マラーター王国について簡単に<1674~1849年>【インド各国史】
マラーター王国とは、インドのデカン地方(中南部)を支配したヒンドゥー教を信仰する王朝です。
当時はイスラム王朝のムガル帝国が異教徒を抑圧する方向に向かっていた時代。中部インドのデカン高原を中心に、ムガル帝国に反発する同志たちによってマラーター同盟が築かれていましたが、その中心となった国でもあります。
今回は、そのマラーター王国についてちょっとだけ迫っていきます。
マラーター王国の建国(1674年)
マラーターとは中世に現れたカースト集団で、自称クシャトリヤ(王族・武人階級)出身としています。
シヴァージー(wikipedia)より
デカン北西部の山岳地帯で、そのマラーター勢力を率いたのがシヴァージー(1627~80年)です。インド内に多くあるイスラーム王朝に対抗しようとしています。
彼は武勇で知られ、ゲリラ戦を中心にイスラム王朝ビジャープール王国内に独自の政権を確立。1674年に即位しマラーター王国を建国すると、ムガル軍とも戦って大いに苦しめました。
ムガル帝国の当時の皇帝は6代目で厳格なスンナ派の信者アウラングゼーブの治世下です。
マラーター王国の建国時にはデカン高原西部とアラビア海岸のみだった領土は、シヴァージーが亡くなる時期にはかなり広がっていました。
シヴァージー(wikipedia)
『マラーター王国の勢力(シヴァージーの死時)』より
デカン戦争の開始(1681~1707年)
シヴァージーは後継者を決定しないまま亡くなったこともあってムガル帝国優勢の時期が続きます。シヴァージーの死後に起こった混乱をチャンスと見たアウラングゼーブはマラーター王国を攻め込むために南下。デカン戦争が始まりました(この時のマラーター王国の王は結局シヴァージーの息子がついています)。
この戦争での戦線は膠着し4年近く長引いたため、アウラングゼーブは先に同じイスラーム王朝のビジャプール王国とゴールコンダ王国を制圧し併合し力を蓄えておこうとしました。こうしてムガル帝国は最大版図を獲得するに至ります。
その隙にマラーター王国も南インドにあったヒンドゥー王朝(マイソール王朝)を落として力をつけようとしましたが、相手がムガル帝国と結びつくとマラーター王国の王は捕らえられ処刑されてしまいました。
これによりマラーター王国は危機を迎えますが、跡を継いだ幼い(おそらく3歳)君主の摂政となった母ターラー・バーイーが凄かった。1700年代に入って攻勢に転じ、アウラングゼーブに奪われた多くの砦を取り返していきました。
1707年にはアウラングゼーブ帝が亡くなり、長く続いた戦争に嫌気がさしていた帝国軍は撤退。マラーター王国は危機を乗り越え、再度強力化していったのでした。
なお、アウラングゼーブが亡くなり勢力を拡大したのはマラーター王国だけではありません。イギリス東インド会社が、その混乱の中で領主たちに軍事支援と財政支援を行い支配地域を拡大しています。この東インド会社の勢力拡大がマラーター王国の命運を変えることとなるのです。
シヴァージーの再来
バラモン(司祭階級、カーストのトップ)出身の宰相バージー=ラーオ。若干20歳で、マラーター王の意志の元で宰相だった父の地位を継いでいますが、武勇・知力に長け、人望もあって兵士からの人気も非常に高かったそうです。
バージー・ラーオ(wikipedia)より
そんなバージー=ラーオを中心に有力諸侯達が集まりマラーター同盟を立ててムガル帝国を圧倒すると、北インドまで支配下に置くようになりました(下の地図で言うと、黄色の部分がマラーター同盟も含むマラーター王国の領土です)。
マラーター王国(wikipedia)より
1760年のマラーター王国の領土
バージー=ラーオの死後、息子が宰相位に着任。こちらも国王が認めた上での即位でした。その国王は1749年に亡くなりますが「国の全権を宰相に譲る」としてマラーター王国での権限は王ではなく宰相が握ることになりました(王という存在自体は残っています)。
他国との衝突と滅亡
そんな最中、南アジアの西隣に位置する中央アジアのアフガニスタンで18世紀半ばに成立した王朝ドゥッラーニ朝が南下し衝突する事態に。デリー近くで起こった第三次パー二ーパットの戦い(1761年)大敗し、北インドの覇権はアフガン勢に移るかと思われたのですが...
ドゥッラーニ朝は本国で反乱が起き、Uターン。
Uターンのタイミングが悪かったのか北インドでの支配は不安定なものとなってしまい、裏で力をつけ始めていたイギリスが最も美味しい思いをすることになります。
一方のマラーター王国に関しては敗戦によりマラーター同盟の権威が薄れて各諸侯達が事実上独立状態に。結果、国が衰退するという手痛い事態に陥りました。
近隣王朝がマラーター王国の領地を奪おうと攻め込んだだけでなく、時が経つにつれて宰相中心の体制が崩れ始めるキッカケにもなっています。宰相のキャスティングボードを一人の家臣ナーナー・ファドナヴィースが握るようになったのです。
そうした背景があったうえで宰相の地位を巡る諍いが同族同士で起こります。
優秀でしたが病気がちな4代目宰相が子のないまま亡くなると、ずっと兄を補佐していたナラーヤン・ラーオが宰相の地位につき、その摂政に叔父がつくことになるのですが…
この叔父が非常に野心家でナラーヤン=ラーオを暗殺してしまいます。叔父が暗殺したのは明らかでしたが、証拠がなく宰相の地位には叔父ラグナート=ラーオが就くことに。
ところが、ナラーヤーンの未亡人が子供を産んだため、ラグナート=ラーオが廃位されナラ―ヤンの息子のマーダヴ=ラーオ=ナラーヤンが7代目につくことになります。
この時、マーダヴ=ラーオ=ナラーヤンを任命したのがナーナーでした。宰相位を奪われたラグナートはイギリス東インド会社と手をくみ兵員の援助をしてもらう条約を結ぶと、7年にも及ぶ第一次マラーター戦争を行っています。
上記のような形で度々イギリス東インド会社の介入を許しながら、3度に渡ってイギリス東インド会社との戦争マラーター戦争が勃発。戦争の最後はイギリス東インド会社に敗れ、デカン地方の支配権が奪われてしまいます。
その戦後処理の結果、マラーター王国はイギリスに従属する形で「サータラー藩王国」として名を変えて存続。嫡子も当然いなかった9歳のサータラー藩王が亡くなると、養子も認められずに継承国家すら途絶えてしまったのでした。