インドにおける植民地争奪戦を詳しく解説
オランダ、イギリス、フランスが重商主義政策により海外に進出。当初優勢だったオランダが時代の変化と共に英仏に後れを取るようになりはじめ、交易戦争は二か国に絞られました。
17世紀のヨーロッパは「17世紀の危機」と呼ばれるほどの時代で、飢饉、疫病(ペスト)が蔓延し、戦乱と混乱が続いている状況です。この戦乱に乗っかって両国は互いに対立軸に立って争い続けました。
戦乱はヨーロッパだけでなく、インドや北米にも飛び火しています。
ここでは主にインドでどのような争いがあったのか迫っていこうと思います。
インドの状況
17世紀後半以後、ヨーロッパで大流行していたのがインド産の格安で輸入されたキャラコ(平織のインド綿布)でした。
イギリスが置いた拠点の一つとしてマドラスに置かれた理由がこれ。マドラスは綿花栽培の中心地に近い場所にありました。
手触りがよく、吸湿性もあって着心地も抜群。さらに染色も容易なうえに水洗いが可能で清潔!ということで大ブームを巻き起こしていたのです。
さらに資源が豊かで他の交易に行くにも行きやすい!とインドは戦略的にお得な場所でした。重商主義を進めていたフランスもインド進出を始めます。
1670年代前半にはマドラスに近いポンディシェリ、カルカッタに近いシャンデルナゴルを獲得しました。
インドの変化
一方でインドの方にも変化が訪れ始めます。
この頃、インドの大部分をムガル帝国が治めていましたが、第6代アウラングゼーブ帝(在位1658-1707年)の治世下に先代まで融和路線だった宗教政策から一転、他宗教を弾圧したために反発を招き、異教徒の反乱が頻発しはじめたのです。
特にアウラングゼーブ帝が亡くなった後は収拾がつかなくなり、地方豪族を巻き込んだ内乱に突入していきました。
英仏はこの内乱でも違う勢力に肩入れしつつ、影響力を増やしていくのでした。
第一次カーナティック戦争(1744-48年)
インドで反乱が続き、独立勢力が生まれるようになった中で、ヨーロッパで既に始まっていたオーストリア継承戦争から連動して起こったのが第一次カーナティック戦争(1744-48年)です。
この時点で既にイギリスの拠点マドラスとフランスの拠点ポンディシェリに近い場所で、ムガル帝国から独立した者同士が一触即発の事態になっていました。
そんな緊張感の走る中、近くの海上でイギリス船がフランス船を捕らえ(オーストリア継承戦争で完全に戦争状態にあったため警戒心マックスの状態でした)始まったのが第一次カーナティック戦争です。
第一次カーナティック戦争ではインド経験の長いフランスのデュプレクスが総督となってイギリスの拠点マドラスを占領しますが、オーストリア継承戦争が終了し講和条約が結ばれたのを機に終結しています。
なお、この時に結ばれたアーヘンの和約によりマドラスはイギリスに返還されました。
第二次カーナティック戦争(1749-54年)
続いて起こったのは第二次カーナティック戦争。ムガル帝国が任命した太守の地位を巡って起こった戦いです。
デュプレクスが太守を傀儡化させていましたが、同じく第一次にも参戦していた軍人クライヴ率いるイギリス軍により、51年にフランスの要塞・アルコット要塞を陥落させられています。
が、この時の戦争をデュプレクスによる独断の結果だとして解任し、本国に帰還させたことでフランスはベンガル地方政権と組んでイギリスと戦ったプラッシーの戦い(1757年)に敗戦。その敗戦による劣勢を取り返すために行なった第三次カーナティック戦争(1758-68年)で敗戦。
インドにおけるイギリスの優位を確立していったのです。