ロシアの啓蒙専制君主・エカチェリーナ2世<1729-1796年>
18世紀後半のロシアを代表する君主エカチェリーナ2世(在位1762〜1796)は、世界史で啓蒙専制君主の代表例として必ず名前が挙がります。フリードリヒ2世と同世代で、ヴォルテールやディドロとも交流しながら、国内改革と領土拡大を進めた人物です。
もともとはドイツ系小領邦の出身で、ロシア皇太子ピョートル(のちのピョートル3世)に嫁いだのち、宮廷内の対立の中で政治的な立場を強めていきました。1762年、ピョートル3世の即位後まもなくクーデターを起こし、自らが女帝として即位します。
今回は、そんなエカチェリーナ2世がどんなことを成したのか、迫っていきましょう。
啓蒙思想への共感と「法の支配」を目指した改革
エカチェリーナ2世は、モンテスキュー『法の精神』やチェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』など、当時の啓蒙思想の書物を熱心に読み、統治の参考にしたことで知られます。
1767年には全国から農奴以外の各身分の代表を集めた新法典編纂委員会を設置し、そのための指針として『訓令(ナカース)』を発布しました。『訓令』は500条を超える長大な文書で、拷問の制限、法の公開、公正な裁判の必要性などを説き、啓蒙思想に基づく統治理念を示しました。
この『訓令』では『法の精神』や『犯罪と刑罰』などの西欧の啓蒙思想が盛り込まれています。
一方で、実際の法典は最後まで完成せず、新法典編纂委員会も途中で解散してしまいました。理念としては啓蒙思想を受け入れたものの、ロシアの複雑な身分制や貴族との力関係の前で、大幅な法改正までは進められなかったことが分かります。
教育・文化政策でも、エカチェリーナ2世は学校の整備や教育制度の改革を進めたほか、かつてピョートル1世(1672-1725年)が建設し首都として移転させたサンクトペテルブルクをロシア文化の中心に発展させました。
エルミタージュ美術館の前身となる宮廷コレクションや帝国美術アカデミー(現サンクトペテルブルク美術大学の起源)の整備に大きく貢献しています。これらの点で、エカチェリーナ2世の啓蒙専制君主としての側面がよく表れています。
ヴォルテールやディドロとの交流
フランス啓蒙思想家との交流も、エカチェリーナ2世を語るうえで欠かせません。とくにヴォルテールとは長年にわたって書簡を交わし、自らの政策を説明したり、ヨーロッパでの評価を意識した発言を残したりしています。
エカチェリーナ2世はディドロ(『百科全書』の編集者)に対しては、経済的に困っていた彼の蔵書を丸ごと買い上げたうえで、生前は蔵書を手元に置いて自由に利用できるようにしました。さらにディドロを蔵書管理人として終身年金を支払う形での資金援助を行っています。
こうした援助があったため『百科全書』の編集を完結したのちにディドロはサンクトペテルブルクに訪問し、エカチェリーナ2世と直接議論も行っています。
また、ヴォルテールやディドロの蔵書はロシアに運ばれ、帝室のコレクションに組み込まれました。エカチェリーナ2世は、啓蒙思想家たちの著作や図書館をロシア文化の基盤として活用しようとした点でも特徴的です。
プガチョフの乱と農奴制問題 —— 啓蒙の限界
しかし、エカチェリーナ2世の治世には、啓蒙的な理念と現実政治とのギャップもはっきり見えます。その象徴が、1773〜1775年に起こったプガチョフの乱です。農民やコサックなどが加わった大規模な反乱で、政府軍は鎮圧に苦労しました。
この反乱以後、エカチェリーナ2世は、農奴制の抜本的な改革には踏み込まず、むしろ貴族の農奴支配を強化する方向に動きました。啓蒙思想の本では人間の自由や人道的な刑罰を論じながら、国内の農民支配の仕組みには大きく手をつけられなかった点に、啓蒙専制君主の限界がよく表れています。
外交と領土拡大 —— ポーランド分割への関与
対外政策では、ロシアはオスマン帝国との戦争で黒海北岸を獲得し、南方への進出を進めました。
さらに重要なのが、プロイセンやオーストリアとともに行ったポーランド分割です。1772年・1793年・1795年の三度にわたる分割によって、ポーランド・リトアニア共和国は地図上から消滅することになります。
ここでも、エカチェリーナ2世はフリードリヒ2世やマリア・テレジア、ヨーゼフ2世らと並んで、ヨーロッパ東部の勢力均衡を再編した君主として位置づけられたのです。


