サファヴィー朝の興隆【トルコ・イラン世界の展開】<1501~1736年>
サファヴィー朝とは、1501年にイスラームの神秘主義教団の一つ、サファヴィー教団の教主イスマーイール1世が建国した王朝でイスラーム教シーア派の最大勢力『十二イマーム派』を国教に定めていました。
今回は、ティムール朝の興亡とサファヴィー朝の始まりに続いて
- サファヴィー朝がどのような王朝だったのか
- なぜ十二イマーム派を国教としたのか
- いつ頃全盛期を迎えたのか
について解説していきます。
サファヴィー朝の統治(~1736年)
イスマーイールは全イランを統一すると、イスマーイール1世としてシャーに即位しました。シャーとは古代ペルシア以来のイランの伝統的な王を意味する言葉です。また、彼は国教を【十二イマーム派】と定めました。
元々イスマーイールが指導していたサファヴィー教団自体がシーア派ということもありますが、国内を団結させようという意図があったという人もいるようです。
「シャー」の称号はイスラーム世界が拡大するにつれ一度は途絶えていましたが、古くからの伝統を引っ張り出して「イランの君主」であることを強調したわけです。
では、どうして十二イマーム派を選ぶと国内統一が出来たのでしょうか?
なぜサファヴィー朝は国教に『十二イマーム派』を選んだの?
サファヴィー朝と隣接する中央アジアにあるウズベク人によるシャイバーン朝(1500~1599年)。
シャイバーン朝は中央アジア~イランにかけてを支配したティムール朝を滅ぼした国でしたね。首都を遷都して以降はブハラ・ハン国と呼ばれるようになります。
そして、同時期の西アジアで忘れてはいけないアナトリア半島を中心としたオスマン帝国。こちらもサファヴィー朝と隣接しています。
隣接する両国は共に国教をイスラム教のスンナ派とする国です。サファヴィー朝は別の宗派を信仰することで隣国との差別化を図り、その存在感を強めて国を団結させたのです。サファヴィー朝は、この団結力を持ってトルコ系の軍事力・キジルバシュの力を最大限に高めていました。
以後、現在に至るまでサファヴィー朝の支配地域の住民たちはシーア派を信仰するようになります。これは第二次世界大戦以降のスンナ派とシーア派の対立にまで繋がりました。
サファヴィー朝の原動力となった勢力キジルバシュを解説
そんなサファヴィー朝では時にスンナ派を攻撃することもあり、オスマン帝国との激突に発展。その軍隊の主軸がキジルバシュと呼ばれるトルコ系遊牧民による騎兵集団です。
クズルバシュ(wikipedia)より
キジルバシュは日本語だと「赤頭」を意味します。彼らの着用した赤い帽子が名前の由来です。部族単位に編成した戦士集団で教団長に無条件の忠誠を誓い、命を懸けて戦いました。
1514年のオスマン帝国とのチャルドランの戦いでは火器を扱う常備軍に大敗してしまいましたが、それまでの建国までの原動力は、このキジルバシュがあってこそ。決起以降10年以上無敗を誇っていたそうです。
そのキジルバシュの有力者を地方長官に据え、行政官僚には白羊朝以来のイラン人貴族を任命して統治を行っていきます。
ところが、第2代の治世以降はキジルバシュのシャーに対する態度が変わり始めます。
- 軍功の対価を与えた事で封建領主のような立ち位置に
→ それぞれが部族の利益を求めるようになった - 教主をメシア(救世主)とする信仰 + スンナ派に対する対抗意識を持つキジルバシュを引き付けるため、スンナ派への迫害を行う
→ 住民はスンナ派のため、シャーはキジルバシュの過激な信仰を抑え始めた
こうした事が理由で徐々に忠誠心が無くなってきていたのです。
部族間で利益を求めるようになれば、キジルバシュの有力部族間の間には対立が生じ、権力抗争に発展します。次第に彼らは軍事貴族のような存在になっていきました。
なお、この混乱期に都としたタブリーズをオスマン帝国に奪われ、ガズヴィーンを都としています。
サファヴィー朝の全盛期を見てみよう
その軍事貴族になったキジルバシュを抑えたのがサファヴィー朝の全盛期を築いた第5代シャーのアッバース1世です。
アッバース1世(wikipedia)より
彼は新たにゴラームと呼ばれる奴隷兵による常備軍を組織し、近衛兵も増員。有力なキジルバシュを左遷して彼らを要職につけました。これにより王の側近による中央集権的な政治が行われるようになります。
オスマン帝国と戦ってタブリーズ・バグダード・ヘラートなどの領土の一部を取り返し、ホルムズ島からポルトガル勢力を追い出したのもアッバース一世の治世下です。
これによりペルシア湾を手中にしたサファヴィー朝は交易ルートを抑えることに成功。
そこに国内の交通網や宿を整備して周到な都市計画の元で新たな首都イスファハーンを建設すると、交易の中心都市となり「イスファハーンは世界の半分」と呼ばれるほどの繁栄を築き上げたのでした。
アッバース1世の死後
残念ながら、全盛期を築いたアッバース1世の死後のサファヴィー朝は衰退の一途をたどります。
根幹が遊牧民の国という事もあり、中央の統制が緩むにつれて各部族の独自の活動が活発化していきます。そこに財政の悪化や宮廷の側近政治による腐敗があからさまになってくると完全に弱体化していったのです。
西からはオスマン帝国に領土を奪われ、東からはアフガン(ホーターキー朝)の侵略を受け、事実上、滅亡となっていましたが、トルコ系キジルバシュのナーディルが王族を擁立し再興させるも、1736年。ついにナーディルがサファヴィー朝のシャーを廃位して自らがシャーを名乗り、アフシャール朝を創始したのでした。