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戦国常勝軍団の武田・井伊・真田赤備えと他にもあった○○備え軍団

歴ブロ

鎧兜などの武具を同じ色で統一した部隊を【備え】と呼ばれていました。

特に、赤色や朱色を基調とした武具を纏う【赤備え】は有名です。
日本史上において、武田・井伊・真田の赤備えなどが知られています。こうした統一された部隊の色使いにより敵を識別しやすくし、結束力を高め、時には威圧的な効果も生み出すことができました。

どうする家康でも、武田からの井伊の赤備えが小牧・長久手の戦いで登場しましたね。

そこで今回は、赤備えについてと世界中のさまざまなカラー軍団について調べたので、紹介して行こうと思います。

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元祖・武田氏の赤備え軍団

出典:Wikipedia 山縣昌景

赤備えの元祖は飯富虎昌が指揮する部隊で、主に次男や三男たちで構成されていました。当時、家督は長男が継ぐ慣習でしたが、次男や三男の者たちは軍での戦功を積むことが出世の唯一の方法でした。

そのため、この部隊の兵士たちは一人一人が向上心が高く、それが武田の赤備えの強さの源です。

飯富虎昌の死後、この軍団の指揮は弟の山縣昌景に引き継がれました。昌景は三方ヶ原の戦いで徳川軍を打ち破り、退却させました。その後、家康は赤備えの存在がトラウマとなり、何度も夢に出たと言われています。

武田家の赤備えを引き継いだ井伊の赤鬼

井伊直政

武田氏の没落後、徳川家康はかつての家臣達たち引き入れ、山縣昌景率いた赤備え部隊も組み入れ、その指揮を井伊直政に託しました。

井伊直政は、1584年の小牧・長久手の戦いで赤備えを率いて登場。彼は鮮やかな赤い甲冑に身を包み、敵を圧倒し、その勇猛な姿から『井伊の赤鬼』と称され、多くの大名たちから恐れられました。後に彦根藩はこの赤備えを受け継ぎ、それは幕末まで続くことになりました。

また、関ヶ原の戦いでも、先鋒に予定だった福島正則を抑え、井伊直政が先陣を切ったと言われてます。

前述の通り赤備えは、自軍に分かりやすいメリットとは裏腹に敵にも容易に狙われる危険性を抱えていました。その結果、井伊直政は戦場で多くの傷を負い、関ヶ原の戦いでの傷がもとで死去しています。

さらに、1866年の第二次長州征伐では、赤備えが災いとなり、夜襲の絶好の的となり長州藩の攻撃対象とされました。1868年の鳥羽・伏見の戦いでも、彦根藩の赤備えは敵の狙いにさらされ、最終的には甲冑を捨てて逃げる結果となりました。

真田の赤備えは家康を追い詰めた!?

真田幸村

豊臣家を滅ぼし名実ともに徳川の世になった出来事が大坂の陣でした。この戦いにおいては、赤備えを率いた真田幸村が活躍します。

徳川家康は、井伊直政が亡くなって以降の赤備えは、見た目の鮮やかさだけで実戦経験が乏しいと嘆いていました。 一方で、真田幸村は使い込まれた赤い甲冑を身にまとっており、『これが真の赤備えだ』と言ったそうです。

夏の陣では、幸村が率いる赤備えが猛攻を仕掛け、馬印を倒し、家康自身も死を覚悟したと言います。家康が馬印を倒されるのは、2度目で、1回目は山縣昌景率いる赤備えによるものでした。徳川家康は生涯で2度も異なる赤備えに命を脅かされたのです。

このように、赤備えは武勇の象徴として後世に語り継がれることとなりました。

他の大名家の○○備えや世界のカラー軍団

冒頭で戦国時代は、精鋭部隊が使用する甲冑や旗指物の色を統一する色備えが行われていました。上記のような赤備えの他に、北条五色備や福祉正則の精鋭部隊も『赤坊主』と呼ばれた赤色の部隊でした。

