どうする家康

徳川家康の父・松平広忠の悲運な人生に迫る

歴ブロ

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家康の父・松平広忠の人生を調べていきます。

家康の父親の動きが分からないと、

『家康が何故若い頃に今川氏の影響下にいたのか』

『家康が織田氏とどう繋がりがあったのか』

が分かりにくいので、折角ですから松平広忠の人生を詳しく取り上げていきます。

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松平氏について

清和源氏新田氏の出身、藤原諸氏、在原、加茂氏出身など様々な説がありますがハッキリしません。

室町時代の三河国加茂郡松平郷(現・愛知県豊田市松平町)の国人土豪として強大化したと言われています。広忠の父・清康の時代(1529年)に三河をほぼ統一しています。

ところが、その三河平定の途中で清康の伯父・信定の救援が遅れて味方の武将が亡くなった件を清康が罵倒したことで清康と信定の仲が険悪に。これが後々の広忠の人生を狂わせるキッカケとなります。

1535年以降のおおよその勢力図です。

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ここで当時の状況を整理しましょう。

今川の東側には北条氏がいるのが分かります。今川氏と北条氏は姻戚関係で、北条氏2代目当主の時代までは友好関係が築かれていました。

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ところが、1536年に今川氏内での家督争いで勝利した今川義元は北条氏と敵対していた武田氏の娘を正室に迎えます。これを機に今川氏と北条氏の仲に亀裂が走ります。

この出来事が後々広忠の人生にも影響するので頭の片隅に置いておいてください。

 

 父・清康の死と逃亡生活

当時の織田家当主・織田信秀も松平家当主の清康も互いに領土を広げる『やり手』の当主達でした。当然、諍いが起こります。

そんな争いが続いている1535年、斎藤道三と組んで尾張の守山城を攻めようとしている中で家臣・阿部正豊により広忠の父・松平清康が惨殺されました(=森山崩れ。犯人の正豊の父親が清康に殺されたという勘違いにより殺害)。そんな森山崩れがあった後に息子の責任を取って自害しようとしていた阿部定吉を広忠が許したという経緯があったようです。この判断は後の広忠の命を救うことになります。

なお、森山崩れは松平信定が糸を引いていたとも言われています。

広忠が数えで10歳の頃の出来事でした。

 

清康の死を機に叔父である信定は松平宗家の乗っ取りを決行。岡崎城を奪って松平宗家に仕えていた家臣たちも掌握するようになると、いよいよ広忠の殺害計画を企てはじめます。

この窮地を救ったのが老臣の阿部定吉。先ほど出てた清康を殺害した正豊の父です。

定吉の働きにより広忠は伊勢の吉良持広の庇護を得ることに成功。伊勢まで逃れ、伊勢の地で広忠は元服します。

ところが広忠を庇護した吉良持広が死去。持広の養嗣子・吉良義安は松平家と敵対する織田氏に加担したことで広忠は庇護者を失いました。伊勢にいられなくなり、三河へ行くも岡崎城へ帰るのは叶わず・・・

そこで広忠陣営は次の一手を講じます。

それが駿河の今川義元に間に入ってもらうことでした。地図を見ればわかりますが、今川は三河の隣の駿河と遠江が拠点ですから松平を抑えておくことは十分にメリットとなります。広忠にとっては今川氏と北条氏で敵対していた状況が追い風となったのです。

 

1540年。義元の計らいと帰城を望む家臣達の働きで念願の岡崎城入りを果たします。こうした経緯で松平家は今川家の庇護下に入りました。

また、帰城に尽力した家臣たちが松平家内部で力を持つようになった一方で大叔父の信定陣営(本人は既に死去)も広忠の帰城後は降参して再出仕することに。ところが、これだけの騒動を起こしましたから再出仕に反対する者も当然いて、しばらくの間は松平家内部は混乱をきたしていたようです。

 

嫡男・竹千代の誕生と織田家との確執

混乱をきたしていたとは言え、ようやく根城に戻れた広忠。ちょうどお年頃だったので次に周囲から期待されるのは跡取りの誕生です。

帰城後1年程で尾張の緒川城主・水野忠政(尾張の東端で三河の西隣に位置する場所一帯を支配)の娘・於大の方を娶り、翌年には竹千代(後の徳川家康)が誕生。

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そんな折、広忠の叔父にあたる(父・清康の弟)信孝が広忠の代理として今川義元のところへ年賀の挨拶に行っている最中に家臣達が信孝の城を乗っ取る事件が起こります。

広忠は信孝の仲は良好で裏切る訳がないと考えていましたが、以前、同族内での裏切りが原因で岡崎城を追い出された過去は消せません。信定との軋轢と同じだったら・・・と恐れた家臣達との合議の結果、信孝は追い出され織田家の元に行くことになってしまいます。

これまでの経緯を見ると、松平家は織田家と関係の深い人達が入り込んでいたように見えますね。信孝の家臣の中にも織田家の者が入り込んだと推測できます。信定と信秀が繋がっていたのなら、度重なる松平家内部での裏切りも納得できそうです。

 

さらに信孝が織田家の支配へ下った同年、広忠の義父である水野忠政が亡くなります。忠政は織田信秀が三河へ攻め込む際に協力していたり今川家の影響の強い広忠の元へ娘を嫁がせたりしてバランスを取りながら自身の領土を守っていた人物です。

ところが、水野家で忠政が亡くなり信元が跡を継いだことで方針が一気に変わります。信元は織田家に傾いたのです。

 

今川家と織田家は敵対関係で、広忠当主の松平家は今川から援助を受けていましたから各方面との関係を見直す必要に迫られました。結局、広忠は今川氏との関係を優先させて於大の方と離縁という苦渋の決断をすることになります。水野家との同盟関係が白紙に戻されたのです。これを機に広忠率いる松平家は織田家との争いの最前線に立つことになり、度々織田家との交戦が続きます。

織田家との戦いは非常に厳しいものでした。広忠は織田家からの猛攻に耐え兼ね、1547年には今川義元に援軍を依頼。ところが、簡単には行きません。

松平家は何度か織田家の策略に嵌められていそうな感もありますから、念には念を入れられて今川義元は『竹千代(当時6歳)を人質として差し出すなら』と条件が付けられ、広忠はそれを受け入れました。

ところが竹千代の護送中、またしても家臣の裏切りで竹千代を織田家に奪われます。織田家から竹千代を盾に今川家への離反を要求されますが、広忠はこれを拒否。今川家への従属を貫きました。

さらに度重なる交戦の中、織田家に行ってしまった数少ない肉親でもある叔父の信孝を自身の軍の矢で失ったそうで広忠は号泣したと伝えられています。

 

松平広忠の突然の死

信孝が戦死した翌年、更に悲劇が起きました。広忠が突然亡くなったのです。

24歳もしくは25歳の死だったと言われています。

死因はよく分かっていませんが、

  • 隣国からの刺客による暗殺
  • 病死説
  • 一揆による殺害説  

と様々な説があるようです。

 

勢力はだ竹千代は未だに織田家に人質として取られていましたから、松平家の家臣たちが織田家に寝返る可能性を考え、今川家は自分の家臣を岡崎城へ送り込みます。

なお、その後、今川家が織田家との戦い(1549年、安城合戦)で織田信秀の庶子・信広を生け捕りにして人質同士を交換。竹千代は今川義元の元に戻されることになりました。

こうして織田家の三河への影響力は低下し、松平家は完全に今川支配下へと置かれることになったのです。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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