戦国大名達が制定した分国法とは何??
1232年、鎌倉時代に源頼朝以来の先例や道理と呼ばれた武家社会の慣習や道徳を元に作られた法律が御成敗式目です。別名、貞永式目とも呼ばれていますが、こちらは後世に付けられた名前のようで正式名称が御成敗式目だそうです。
時が過ぎ、戦国武将が割拠していた戦国時代。
この時代の大名たちは、領国の運営のために独自の法律を定め、家臣や領民統制を行っていました。
そこで今回は、当時の武家の法律分国法について書いて行きます。
分国法の登場とその背景
分国法とは、戦国時代の時に領国を統治していた戦国大名達が制定した法律のことです。
戦国家法とも呼ばれ、各大名家の家臣団や領民などを統制するために作られました。
室町時代中期、応仁の乱によって争いの絶えない戦国時代が始まりました。
日本各地に戦国大名と呼ばれる幕府や朝廷の権力に従わない新しい勢力が現れました。
そんな戦国大名の心配事が家臣や農民たちの反乱でした。
この時代において家臣が謀反を起こして家や国を乗っ取るのは日常茶飯事でした。家臣や血のつながった親子でさえ本当に信用できるかどうか怪しい物でした。
さらに領民も政治に不満を抱いた者たちが集団で一揆を起こされたりもします。
そんな、難しい経営を強いられていた戦国大名たちが、スムーズに両国経営を行えるように分国法と呼ばれる独自の法律を制定しました。
分国法のお手本は鎌倉時代の御成敗式目
戦国大名が独自に制定していった分国法ですが、定める大名によって内容は変わりますが、その基になった法律がありました。それが鎌倉時代に執権・北条泰時が制定した武家最初の法律である御成敗式目です。
戦国時代よりも200年以上前の1232年に制定された御成敗式目ですが、土地問題を始めかなり画期的なもので、武家社会の為の法律そのものでした。
特に土地問題は武士の生活を左右するとても需要事柄で、それがはっきりしている御成敗式目がとてもいいお手本となったのでした。
各大名家の分国法
同じ法律を参考にして作られた分国法ですが、各大名家が作った法律にはその各地の事情によって内容が違いました。
ここでは、代表的な戦国大名が制定した分国法を比べてみましょう。
今川仮名目録【今川家】
足利一族で足利の血が途絶えたら今川家が継ぐとも言われていた名門中の名門。その今川家が分国法を制定したのが1526年の事でした。
最大の特徴は東国初の分国法という事とこれまでの荘園制を否定した内容だったところです。
制定者の今川氏親は、嫡男・氏輝にスムーズに家督を渡すために分国法を制定したと言われています。領地の売買禁止や使用人の任期などが決められていますが、その中でも注目なのが室町幕府が定めた守護不入を完全に否定しているところでした。
守護不入と言うのは、室町幕府の役人が領地内に荘園を所持していたら、その荘園の税は守護大名に払わなくても良いと言うものでした。しかし、今川仮名目録ではそれを完全に否定してどんな土地でも今川家の土地とすることを定め、成功しました。
これにより、室町幕府の枠組みで活動していた守護大名と言う立場から、中央政府の意向を無視して独自の政治体制を持った戦国大名へ完全に移行したことを表しており、今川氏は将軍足利一族なのにも関わらず守護大名からの脱却を果たしました。
甲州法度次第【武田家】
武田信玄か制定した分国法が、1547年に定めた【甲州法度次第】です。
甲州式目や信玄家法とも呼ばれているこの分国法は、今川仮名目録をベースに作られたとされています。土地の売買禁止や土地を全て武田家と言ったところは今川家と同じですが、農民の年貢の滞納禁止や喧嘩両成敗が大きな特徴でした。
特に喧嘩両成敗は、争いごとが起きたら当事者全て罰しますと言う法律で、この法律でこれまで力で決めていら解決方法を分国法による法の支配に変えたと言う意味であり、それによって復讐の連鎖を断ち切ることに成功しています。
さらに、この分国法を定めた武田信玄(晴信)も対象者となり、法律に不備があれば誰でも訴えることが出来る、現代にもつながる分国法でした。
塵芥集【伊達家】
塵芥集は奥州の大名である伊達家が制定した分国法です。
伊達家と言えば、伊達政宗を思い出しますが、この分国法を作ったのは政宗の曽祖父・伊達植宗です。植宗は、婚姻外交で最大領地を築き上げた一方で、天文の乱を引き起こして奥州の泥沼戦争を引き起こした結果も残しています。
さて、植宗が制定した塵芥集の特徴は、何といってもその細かさ。その条文の数は、日本国憲法(103条)より多い171の条文からなります。
植宗時代に、一気に領地が拡大した事によって治める人や領地が増えたことで、トラブル防止のためにきめの細かい分国法になったと考えられています。
条文は、婚姻関係や土地問題が主流ですが、一番多いのは刑法関連。
伊達家の刑法システムは特殊で、逮捕してくれる警察みたいな役人がいない伊達領内では被害者自らが逮捕をしなければいけないシステムでした。一見、加害者有利のシステムに見えますが、伊達家の刑法の細かさでカバーしているようです。
長曾我部元親百箇条【長曾我部家】
土佐の大名で長曾我部元親が制定したのが、長宗我部百箇条です。その制定は1597年と分国法としては後発組でした。
この頃の長曾我部家では、お家騒動が起きており、元親が何とかして国内統制をしようと作ったのがこの分国法だったそうです。
て、長曾我部元親はなんとかして国内を統制しようと作ったのが始まりなんだとか。
その内容は、喧嘩の禁止やばくち・大酒の禁止、浮気の禁止など多岐に渡り、その条文は100か条ありました。
分国法のその後
分国法は、御成敗式目を基盤に各大名家がその領地に適した法律を定めていました。
争いを自己解決をする時代に、戦国大名が間に入り秩序だった解決を目指す分国法は画期的なものでした。領地に合った法律を作った事で、領地支配を確実にしたところは地方自治の始まりとも言えます。
しかし、各戦国大名が思うがままに制定した事で偏りが生じたり、大名自身が出陣中は裁きが中断するなどの問題点もありました。
私たちが想像する【法律】的な運用がなされるのは、江戸時代まで待つ必要があります。