前から噂があり、毛利氏にもかなり前から内通していたようで、この事件がなくても、遅かれ早かれ離反はあったかもしれません。
この反乱で大友宗麟も黙っているわけも無く、すぐに離反した勢力に進攻を開始します。この戦いで特に活躍したのが、【雷神の化身】 や 【鬼道雪】と称された大友家の名将【立花道雪(当時は戸次鑑連)】でした。
道雪の活躍で、九州の諸勢力は次々に敗退。しかし、反大友側の秋月氏は毛利家に援軍を要請し、城で防備を固めつつ、援軍到来までの持久戦を展開します。
要請を受けた毛利家は、さっそく百隻以上の船団を北九州に派遣します。味方勢力の手引きで上陸した毛利軍は、北九州にある大友家の城に攻勢をかけます。毛利氏の援軍で、大友軍が劣勢になると、また北九州の勢力が反大友陣営に参加していきました。
この時、反大友陣営に荷担した勢力の1つが龍造寺氏でした。
当主、龍造寺隆信は家兼の遺言でその跡を継ぎ、龍造寺家を再興させ、その活躍から肥前の熊と称される勇猛果敢な人物でした。
怪力で腕っぷしが強かった隆信 は、敵対勢力を打倒して龍造寺氏の領地を奪還。その後はどんどん勢力を拡大し、ついに元の主君である名家・少弐氏も滅亡させ、再び龍造寺氏を肥前の有力勢力へと拡大します。
そこに、北九州で多くの勢力が大友家から離反すると、大友氏と対立していた龍造寺氏もこれに参加。やっかいな龍造寺氏を早期に叩くべく、すかさず大友軍は肥前に進軍していきますが、ここで毛利家の大軍が北九州に来襲します。
毛利元就の息子・小早川隆景と吉川元春が4万以上の大軍を率いて北九州に進攻し、各地の大友軍の城を次々と落としていきます。ついに北九州の中心拠点と言える立花城が落城すると、大友軍は龍造寺攻めを中止して立花城の奪還に向かいます。
戦いは立花道雪が率いる大友軍が優勢に展開、徐々に立花城を包囲していきます。
城で守る毛利軍も善戦し、戦いはこう着状態になると大友宗麟は一計を案じます。
大友宗麟は、滅亡した大内家の親族である大内輝弘をかくまっていました。宗麟は幕府から与えられていた、大内家の正式な跡継ぎの認可状を彼に持たせ、大内家の再興を大義名分に数千の兵を与えて中国地方の毛利領へと進攻させます。
この軍勢には大内氏に恩のある勢力が次々と参加し、兵力はどんどん大きくなっていきました。さらに、すでに滅亡していた尼子氏の残党勢力や山中鹿之介などが打倒毛利氏の活動を活発化させます。
北九州を占領しても、中国地方が陥落しては何にもならない毛利元就は仕方なく、北九州の小早川隆景と吉川元春に撤収を命じます。こうして、立花城は大友軍に奪還され、戸次鑑連が城主に任命されます。 そして戸次鑑連は、その城の名前から立花道雪と改名しました。
中国地方に帰った毛利軍は、すぐに大内輝弘の軍勢を撃破しますが、翌年に毛利元就が死去します。毛利輝元に跡が引き継がれますが、以降、織田信長と対峙する事になり、毛利氏は九州に侵攻する事はありませんでした。
毛利氏の撤退で、北九州の諸勢力は次々と大友氏に降伏し、争いの基となった高橋氏家と大友家に抵抗し続けた秋月氏も臣従を余儀なくされ反大友連合は解体されました。
こうなると、龍造寺隆信が孤立してしまいます。
龍造寺氏は肥前の有力勢力となっていましたが、まだ肥前全土を掌握している訳ではありませんでした。龍造寺隆信も、すぐに大友氏に和睦を申し入れますが一蹴され、大友氏の大軍が龍造寺氏の佐賀城に三万の兵で進軍します。
一方、龍造寺軍の総兵力は約5千人で、まさに絶体絶命でした。ところが、後のない龍造寺軍の士気は高く善戦し、城を攻撃する大友軍も決定的な勝利を得ることが出来ませんでした。
善戦してはいるものの、孤立していて救援も期待できない龍造寺家内では、さらに増える大友軍を見て降伏論が出始め、当主・隆信もこの時ばかりは降伏の二文字を考えていたようです。
しかし、これに反対したのが龍造寺隆信の義兄弟でもある名将・鍋島直茂でした。
肥前佐賀藩の藩祖となる人物である直茂は、偵察によって数に勝っている大友軍がたるんでいた事を指摘し、『敵軍は我らを侮っており、これぞ天の与えるところ。 今夜、許しを頂ければ、十死一生の夜襲にて勝敗を決して参りましょう!』と進言します。
鍋島直茂はわずか17騎で城を飛び出し、大友の本陣に向かって出撃します。しかし、話を聞いた龍造寺軍の成松信勝や百武賢兼などの龍造寺氏の武将たちが次々と合流。さらに龍造寺氏や鍋島直茂を慕う農民や山伏の一団まで加わわり、最終的には700人近くの軍勢が集まりました。
夜も更け、大友軍の将兵が宴会で酔って寝静まり、さらに夜が明けようとしていた頃、鍋島軍は一斉に大友の本陣を襲撃し夜襲を敢行します。
不意を突かれた大友軍は大混乱し、次々と将兵が討ち取られ、大将の大友親貞も龍造寺軍の成松信勝に討ち取られます。混乱した大友軍では同士討も発生し、数時間にわたる戦闘で大被害を被り、総崩れとなって四方に敗走していきました。
この今山の戦いと呼ばれる戦いに大勝した龍造寺軍の士気はさらに高まります。
軍勢が壊滅したうえに、佐賀城が落ちる気配もなかった大友軍は、龍造寺氏と一旦講和し、本国へと撤収していきました。
その後、龍造寺氏はこの戦いで敵対した肥前の勢力に進攻を開始し、ついに肥前一国を掌握する戦国大名へと躍進、その後もさらに勢力拡大を続けていきます。
こうして九州には、九州北東部の大友氏、九州北西部の龍造寺氏、南九州の島津氏という、3つの大きな大名家が君臨する事となりました。
魏・蜀・呉の中国の三国時代を思わせる三国県立の形が、日本の九州地方に定まった瞬間でした。しかし、この状態はそう長くは続かないのですが、各大名の争いは、別の記事で書いて行きたいと思います。