分国法、今川仮名目録の名門・今川氏の台頭と衰退
今川氏は、清和源氏の流れを汲み、南北朝の争いでは今川頼国が尊氏側の北朝に属し、各地で戦功を上げました。この功績で、丹後・但馬・因幡の守護に命じられ、因幡今川家としてその勢力を伸ばしました。また、頼国の末弟の今川範国は足利尊氏の近くで多くの功績を残し、駿河・遠江の守護を命じられ、駿河今川家として後に今川義元を輩出します。
名門今川氏
室町幕府が成立すると、足利尊氏と直義が対立すると、尊氏に駿河今川家、直義に因幡今川家が付き、足利直義が尊氏に敗れると因幡今川家は没落し、駿河今川家が嫡流となりました。
足利義満の代になると、鎌倉公方と将軍家の争いをけしかけた疑いをかけられ、中央政界から遠ざけられ、遠江の守護職を半分奪われることになり、今川氏分家の一人が収めることになりましたが、後に斯波氏に遠江半国を譲ることになりました。
今川氏の家督争い
応仁の乱の頃に、今川義忠が死去すると、嫡男・竜王丸派と弟・小鹿範満派が家督をめぐり対立しました。この時、義忠の叔父に当たる北条早雲(伊勢宗瑞)が仲介に入り、この場を収めることになります。
この際、北条早雲は【竜王丸が成人するまでは、小鹿範満が家督を代行する事】を提案し、双方の合意を得たのですが、竜王丸が17歳になっても範満が家督を譲ろうとしませんでした。そこで、1487年に北条早雲は駿府城に攻め入り、小鹿範満一門を粛清します。
早雲の活躍により元服を果たした竜王丸は、今川氏親となり領国運営を取り仕切ります。氏親は、その後も北条早雲の恩を忘れず、関東での早雲の戦いに援軍を送るなど、今川・北条家は互いに協力し合いました。
竜王丸の母は、北条早雲の妹でこの仲介劇は、妹である北川殿が早雲に働きかけたことで実現したとされています。
今川仮名目録
今川氏が制定した分国法は、1526年に氏親制定した【仮名目録】とその子・義元が制定した【仮名目録追加】の両方を合わせたものが【今川仮名目録】となっています。
1526年頃は、氏親は病床にあり、家法というより政権を安定させたい氏親の妻と家臣たち意見が大きく反映されているのが特徴です。内容は、戦国大名の権力保持と言うよりも、土地などに関する訴訟などの判決基準などと言った色が強いのが特徴です。
さらに、1553年に今川義元が追加で全21か条になる、仮名目録追加を制定し、家臣同士の争いや相続などにも追記しています。特に、室町幕府によって義務つけられた守護不入を否定し、完全に守護大名から戦国大名へと移行の意志が現れているのが特徴です。
また扶養に関する保護などの規定も盛り込まれており、現在の社会保障制度に類似したものもあるそうです。
今川氏親と北条早雲の台頭
遠江国は元々、今川氏が守護職を歴任していましたが、斯波氏に奪われたままでした。
この遠江奪還は、父・義忠の悲願でもあり当主となった氏親も悲願達成のため、度々遠江に進軍しました。
主に、遠江に兵を率いたのは当時今川氏家臣だった北条早雲(当時は伊勢宗瑞)で、1494年頃には遠江中部までその勢力を広げました。1501年~1504年には、三河岩津城の松平氏を攻め、氏親も早雲の関東進出のための遠征に協力し、長享の乱を一緒に戦いました。
1509年以降、早雲は今川家としての活躍がなくなっており、独立を果たしたようでここから早雲の関東進出が本格化していきます。
将軍・足利義稙が将軍職に復権すると、氏親は将軍を支持し、正式に幕府から遠江守護に任命され、遠江支配の大義名分を得ました。それでも、斯波氏との争いは激化して行く事になります
1516年に、引馬城の大河内貞綱が裏切り、今川氏親は城を包囲し降伏させます。
これにより、遠江が平定されることになりました。
1515年には、甲斐西部の国人衆に味方し、守護職の武田信虎と争い勝山城を一時的に占拠しました。1517年に国人衆が武田信虎に降伏すると、和議を結び兵を引きますが、甲駿同盟が成立するまで武田氏との対立が続きました。
遠江全土を領国とした氏親は、支配力の強化のため1518年以降は内政に力を入れ、検地を実施し、安部金山を開発し財力強化も行いました。公家出身の寿桂尼と結婚したことにより、領国には京の文化が取り入れられ、氏親自身も和歌や連歌を嗜みました。
今川義元の登場
今川氏親の五男として生まれた義元は、すでに跡継ぎが氏輝に決まっていたので、4歳で仏門に出されていました。その後、氏輝に呼び戻され駿府に戻りますが、1536年に氏輝と継承権のあった彦五郎が相次いで死去します。
義元と腹違いの兄との家督争いの花倉の乱で今川家当主の座を勝ち取ると、自らに忠義を示した家臣たちを中心に支配体制を整えていきました。
義元は、氏輝時代から抗争が続いていた武田信虎の娘を正室に迎え、武田氏と甲駿同盟を結びました。この同盟に異を唱えたのが、駿相同盟の相手北条氏綱で、これにより北条氏との関係が悪化し、駿河東部を進攻されることになりました。
