西アジア・インド

ティムール朝の興亡とサファヴィー朝の始まり【トルコ・イラン世界の展開】

歴ブロ

ティムール朝は1370年に中央アジア~イランの辺りで起こり、トルコ・モンゴル系のイスラーム教国家として成立した国です。その後起こったサファヴィー朝イラン西部で起こった宗教勢力が元々ティムール朝の存在していた場所まで進出して興った国家です。

今回は、そんなティムール朝とサファヴィー朝の誕生について解説していきます。

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ティムール朝の成立~滅亡まで(1370~1507年)

14世紀半ば頃、中央アジアにあったモンゴル帝国由来のチャガタイ=ハン国が東西に分裂しました。東には伝統的な遊牧民生活を残していたモグーリスタン=ハン国ができ、西ではイスラーム化が進んで定住生活をする東とは別の文化圏ができるようになります。

そんな西チャガタイ=ハン国では、ハーンではなく遊牧貴族(アミール)が実権を握り、抗争を始めるように。その中から出てきたのがティムール王朝。中央アジア〜イランにかけての地域を支配しました。

ティムール
ティムール(wikipedia)より

もともとティムール朝の建国者ティムールは盗賊のような活動を行って、自己の勢力を築いていきました。

チンギス=ハンと同祖の家系バルラス部族の出身ですが、すっかり没落。父の代まで埋もれていたところを自らの才覚でのし上がった軍事の天才と言われています。

後に大帝国を築くオスマン帝国と【アンカラの戦いで対戦すると、当時のスルタン・バヤズィト1世を捕虜にして滅亡寸前にまで追い込みました。以後、イラン・西アジア・インドへ絶え間なく征服戦争を行います。

そんなティムールが西の勢力を抑え込んだ後に向かったのは東の大国・でした。

れきぶろ
れきぶろ

明はモンゴル系の王朝・元の政治の乱れによって起こった反乱『紅巾の乱』に参加し台頭した朱元璋が1368年に建国した国です。

ところが「いざ明に向かおう!」という中で1405年に病没。

その後は遊牧民の伝統にのっとり、一族の間で領土を分封して実力者が君主に付く形を取ったのですが…

初代ティムールの死後の王朝の行方

一族で領地を分配、なおかつカリスマ的に強い指導者が一気に領土を拡大した反動によりティムールの死後は政治的に分裂してしまいます。

当然そうした混乱期に周辺地域はざわつきました。

西方辺境(東アナトリア~イラン西部)ではテュルク系の遊牧民族の活動が活発化し、アゼルバイジャン地方(カスピ海西岸)では黒羊朝(カラ・コユンル)が独立(後述)。さらに支配下にあった部族の独立だけではなく、ティムール朝の北方から異民族のウズベク人が侵入しはじめます。

結局、ティムールが拡大した中央アジア一帯を統一できたのはシャー=ルフ(在位1409~47年)アブー=サイード(在位1451~61年)のみでした。

そのアブーの死後にティムール朝は分裂。「首都をサマルカンドとする政権」と「首都をヘラートとする政権」に分かれ、どちらの政権も1500年代にウズベク人(シャイバーン朝)により滅ぼされています。ちなみに、このシャイバーン朝はイスラーム教スンナ派の王朝です。

なお、サマルカンド政権の君主バーブルは、ウズベク人により故郷を追われ何度か故郷を取り返そうと後述するサファヴィー朝と手を組み侵攻することもありましたが、情勢の変化を見て諦め、インドに移ってデリーに入城するのに成功します。1526年にはムガル帝国を創始しました。

Q
ウグル=ベク天文台って?
ウルグ=ベク天文台
Ulugh Beg Observatory(wikipedia)より

1447年〜1449年の短期間に君主についたウグル=ベク。ティムール朝において創始者のティムール以外で最も有名な君主かもしれません。天文学者としても著名であり、中世イスラム世界有数の天文台と言われています。