世界に目を向けても、色分けされた部隊や軍団は多く、黄巾賊は黄色い頭巾を被っていたようですし、呉の呂蒙も軍事パレードで、自部隊を赤で統一したとも言われています。

北条五色備え

小田原北条氏は重臣の五家老衆がおり、それぞれに5つの色に分けた備え部隊がありました。特に黄備を率いた北条綱成は有名で、黄色地に「地黄八幡」の旗を使用しています。

黄備え:北条綱成

北条戦隊の黄色担当の北条綱成は家中屈指の猛将で、各地で起きた戦にはほとんど顔を出し、常に最前線で戦ってきました。その強さから、軍神・上杉謙信までも恐れたと言います。また、武田との戦いで兵力差があっても、互角の結果を残す活躍を見せました。

黒備え:多目元忠

多目氏は、後北条氏の創設期に関わった家柄です。

黒レンジャー多目元忠は軍師だった事で、戦では目立った功績はありませんが、上杉憲定との『河越城の戦い』で活躍しました。この戦いでは、突撃する北条氏康が敵を蹴散らすまで、数万の上杉軍の猛攻を耐え抜いています。

このように、華々しく軍功を上げるタイプではなく的確な指示で後方から見方を助ける、タイプの武将だったようですね。

赤備え:北条綱高

北条氏の赤備えは綱高が率いていました。

彼も北条を名乗ってはいるものの、綱成同様に他家の生まれでした。北条早雲時代からの重臣で、氏綱⇒氏康⇒氏政と4代に渡り北条氏を支えました。

戦の駆け引きが上手く、その活躍が認められて北条赤備えを率いるようになりました。

実は、江戸城の城主で、1585年に死去するまで治めていたようです。

白備え:笠原康勝⇒清水康英

1557年からは笠原康勝が務めていましたが、いつの間にか清水康英が率いていました。おそ亜希らく、康勝の養子・政尭が武田家との内通し離反した事から辞職したと思われます。

一方で康英は、伊豆水軍を束ねる清水氏の出身で、北条氏康のお守りや乳母も清水氏から排出していました。その間柄から、相談事も頻繁に受けていたようで、そのうちに五大老に就任して備えを任されるようになります。

豊臣秀吉の小田原討伐時には、2か月も奮戦しますが最終的に降伏。秀吉は、必死に戦った康英を寛容な処分を下し、命を助けています。

青備え:富永直勝

最後の青レンジャー富永直勝は、江戸城代としてその任務に就いていました。

その部下たちも太田康資や遠山綱景などの名門出身者たちが補佐しており、各地で戦が起きれば援軍として出向いていました。しかし、第二次国府台合戦と呼ばれる戦で、部下の裏切りの解決を図るために、敵軍に突撃し討ち死にしてしまいました。

世界の色分けした軍団・部隊

続いて紹介するのは世界の〇〇備えです。冒頭で黄巾賊や呂蒙の赤に触れたので、それ以外の軍隊や賊をご紹介!です。

クズルバシュ

サファヴィー朝の部隊で、赤い心棒に12の襞がある布を巻きつけたターバンが赤色で、クズルバシュというのがトルコ語で【赤い頭】と意味します。

紅巾賊

1351年に起こった農民の反乱『紅巾の乱』で、目印として紅い布をつけていた事からこう呼ばれていました。この乱から、明の太祖朱元璋が登場しました。

ほかにも、20世紀くらいまでは兵科色と言った着用する軍人が属する兵科によって色分けされていました。第二次世界大戦中のアメリカ陸軍の歩兵はライトブルー、騎兵は黄色、砲兵は緋色、機甲は緑と白。通信はオレンジと白。工兵は緋色と白などと色分けがされていました。

現在では、カモフラージュがしやすいカーキ色が採用されるが、ベレー帽などに所属部隊や兵科によって色分けがされているようです。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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