武田氏の援軍で何とか駿河東部の奪還に望みますが、堀越氏と井伊氏の遠江の反今川派離反により駿河東部を取り戻すことができませんでした。さらに、追い討ちをかけるように、尾張の織田信秀が三河東部に侵攻を開始し、義元は三河勢と討って出ますが織田軍の前に敗退します。
1541年に武田信虎が晴信に追放され、家督を晴信が継ぐと信虎は今川家に預けられました。晴信は、後の武田信玄となりますが、同盟関係はそのまま続け、1545年の高遠合戦では、武田軍に援軍を送っています。
そのころ、北条氏では氏綱が死去し、氏康が家督を継ぎましたが、今川氏と北条氏との関係は依然悪いままでした。今川義元は、北条氏康に対抗するために関東管領の上杉憲政と組み1545年に北条氏を攻めました。
さらに武田晴信(信玄)の援軍も取り付け河東方面に今川連合軍が進軍すると同時に、古川公方・関東管領の上杉両家と足利晴氏が関東の河越城を8万の軍勢で包囲し、窮地にたたされます。そこで北条氏康は、武田晴信に仲介を頼み、今川氏から奪った河東を返却する条件で和議を申し込みました。
和議が成立し、北条氏康は関東方面に集中することができ、河越城の戦いでは勝利を収めることができました。
西の三河方面では、松平宏忠が今川家に帰順し、人質として犬千代(松平元康)が迎え入れられました。しかし、犬千代を護送していた三河の戸田康光が裏切り、人質を宿敵・織田家に送りつける事件が起こります。この出来事で、織田信長と徳川家康が幼い時に顔見知りになります。
1548年に織田信秀が三河に進行してきましたが、今川家軍師・太源雪斎と重臣・朝比奈泰能の活躍により、織田勢力を三河から追い出すことに成功しています。これにより、今川家は、三河・遠江・駿河の三カ国・69万石の領地を治めるまでになりました。
1549年、岡崎城の松平広忠が死去すると、城主不在の岡崎城を実効支配し松平家の旧領も今川家の支配下としました。同時に、織田家の残りの三河の領地を攻め、織田信広を捕らえることに成功。捕らえた信広と送られてきた犬千代の交換を申し込み、松平氏嫡男の奪還を果たし、松平家の家臣たちの心をつかむことに成功しました。
1551年に、織田信秀が死去すると、今川義元は尾張攻略を本格化させます。
まずは、後顧の憂いをたつために、娘を武田晴信の嫡男・義信に嫁がせます。また、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘を娶とらせ、甲相駿三国同盟を成立させました。
内政面では、領国の検地を行い、先ほど書いた今川仮名目録を付け加え、守護大名としての幕府と今川家との古い関係を断ち切りました。
1558年頃には、家督を氏真に譲り、義元自身は隠居したとされていますが、これは上京する布石と考えられています。そして、1560年6月に義元自ら大軍を率いて尾張へ侵攻し、桶狭間の戦いが始まります。
今川氏の衰退とその後
桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、氏真が今川家を継ぎました。
戦いの混乱に乗じて三河の岡崎城では、松平元康が今川家より独立し、今川支配の領国に動揺を招き、三河の国人衆たちも次々と離反。氏真も自ら出陣し、征伐戦を仕掛けますが、松平軍に大敗を喫し、三河の支配権を無くします。
今川家にとって不運は続き、武田信玄の嫡男・義信に嫁ぎ甲駿同盟のが成立していましたが、1565年に義信の謀反が発覚し、嶺松院は今川氏へ送還され同盟関係が悪化します。
武田義信の廃嫡により、四男・諏訪勝頼が跡目となり、その側室に織田信長の養女を迎え、次第に今川家と敵対姿勢を見せるようになりました。
1568年には、ついに武田信玄は徳川家康(松平元康)と同盟をし、今川領国・駿河へ侵攻を開始。武田信玄の駿河侵攻に、北条氏は今川氏に加勢したことで、甲相同盟も破綻しました。
三河と駿河を東西から瞬く間に切り取られ、遠江に追い込まれた今川氏真は、最後の砦掛川城を徳川家の石川家成に明け渡し、朝比奈泰朝と共に北条氏をたより小田原へ…
こうして、戦国大名としての今川氏は桶狭間の戦いからわずか8年で滅亡することになります。
北条氏を頼った今川氏真はその後、徳川家康の庇護を受け、1615年まで生きることになります。氏真の嫡男・直房は、幕府の高家※に就き、秀忠・家光・家綱の三代に渡り、朝廷との交渉役に奔走しました。
この今川直房は、今川氏歴代で最高の左近衛少将の官位を賜り、子孫からは多大なる功績を残したと評価されています。その後、高家旗本として江戸時代を経て、1887年(明治20年)まで続きました。
現在の東京都杉並区今川は、この地に今川家の知行地だったことにちなんでいると言うことです。
※高家とは、江戸幕府における儀式等を司る役職。