明の初代皇帝・洪武帝の統治はどんなもの?<1368~1398年>【中国史】
元の政治が乱れて紅巾の乱が発生、群雄割拠になるパターンかと思われた中で紅巾軍の武将の一人・朱元璋が明を成立させたのは以前お話しした通りです。
今回は、その朱元璋がどのように国を統治したのかを詳しくまとめていきます。
明の成立と統治
貧民出身の朱元璋が反元勢力の主力・紅巾軍に一兵卒として参加したのは25歳の頃。16年の苦闘の末に洪武帝として即位。王朝・明を創設しています。
江南を落としてからの発展して統一した王朝のため最初の都を金陵(南京)とした他、一世一元の制をとっており、皇帝の諡がそのまま年号となりました(光武帝の頃の年号は洪武です)。
中国では約240年ぶりの漢民族による統一国家。異民族支配が続いた中で民族意識が芽生えはじめていましたが、モンゴル系王朝時代に入ると、漢民族が主体の地域にも拘らず差別的な支配を受けたこともあって完全に民族意識が生まれていました。
朱元璋は、その民族意識を利用して支配体制の確立と国土再建に取り組んでいきます。
※最近、モンゴルの身分は厳格ではなかったという説も出ているようです。
朱元璋が統治のため始めに行ったこととは?
朱元璋の目標は、君主独裁による中央集権国家の確立です。そのために行ったのが
- 中書省(政治の最高顧問で詔勅を起草する機関)とその長官(=丞相)を廃止
- その下に設置されていた実務機関・六部を皇帝の直属に
- 丞相の代わりに殿閣大学士を政治顧問とする
- 軍事を統括する五軍都督府も皇帝直属に
- 監察機関・都察院を置き、皇帝直属に
- 地方では、布政使(行政)・都指揮使(軍事)、按擦使(監察)が皇帝直属
- ⑥の下に府・州・県を置く
実務機関を直属にすることで、間に挟まる機関が力を持ちすぎないように工夫していました。
六部 | 吏部 | 兵部 | 刑部 | 礼部 | 戸部 | 工部 |
---|---|---|---|---|---|---|
仕事内容 | 役人の罷免 | 軍事 | 司法 | 祭祀・教育 | 財政 | 土木建築 |
ちなみに、中書省やその長官の丞相、六部は唐代(一部は三国時代の魏、隋で廃止)から使われた制度で、殿閣大学士も(唐末期)の時代に創置された地位になります。
- 唐代の政治体制
宋代でも中書省は中央に軍事の最高機関・枢密院と共に置かれましたが、唐代の頃と違って三省【尚書省(行政担当、この下に六部が属する)・門下省(命令書を審議)・中書省(命令書の草案を作成)】は有名無実化。
門下省は中書省に吸収され、その下に実務を司る六部が置かれますが、それすらも名前だけ残っているのが実情だったようです。その分、皇帝の権力が高まりましたが。
元代になると、中書省は再度権力を獲得。他にも枢密院や御史台といった漢民族の伝統的な行政機構を採用して地方にも出張機関の行中書省を置きましたが、明代は初期の段階で中書省を廃止。宋の時以上に皇帝が権力を握る体制に変えていきました。
【明代の政治体制】
こうした皇帝に権力集中させる体制を築いた裏では、建国の功臣を少しでも疑わしい場合は罰していました。秘密警察を使って、たびたび数万人規模の粛清も行っています。
なお、洪武帝の頃の殿閣大学士は位階の低い相談役に過ぎませんでしたが、息子・永楽帝の代の時に置かれた内閣大学士に吸収されます。第5代になってからは、かつての宰相と同じ役割を持つようになりました。
中央で行われた政策とは?
朱子学を官学として科挙制を整え、新たに明律・明令を制定しました。
※律:笞(ち)杖(じょう)徒(ず)流(る)死の五刑を中心とした刑法
※令:官制、行政法規を主体とする行政法・民法
明代で行われていた政策とは
元々の生まれが農民だったこともあり、農民の統治は歴代の中国王朝の中でも非常に優れていたのが洪武帝でした。
まずは県の末端組織として、村落の自治組織を作り上げます。農民110戸を一つのグループ一里という単位とすることを決めました。
その中で裕福な富戸10戸を里長戸に、残りの100戸を更に10の甲に分けます。各甲の中から首甲戸1名を置き、治安維持と税収に務めさせています。おな、毎年同じ人が行うとマズいので、毎年輪番で選ばれました。
これを里甲制と呼んでいます。
戸籍も何もなしに税を徴収することは難しいことから、
- 戸籍台帳、兼、租税台帳:賦役黄冊
- 土地台帳:魚鱗図冊
を使用して、取り残しがないように全国的に施行しました。
各里で作成されたものは州県ごとにまとめられ、最終的には中央の戸部で保管。安定した国家財政に寄与しました。
また、農民たちが立ち上がらないように里内の人望のある長老・里老人を通して儒教・道徳を簡単に分かりやすく覚えさせました。これを六諭と呼びます。
詳説世界史図録 山川出版社より
- 父母に孝順になれ
- 目上を尊重せよ
- 郷里に和睦せよ
- 子孫を教訓せよ
- おのおの生理(生業)に安じ
- 非為をなすことなかれ
後に日本で寺子屋の教科書になったり明治の教育勅語に影響したりしています。
洪武帝による軍事政策
軍事面では唐の府兵制を参考にして衛所制という制度を作り上げました。農民とは別の戸籍【軍戸】を作って兵役を課し、その責を兵部に所属させます。
軍戸は分担して軍務につきますが、その際、正丁(成人男性)112人で百戸所、10の百戸所で千戸所、5つの千戸所を一衛として其々の任務に当たりました。衛は都指揮使に統率され、都指揮使は更に中央の五軍都督府に統率されています。
彼らは世襲で受け継がれ、自足の農業を行う傍らで軍事訓練も行う兵農一致の体制をとりました。
明の初めの頃は329衛ほどが所属し、後にもう少し増加することになります。
洪武帝による外交政策
明が成立した14世紀頃、隣国の日本でも政治形態が代わり倒幕に関わる争乱と南北朝の争乱で統率が利かなくなっていました。結果、生まれたのが倭寇と呼ばれる海賊です。
日本から船に乗り、中国沿岸を襲い略奪行為を行いました。
この倭寇が、明が成立して間もない状態で洪武帝に対する反対勢力と結託されることを危惧して海禁政策を行います。
海禁政策とは、朝貢貿易は許すが民間の商船は認めない方針を定めたのです。ということで、明と交易をしたい近隣諸国は朝貢関係を結びました(第3代皇帝の代になると、洪武帝の時よりも冊封・朝貢関係を明と結んだ国が倍増しています)。
元の時代には海上交易を目指して沿岸部に沿って侵攻したように、海上貿易は非常に盛んだったわけですが…
そうした海上交易に従事した沿岸部在住の人々は仕事を失ってしまい、死活問題に。結果、沿岸部に暮らしていた中国人の中には、東南アジアへ移住したり密貿易を強行しようとしたりする者も出てきており、何度も海禁令が出されたようです。
以上のように、洪武帝は周囲にあまり権力や隙を与えないような統治を行っています。
彼には26人の男児がいましたが、息子達も例外ではありませんでした。国内の重要拠点や北辺のモンゴルへの備えとして洪武帝の息子達を諸王にしますが、基本は実権を持たせないまま。
ただ、一部の危険な箇所に配置した諸王にだけは軍事権などを与えていました。
これが洪武帝の崩御後に大きな事件を巻き起こすのですが、また次回お伝えしようと思います。