黒羊朝と白羊朝の独立

上述したように、ティムール朝の衰退によって同国に抑えられていたトルコ系民族の作った黒羊朝が独立したほか、白羊朝(アク・コユンル)も独立。ティムール朝と黒羊朝が争っている間に白羊朝が黒羊朝を壊滅させています。

※黒羊朝がティムール朝を破り最盛期を築いている頃、白羊朝は黒海の沿岸部に勢力を築いていたキリスト教国・トレビゾンド帝国(第4回十字軍で一度瓦解したビザンツ帝国の残存国家)の皇女との姻戚関係を結び、力を蓄えていた

白羊朝が東部アナトリア~イラク、アゼルバイジャン、イラン西部までを支配し「もう少しでティムール朝も堕とせるか?」となった頃、西のアナトリア半島を中心にオスマン帝国が台頭。当時のオスマン帝国はメフメト2世の治世下にあり、火器の装備に優れたオスマン帝国の常備軍に敗れました。

そこに最盛期を築いたスルタンの死亡も重なって、王位をめぐる争いが内部で発生。徐々に衰退していくことになります。

※ちなみに同盟を組んでいたトレビゾンド帝国もオスマン帝国に滅ぼされている

サファヴィー朝の誕生(1501年)

イスマーイール1世
イスマーイール1世(wikipedia)より

1501年、ティマール朝のサマルカンド政権がなくなった直後にサファヴィー教団と呼ばれる教団の教主イスマーイール1世が建国した王朝です。イスラム教シーア派の最大諸派【十二イマーム派】の国を築き上げました。

サファヴィー教とは何?

イスラーム世界では10世紀頃以降、イスラム教の世俗化・形式化を批判する改革運動『スーフィズム(イスラム神秘主義)』が生まれ始めていました。

当時はイスラーム王朝が拡大していた時期です。ウラマーと呼ばれる伝統的にイスラームの学問を修めた知識人たちが官僚化し、イスラーム諸学が厳密に体系化され「形ばかり」と感じる人が一部から出始めたのです。

そうした人々はイスラームの原理に戻って禁欲的に過ごし、精神を高めて神との一体感を追求していきました。やがて12世紀後半にはスーフィズムが神秘主義教団(タリーカ)として組織され、各地に道場(テッケ)が設けられると、民衆にも浸透するようになります。

その一つがサファヴィー教団です。

ティムール朝がまだ存在していない13世紀末~14世紀初頭にかけて、ペルシア一帯はモンゴルの地方政権・イルハン国が支配していたイラン北西部のカスピ海沿岸で誕生したと言われています。

元々はスンナ派を信仰していたようですが、シーア派の多い地域を拠点にしていたこともあってシーア派の神秘主義教団になっていました。

サファヴィー朝の誕生

サファヴィー教団は、サファヴィー朝の始祖イスマーイールの祖父が教主を務めていた時代から世俗権力との関りを強くし、政治権力を獲得する方向に向かっていました。

祖父は息子に白羊朝のスルタンの娘との結婚させることを決めています。白羊朝の方も緊迫するオスマン帝国の勢力拡大を睨み、サファヴィー教団を懐柔しようとしていたのです。

※オスマン帝国との戦いより前に結婚していたようなので、訂正します

その二人の間に誕生したのがイスマーイールでした。

ところが、サファヴィー教団の社会的影響力が増すにつれて白羊朝は教団を敵視。戦いに発展するようになっていきます。イスマーイールの父兄も白羊朝との戦いで落命しました。

そうした関係性の白羊朝と教団でしたから、イスマーイールは兄の死後、教主の地位になると遊牧民の信者を7000人ほど集めて白羊朝を討つため挙兵。翌年には白羊朝の都タブリーズに入城し、さらに北部からやってきていたウズベク族の建てたシャイバーン朝を撃退。シャーバーン朝の南下を防ぎました。

こうしてイスマーイールはイラン全域の支配権を握ったのです。タブリーズはそのままイスマーイールの建てた国の都となっています。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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